二 『二〇二三年』
逃げるように麻露の部屋を去った。朝日と同じ空気を吸って生かされていることが苦しかった。
リビングに下りると、幸茶羽だけが欠けた義姉妹がテレビに釘付けになっていた。視界に入った麻露も、結希の方を見なかった。
「あっ、結兄! 良かった、あとちょっとだぞ!」
「ちょっとって?」
瞬間、カウントダウンが聞こえる。なるほど、確かにあと少しだ。
「八!」
去年の今頃、おんぼろアパートの隅で丸まって眠っていた。
「七!」
こんな大勢の家族に囲まれるなんて、思ってもみなかった。
「六!」
ここに来たからあんなに大勢の〝家族の家族〟に出逢った。
「五!」
自分の時間が六年前で止まっていたことを知ることもなく。
「四!」
救ったものにちゃんと価値があったことを知ることもなく。
「三!」
漠然とした不安に包まれたまま死ななくて本当に良かった。
「二!」
怒涛の二〇二二年が終わる。
「一!」
まだ見ぬ二〇二三年が来る。
「ゼローッ!」
楽しそうな椿の声に合わせて──
「あけましておめでとー!」
──今だけは笑う義姉妹の新年の挨拶に応えた。
「あけまして、おめでとうございます」
カウントダウンまで起きていたことも、夜中に新年の挨拶をしたことも、生まれて初めてのことだった。
「結兄、朝日さんは?! 一緒に神社行こうぜ!」
「あ……」
なんと言おう。その一瞬の迷いを麻露は見逃さなかった。
「そのぉ〜……」
何か言わなければ、そう思った瞬間に手先に電気が走る。静電気かと思ったが何かに触れたわけではない。
「なになに? 親子喧嘩〜? 新年早々やめてほしいわぁ〜」
指先を動かし、なんだったのだろうと首を捻る。そんな様子があまりにもおかしかったのだろう。画面から結希に視線を移していた義姉妹全員は──自分の指先に視線を落とした。
『コレハ……』
「ママ?」
ママまで違和感を覚えたのか、腰を上げてベランダの方へと視線を移した。
「ッ!」
まさか──そう思って裸足でベランダの外へと飛び出す。足の裏はもちろん、剥き出しの肌までその冷たさで痛み出す。
「結希?! ちょっ、どうしたのよ!」
だが、そんなことを気にしている余裕はなかった。空を見上げ、雪が降るか降らないかの曇天を凝視する。
「…………何か、あったの?」
振り返り、母親がいないことを確認した。義姉妹全員戸惑っているが、結希の奇行に引いたわけではないことは見てわかった。
「誰か母さん呼んできてくれ!」
すぐに麻露が動き出した。他の姉妹たちは靴下のままベランダへと飛び出して、結希と同じ空を見上げる。
「何が見えるの? アンタには」
隣に立つ愛果が白い息を吐いた。
「見える、と言うか……」
最早指先だけではない。全身に電気を纏っているような感覚がする。
「……ピリピリする」
「ピリピリ?」
「……わかる。なんか、臭いよね」
「いや臭いとは思いませんけど」
「えぇっ?! ねぇねぇ、誰かワタシの言うことわかるよね〜?!」
「わかちゃんの言うことはちょっとねぇ。わかちゃんって私たちの中で一番妖怪の血が濃い子だしぃ? 感覚が全然違うんだよねぇ」
「そう言う二つ持ちのあんたの意見はどうなんですか」
「うわ辛辣ぅ。……けど、心がすっごくざわざわする。嫌な予感がするのは確かだよ」
上手く言葉にはできないが、索敵能力に優れた他の姉妹の意見を聞いているとこの感覚が間違いではないのだと思えてくる。
「……心春は?」
この土地にこべりついている精霊の声を聞くことができる心春は、唾を飲み込んで不安そうに結希を見上げた。
「みんな、すごく怯えてる。ねぇ、お兄ちゃん、ぼくも怖いよ。何か……良くないことが起こる気がする」
「え? 良くないことってどういうことなの? 阿狐頼絡み? それとも……ただの妖怪のそれなの?」
