十九 『ハッピーバースデー』
息をするように目を覚ました。ぼやける視界の中、誰かが結希の目覚めに気づいて顔を覗き込む。刹那、藍色の髪が結希の頬に軽く触れた。
シャンプーの香りがするこの藍色の髪は知っている。幼馴染みの明日菜だ。明日菜と思い出して、結希は必死に記憶を辿る。最後の記憶は愛果と結界を張った時だった。
「……あ」
ふふっ、と自分の顔を覗く女性の声が漏れる。
「ざぁんねん。明日菜ちゃんじゃなくて熾夏お姉さんでした〜」
結希の視界に映ったのは、白衣を身に纏った奇抜な格好の医者──熾夏だった。
結希の心を覗いた熾夏は、にやにやと笑って足を組み替える。瞬間、青いミニスカートの中に潜む太腿のつけ根が見えた。
「……ッ!」
結希が顔を逸らす意味を熾夏は知っていたが、照れることはなかった。
「熾夏さん、どうして」
「ここが妖目総合病院で、私が弟クンの主治医だからだよ」
「百妖家のみなさんは──学校は、結界はどうなったんですか?」
「みんな無事。結界の方もちゃんと張れてたから問題はないよ。頑張ったね、弟クン」
熾夏は結希の頭部に手を置いて、撫でた。それがあまりにも自然な動作で、結希は咄嗟に反応できなかった。
「子供扱いしないでください」
なるべく落ち着いた声を出して、熾夏の意外に小さな手を払う。
「子供だよ。君は私の弟だから」
不貞腐れて俯く結希に、熾夏は裏表なく微笑んだ。結希は視線を伏せ、逡巡した後に再び尋ねる。
「あの狐の少女は……」
ほんの一瞬だけ、それも微妙に熾夏の口角が上がった。熾夏は苦笑して、参ったように後頭部を掻く。
「ごめん。逃がしちゃった」
視線を上げると、熾夏の片目と目が合った。
「いやぁ、あんな大口叩いちゃったからすっごく言い難いんだけどね〜」
そう言いつつも、言葉は熾夏の口から嘘のように流れてくる。なんと言っていいかわからずに考えあぐねていると、話題を無理矢理変えるかのように熾夏がベッドの傍に置かれたパイプ椅子から立ち上がった。
「さてさて。弟クン、調子はどう?」
「調子……?」
「まさか、背中に大火傷を負ったこともう忘れたの?」
呆れたように尋ねる熾夏の言葉で、初めて背中に意識を向けた。確かに、僅かだが疼いている感覚がある。
感じたことを言葉にすると、熾夏はふんふんと頷いて結希を見据えた。刹那、瑠璃色の片目が今までになく存在感を放つ。
視られている、結希は直感でそう思った。
「異常はないね。このままだったら今週末には退院かな」
「今週末って……今日は何日なんですか?」
結希は体を起こそうとしたが、熾夏に胸板を軽く押されて横になった。
「四月十八日。弟クンがこの病院に運ばれて十日くらいかな?」
「そんなに経ってたんですか?!」
再び体を起こそうとした結希は、再び熾夏に胸板を押される。
「そうだよ。体を起こすのはまだ止めてね」
「……はい」
地味に痛む背中の火傷跡に耐えられず、結希は素直に熾夏の言うことを聞く。熾夏は満足げに頷いて、ベッドをぐるりと囲んでいたカーテンを開けた。
「んで、弟クン。これが君へのお見舞い品だよ」
「お見舞い品?」
熾夏が指差す隣のベッドに視線を向けると、そこには山のように積み重ねられた箱の塊があった。
「そ。こ〜んなにたくさん」
熾夏は、驚きすぎて言葉が出ない結希をにやにやと笑う。
「意外と人気者だね……って言いたいけど、残念。半分はうちからで、残りは弟クンのお母さんと明日菜ちゃんと白院家と相豆院家からだよ」
結希は呆然と、お見舞い品だというそれらを隅々まで眺めた。母親以外は《十八名家》からとあってか、とにかく量が常識の範疇を超えている。
熾夏は平然とした表情でその中に手を突っ込み、封筒を取り出した。
「それは?」
「白院からの手紙。えーっと、これなんだったかなぁ」
折り畳まれた手紙を開いて、熾夏は「あぁ」と声を漏らした。熾夏に文章を見せつけられたが、達筆すぎて何も読み取れない。
「要するに感謝状みたいなものだよ。白院家頭首、白院・N・万緑から」
熾夏は手紙を元通りに折り畳み、白衣のポケットに仕舞った。
「ところで。白院は理解できるけど、いつの間に翔太クンと仲良くなったの?」
