一 『連れ子となった居候』
「彼が間宮結希だ。まぁ、今日から百妖結希となるのだがな」
リビングに案内し、麻露は淡々と結希を姉妹に紹介する。一方の結希は、明るい場所に出て初めて、受け入れ難い現実に直面していた。
何度目を擦っても、何度まばたきを繰り返しても、何一つ変わらない現実に。
(お、女の人しかいない……?!)
普通の男子高校生ならば喜ぶような場面だと思うが、朝日のこの家に対する説明もあってか、そうすることはできなかった。
「心春、彼は大丈夫だ。顔を上げろ」
麻露がソファの後ろに隠れている少女を呼ぶ。それでも心春は、頑としてそこを動かなかった。
「やはりダメか。結希、心春は男性恐怖症なんだ。悪く思わないでくれ」
「それって……」
黒く澄んだ目を見開き、結希は口を半分ほど開ける。
恐怖症という類いはよくわからないが、自分では想像もできないくらい怖いのだろう。そう思い、小さな肩を震わせている心春からさりげなく距離をとった。
「お兄ちゃ〜ん!」
そんな結希の腹部に突進してきたのは、無邪気な声を上げた少女だった。
「ぐふっ!?」
肺から一気に空気を吐き出し、無我夢中で空気を吸い込む。見かねた麻露が少女の襟首を持ち上げると、少女は「やだぁ〜!」と足をばたつかせて頬を膨らました。
「月夜、後で紹介するから黙っ……」
「シロ! 姉さんを離せ!」
麻露の台詞を遮り、月夜と瓜二つの顔を持つ少女が麻露の服の袖を引っ張る。麻露は頬を引きつらせながら月夜を下ろし、二人の口を塞いで顔を上げた。
「私は長女の麻露だ。巫女をやっている」
そのまま水色の髪を揺らし、胸を張る。すると、張るに値する胸がほどよく揺れた。そんな胸に顔を押しつけられた双子を見下ろし、母のような表情で見つめた。
それは暗闇の中で見た魔物のような印象とはほど遠い、家庭的な印象で。巫女をしている情報を得たからか神聖な雰囲気が感じられた。
「鈴歌」
短く名前を呼ぶその声も、自分に向けられたものとは違う。しかし、当の本人は視線を逸らしたままぼんやりと虚空を見つめていた。
「あれが五女の鈴歌だ。察したとは思うが、無職だ」
無職、と言われても違和感がなかった。微動だにせずにソファに座っている姿は、かなり顔立ちが整っていることもあり金持ちの家の置物めいている。
綿のようにふんわりとした黒い髪。ショッキングピンク色のアクセサリーを髪に挟ませたツインテール。制服をだらしなく着たかのような手抜きファッション。恐らくなんの手入れも化粧もしていないその顔は、同年代の女性が見たら誰もが嫉妬するだろう。身だしなみだけを整えたら、モデルにだってなれそうだった。
結希の視線に気づいたのか、鈴歌は結希を見つめ返して「…………眠い」と一言目を擦る。刹那に見えたショッキングピンク色の瞳には、あるべきはずの光がなかった。
「次からは自分でやれ、私はもう知らないぞ」
そんな投げやりなとも思ったが、鈴歌のような姉妹は他に見られない。代わりに一人だけ、未だにソファの後ろで蹲っている心春がいた。
「七女の朱亜じゃ。わらわは小説家なのじゃぞい」
ピンと背筋を張ったのは、海のように青い髪をした女性だった。鈴歌とお揃いにしているのか、ストレートに伸びたツインテールが揺れる。
小学生と言われても納得してしまうほどの童顔。意志の強そうな青い瞳。独特な口調も相まって、一見すると戦国時代に生まれたお転婆なお姫様のようだ。姉妹の中ではどこにでもいるような部類の見栄えだが、年上を感じさせない愛らしさと親しみやすさが朱亜にはあった。
「和夏です。えーっと……あ、大学生です!」
黄緑色のマフラーを巻いた女性が前に出る。恐らく八女なのだろう、四月なのに暑くないのかと思ったが、和夏は涼しい表情で猫のしっぽのようなマフラーの先端を揺らしていた。
無垢な緑色の猫目と肩にかかる茶髪。周囲を和ませる雰囲気に反して、笑う時に見える猫のような犬歯が野生動物のような印象を抱かせる。実際の性格も本能のままに生きる野生動物なのだろう。和夏は既に結希への興味を失い、小さく欠伸をした。