「なんとも言えませんが、その……」
「なんですか? 結希くん。言ってください」
「……前回のあれで、結界破りが全部終わったんです」
「終わった? 一体どういうことじゃ? 結界はまだまだたくさんあるじゃろう?」
「そうだよ! それに、破れても結兄がちゃんと張り直したし……」
「一回破ったらもうじゅーぶんなんだろうねぇ。くひひっ、やられたなぁ」
実子の亜紅里だけはすべてを語らなくてもわかったのだろう。笑っているのに笑っていない。阿狐亜紅里の本来の顔をしている。
「結希君!」
「母さん!」
同じくベランダに飛び出した朝日は、全員がいる柵の傍まで走ってきた。
「どう……すればいいと思う?」
どう思うのかは義姉妹たちにさんざん聞いた。欲しいのは、対策だ。
「すぐに結城家に連絡して。あっちは気づいていると思うけど、まだ気づいていない陰陽師の方が多数だと思うから……すぐに新年会という名の集会が開かれると思うわ」
「朝日さん、まだ何かが起きたわけではないのか?」
縋るように麻露が問うた。そんな麻露を見たのは初めてだった。
「えぇ。けど、見て」
朝日が指差した佳月へと全員が視線を移す。
「瘴気よ。空気がいつも以上に淀んでいる」
「ほんとだ……よく気づいたな、母さん」
数日前まで町の外にいたくせに。そう思って父親どころか未だに母親にも敵わないのだと結希は思った。
「貴方たちよりも長くこの町で生きてきたもの。みんなもすぐに実家に連絡を。現頭首は貴方たちだろうけど、旧頭首や、他の家族にも知らせてあげて。決戦の日は近いわよ」
「うぇっ?! けど、アタシ……」
ほとんどの義姉妹がスマホを取り出して距離を空けていく中、椿と月夜だけがその場に突っ立ったまま困惑していた。
「あ……八千代には俺から連絡を入れる。椿ちゃんはちょっと待ってて、和夏さん!」
視線だけを自分に移した和夏に向かい、「真璃絵さんの! 麗夜さんに連絡お願いします!」と声をかける。
頷いた和夏の代わりに前に出たのは、連絡する相手がいない亜紅里だった。
「鬼寺桜家にはあたしが連絡入れとくよ。頭首として交換してきたからさ」
「なら頼む。あとヒナギクにも」
「あぁ、そうだね。ヒーちゃんだけ仲間外れにするとこだった」
「あとは仁壱と雷雲さん……」
「そっちは私が入れておくわ」
「ん、了解」
朝日に返事をし、実家に一度も帰っていない椿と月夜の申し訳なさそうな表情を視界に入れる。だが、二人に構う暇はなかった。
現頭首である涙は新年の挨拶をすることなく結希の話を聞いて了承する。すぐ傍にいたのだろう、紅葉の声が聞こえてきた。
「あと伝言。火影に鴉貴家に連絡しろって言っといて」
すぐに通話を切り、今度は陰陽師の涙と違って話が通じるのか疑わしい八千代へと電話をかける。
『もしもし、結希くん? あけましておめでと……』
「あけましておめでとう八千代! 悪い、緊急事態だ!」
普通に新年の挨拶だと勘違いしていた八千代の思考を無理矢理変えさせ、結希はこの数分の間に起こった出来事を話していった。
「他の家にも連絡は入れていて、もしかしたら新年会の時に話すことになるかもしれない。何もわからないと思うけど、現頭首として──生徒会として、俺たちの傍にいてほしい」
『そう……だね。理解できていない部分はたくさんあると思うけど、みんなの隣に立てるように僕なりに頑張るよ』
「あぁ、ありがとう」
『こちらこそ。着いたらすぐに会いに行くね』
電話が切れた。これから初詣に行く予定だったが、それどころではなくなってしまった。
既に電話を終えていた義姉妹たちが、未だに話をする朝日の元へと集っていく。朝日の隣にいた結希は、「わかったわ、雷雲」と言う朝日の声を聞いて顔を上げた。