刹那、緩い態度が豹変した。
眼帯の色は闇深く、唯一見えている左目は狐の面のように不気味さを帯びている。結希は唾を飲み込み、愛果と瓜二つの容姿をした相豆院翔太との出逢いを思い浮かべた。
「結界の有無を確認する時に、少しだけ話をしたんです」
熾夏がどんな反応をするのか、知ることが怖かった。
実際は十二日程度だが、出逢ってほぼ二日しか経っていなくても、熾夏が簡単に戯けた態度を止める人間だとは思えない。熾夏は一度だけまばたきをして、それでもなお結希を見据えた。
「少しだけ話をした程度で、あの翔太クンが懐くとは思えないけどね。ねぇ弟クン、翔太クンとは極力話をしないって約束できる?」
「……何言ってるんですか、熾夏さん」
結希は眉を潜めて慎重に言葉を返した。
警戒し始めた気配に気づいたのか、はたまた千里眼で心を読んだのか。熾夏は長いため息をついて、場の空気をわざと緩ませた。
「そのまんまだよ。翔太クンを私たちに近づけちゃダメ」
微笑むこともなく、真顔のまま熾夏は言った。
「それは翔太が相豆院だからではなくて、俺たちに……問題があるって意味ですか」
暴力と裏社会の象徴──相豆院家は、《十八名家》とはいえ町中から疎まれていた。
たった一つの組織が町を占拠するのは良くないということで、同じく《十八名家》の炎竜神家も暴力と裏社会の象徴となっている。が、熾夏が暗示しているのはそんなことではなかった。
それでも、自分たちが人間ではないからとは言えなかった。
「そういうことにしておくよ」
立ち上がって、熾夏は手を振りながら扉へと向かう。取っ手に手をかけて振り向いた熾夏は、再び小さく微笑んだ。
「愛ちゃんが心配してたよ。それとスザクちゃん、あの子も安心させてあげて。──あと、お誕生日おめでとう」
息を呑む。
「言っておくけど、心を読んだんじゃないからね。弟クンのカルテに書いてあったの」
翔太の話の時とは違い、気遣う言葉を残して熾夏は病室から出ていった。言いそびれた「ありがとう」を飲み込んで、結希は周囲を見回し紙切れを探す。
紙切れは、熾夏が座っていたパイプ椅子の上に置き去りにされていた。
「……熾夏さん」
わざと置いてくれたのだろう。結希は手を伸ばし、紙切れを手に取った。
「──馳せ参じたまえ、スザク」
小さな光が目の前に発生して、ピンク色のツインテールが視界一面に広がる。スザクは緋色の目を見開いて、瞬時に結希に抱きついた。
「結希様ぁあ〜!」
ぼろぼろと大粒の涙を入院服に零して、式神のスザクは泣きじゃくる。
「うぇっ、えぇ……っ! ご無事で何よりでございます〜!」
「スザクこそ。心配かけて悪かった」
「謝らないでぐだざいぃぃぃぃい!」
結希に馬乗りになっているスザクは、袖で強く涙を拭った。結希は小さなスザクの背中を無言で擦り、背中の痛みに一人で耐える。
「わっ、私は信じておりましたっ! 結希様が必ず結界を張ってくださると──六年前と同じように、この町を守ってくださると!」
スザクは結希の両肩を掴んで、上目使いで結希を見つめた。結希は言葉を飲み込んで、スザクの涙で潤んだ瞳を見下ろす。
何度も、スザクのこんな泣き顔を見てきた。
生まれた時からずっと一緒だったスザクは、明日菜以上に同じ時間を共有していた。健やかなる時も、病める時も、同じ身を共有するように生きてきた。そんな彼女が何故これほどまでに泣くのだろう。
「あっ! えっと! も、申し訳ございません!」
「何が?」
「あわわわわっ?! えっと、その、私はまた六年前のことを……!」
「……あぁ」
スザクが号泣したせいで、禁句を言われていたことに気づけなかった。
「怒っていらっしゃらないのですか?」
おずおずと尋ねるスザクに、結希は何故か声に出して笑みを漏らす。
「なんだよその顔」
「わ、笑わないでください! 私は真剣です!」
久しぶりにスザクとこうして話ができて、なんだか肩の荷が下りた気がした。陰陽師と式神の関係は他の誰であっても紡げないとよく聞くが、それはあながち間違ってはいないようだ。
「怒ってない。だからスザクも怒るな。な?」
「わ、わかりました」
スザクはこくこくと頷いて納得する。そんな従順さが危ういと思いつつも、それが式神なのだと再認識させられただけだった。
「……結希様」
「ん?」
いい加減に体の上から下りてほしいという願いを言いそびれた結希は、もじもじし出すスザクを見据える。
「お誕生日おめでとうございますっ!」
いつの間にか止まった涙の跡を頬に張りつけながら。スザクは、満面の笑みを咲かせた。
*
熾夏の宣言通り、結希は今週末で退院を迎えた。
黄昏時になり、纏めた荷物を持って外に出る。例のお見舞い品は宅配に頼むことになり、荷物は案外身軽だった。
「弟クン」
振り返ると、スマホを片手に持った熾夏がいた。病院を背景にして汚れ一つない白衣を着ている様は、熾夏を改めて医者だと思わせる。
「今シロ姉から電話があって、これから迎えが来るらしいの。だからちょっと待っててくれる?」
「いいですよ迎えなんて。木曜日の夕方なんてまだ忙しいでしょうし……」
「…………もう、来ちゃったよ?」
不意に気配を感じ、そして声が発せられた方へと視線を向ける。
山吹色のカーディガン。その中の白シャツは制服を想起させ、かぼちゃパンツのように膨らんだ赤いショートパンツはカジュアルさを引き出している。
精巧に作られたマネキンといったイメージから一転、動くとゆるキャラのように愛らしさが倍増する鈴歌がこてんと首を傾げた。
「鈴歌!? 君が来たの?!」
「…………うん」
熾夏は愕然となり無意識で鈴歌を千里眼で視る。そこにいたのは、結希をさっさと連れて帰ることしか考えていない鈴歌だった。
「し、信じられない」
「どうして鈴歌さんが」
二人の驚きの表情をショッキングピンク色の瞳で眺めながら、鈴歌はゆっくりと口を開く。
「…………家に、誰もいないから?」
そして再びこてんと首を傾げて答えた。
鈴歌はとことことヒールのないパンプスで数歩歩いて、くいくいと結希の服の袖を引っ張る。
「…………帰ろ?」
「…………帰りましょうか」
断る理由はどこにもなかった。結希は熾夏に礼を言って、鈴歌に引きずられながら人目のつかない場所に連行される。
鈴歌は何も言わず、黒い髪を突如吹き出した風に靡かせた。彼女のやろうとしていることを悟った結希は、慌てて手を伸ばして肩を掴む。
「ちょっと待ってください」
訝しげに変化を途中でやめた鈴歌は、じとぉと結希を見上げた。
「夕方に変化したらダメじゃないですか」
「…………妖怪は、黄昏時に多く出る。問題ない、違う?」
「人に見られます」
「…………でも、行きはこれで来た」
「はぁ?!」
結希は頭を抱えて、冷静になろうと努力する。鈴歌はそんな結希を見ても、未だにきょとんとしていた。
「だから引きこもりの鈴歌さんがここまで来れたんですね」
「…………うん?」
「せっかくですし歩いて帰りましょう」
「…………や」
無表情に不満げな頬の膨らみを足して、鈴歌はそっぽを向く。こんな時までゆるキャラ感を出さないでほしい。
「歩いて帰りましょう」
このまま鈴歌を置き去りにして帰ると、一反木綿に変化して黄昏時の空を漂うのだろう。
鈴歌は結希を見上げ、じぃっと見つめた。目を離せずに合わせたままでいると、鈴歌は口を開く。
「…………おんぶ」
あの日と同じように鈴歌は呟いた。
結希は目を見開いて、それでも両腕を少しだけ上げる鈴歌に根負けする。鈴歌が頑固者で面倒くさがりなのはとっくのとうに知っていた。こうして話していても埒が明かないのだ。
鈴歌をおんぶして、人目のつかない場所を選びながら百妖家を目指す。黄昏時に人目を避けた道を通ると妖怪に遭遇する可能性が高まるが、背に腹は変えられなかった。
鈴歌のバニラの匂いが鼻腔を擽る。建物の隙間から見える茜色の夕日が、何故か懐かしく思えた。
*
百妖家に帰ると、学生組が既に何人か帰っていた。休む暇もないまま小悪魔のようににんまりと笑う姉妹たちに押され、椿と共に各々の自室に放り込まれる。
『誰かが呼びに来るまで出ちゃ、めっ! だからね!』
扉越しに月夜はそう言って、慌ただしく階段を駆け下りていった。結希は幼い月夜に気を遣って、この家に来て約二週間経ってもたいして使っていなかったベッドに横たわる。
そして、泥のように眠った。