「みんな、今すぐ小倉家に行きましょう」
「え、なんで? 百妖家じゃないのか?」
「雷雲がみんなに……特に結希君に話があるって言ってるのよ」
「俺に?」
頷いた朝日は依檻と歌七星に車を出させ、風丸神社の駐車場に停めさせる。
深夜だと言うのに初詣にきた客は何百人かおり、小倉家の親戚たちが対応に追われていた。その中に、雷雲や陽縁、風丸などの本家の人間の姿はない。客の間を縫って隣接する小倉家のインターホンを朝日が押すと、すぐに雷雲が顔を出した。
「朝日、ありがとう」
「構わないわ。雷雲」
母親のことを旧友を見るかのような目で見つめる雷雲は、そのすぐ後ろに立っていた結希に視線を移して表情を曇らせる。元々明るい人ではないが、心做しか顔色も悪い気がした。
「皆さんも、ありがとうございます」
頭を下げられた。わけがわからないままに中へと通され、居間でもなく、雷雲の部屋でもなく、風丸の部屋へと通される。
「風丸……?」
風丸は、布団の中にいた。頬を赤く染め、荒く息をし、苦しそうな表情を浮かべながら布団を握り締めている。
「おまっ、風邪でも引いたのか?」
駆け寄ると、風丸の深海色の瞳が自分の姿を朧気に捉えた。
「ゆ、き……」
本当に苦しそうだ。ちゃんと薬を飲んで寝た方がいいと思うほどに。
「どうしたんだよお前! 寝ろ! 早く!」
膝をついて、起き上がろうとする風丸を押し倒した。抵抗する風丸を叱って、変わらずに両肩を布団に押しつける。
「……結希さん、違うんです」
振り返ると、雷雲と──義姉妹全員が風丸の部屋に入って不安そうに風丸のことを見下ろしていた。義姉妹を掻き分けて前に出てきた亜紅里は、「ぐっちー」と声をかけて結希と同じように膝をつく。
「違うって?」
「風邪では、ないんです。一週間前からこの状態なんですけど、もう、どうしようもなくなって……」
「一週間前から?! 病院には行ったんですか?!」
「ですから、そういう類のものではなく……」
雷雲にしては珍しく歯切れが悪い。まさか、そう思って一週間前の出来事を思い出す。
「妖怪関連、ですか?」
「それに近いですね」
ならば自分の専門分野だ。風丸を苦しめる妖怪は一体どんな奴なのだろう──
「風丸は、土地神──風之万流命なんです」
──唯一の親友を救いたいと思った。その手立てを探る前にその思考を遮られた。
「……え?」
「カゼノマルノミコトは、六年前の百鬼夜行──その時に力を使い果たしてこの世界に堕ちて来たんです。それを拾ったのが私なんです」
「風丸、が?」
「土地神?!」
義姉妹全員驚いていた。あの朝日も知らなかったようだった。
「このことは陽縁以外の誰にも話していません。本人もそのことを知らないんです。話すつもりはずっとありませんでした」
「今になって話したということは、やっぱり……」
「そう。町全体を覆う結界──それの起点である結界がすべて破られたせいで、風丸がここまで弱ってしまった。土地神が、悲鳴を上げているんです」
「風丸!」
ぽかんと口を開いて驚いていた風丸は、声をかける結希に視線を移して眉を下げた。頭が上手く回っていないにも関わらず、何を言われたのかは理解できたらしい。涙目になって、救いを求めるように手を上げてきた。
「ぐっちー……」
その手を握り、亜紅里は呟く。瞬間、風丸が苦しそうに声を上げた。
「ああああああああっ!!!!」
神だと知らされた風丸に近づく義姉妹はもういない。この土地の住民は、今でも信仰すべき存在として土地神のことを崇めていた。
六年しか記憶のない結希や人間に育てられなかった亜紅里はそうではなかったが、土地神とは気軽に触れてはならぬ尊い存在だったのだ。
「うそ、でしょ……?」
依檻だけが、口を覆ってそう声を漏らした。