刹那、鋭い視線を感じた。結希がその視線を辿ると、金髪碧眼の少女が遠くの方から上目使いで睨んでいる。
睨まれた理由はなんだと、ここに来た時の記憶を探って。そんな結希を見て少女はようやく口を開いた。
「九女、愛果」
明らかに怒気を込めて吐かれたその声に、結希は「あぁ」と合点がいく。
「もしかしてさっきの子? ごめん、まさか人がいるとは思わな……」
「うるさい! ウチはアンタの先輩だから、敬語を使え! 敬語!」
山吹色のパーカーを脱ぎ、白いシャツを見せる愛果。胸ポケットには結希が通う高校の校章が、一円玉ほどの大きさで印刷されている。
緋色のスカートを翻した愛果は、腰に両手を当ててもう一度キツく結希を睨んだ。
「わかった?」
同じ学校に通っているのはわかったが、結希が注目していたのは制服ではなく愛果の身長だった。それは百五十センチあるかないかで、華奢な体格と相まってとてもではないが高校三年生には見えない。
まじまじと愛果を見ていると、愛果はつぶらな瞳を無理矢理釣り上げ、〝あんよ〟と形容するに相応しい足を振り上げた。
「どこ見てんのよっ!」
「ぐほぉ!」
見事な飛び蹴りが腹部に当たり、本日二度目の空気を肺から吐き出す。よたよたと後退して壁に背中をぶつけると、今度は壁が喋り出した。
「愛姉、やり過ぎだって!」
振り返ると、赤毛の少女が結希の体を支えていた。
その赤目と結希のそれがかち合った刹那、鈍器で殴られたかのような頭痛が襲い掛かってきた。
「ッ!?」
気がつけば、脳裏に美しい桜花弁が舞っていた。
桜吹雪はやがて消え、遠くの方からじぃっと結希を見つめる〝何か〟が現れる。〝何か〟は脳裏で黒く塗り潰されていたが、それが人間でないことはわかった。
片手で頭を抑えると、痛みと共に脳裏の映像も消えて行く。自分を支えてくれた少女の瞳を確かめると、心配そうな表情がついでに見えた。
「だっ、大丈夫か?!」
「……大丈夫、ありがとう」
あどけなさを残した活発そうな顔とつり目が印象的な少女は小首を傾げ、何かに気づいたように「あ」と口を丸く開ける。まったく不細工に見えないその表情を笑顔に変え、結希の瞳を追いかけるように覗いてきた。
「アタシは十女の椿! 今年から高一になるから、よろしくな! 先輩!」
「よろしく、椿ちゃん」
ここに来てようやくまともな会話をした気がして、椿と同じように笑う。刹那、それを遮るかのような氷柱の視線が飛んできた。
「ちょっと待て。キミたちは先輩後輩である前に、兄で妹だろう」
腕を組みながら訂正する麻露は、思いきり顔をしかめていた。そして、結希だけを先ほどとは別物の酷く冷たい目で睨む。
「あっ、そっか!」
「そういえば、そうでしたね」
はっとする椿を横目に苦笑する。麻露は一度視線を伏せ、ソファの後ろ──詳しくはそこにいる心春の様子を確認した。
「どうする心春。 順番で言えば次はキミだぞ」
「……ぅ、うぇっ?!」
あたふたとふためき、チラッとソファから顔を出す。柔らかな桜色の髪が、先ほど脳裏で再生された桜吹雪と重なる。だが、それよりも目を引いたのは心春のその反応だった。
妖精のように可愛らしい顔は怯えに染まり、困ったように眉尻を下げた彼女は小さな唇をキツく結ぶ。それでもすぐに意を決し、ソファーカバーを握り締めて口を開けた。
「ひゃっ、百妖心春です! 十三歳です!」
一気に叫び再び隠れる。澄んだ声は意外にも結希の鼓膜によく届き、わずかに安堵する。瞬間、待ってましたと言わんばかりの「もが〜っ!」という声がした。
今まで麻露に口を塞がれていた月夜が、彼女の腕から逃れて跳ねる。
「次はつきの番! 百妖月夜、十一歳です!」
「十一歳……って、小六?!」
随分小さいとは思ってはいたが、まさか小六だったとは。
月夜に続き麻露の腕から逃れた幸茶羽は、結希を仇敵でも見るかのように睨みながら、きゅっと月夜の右手を握る。
「うん! でね、こっちはささちゃん! つきの双子の妹だよ!」
にぱっと笑い、幸茶羽に握られた右手を上げた。必然的に幸茶羽の左手も大きく上がり、驚いたように左手を見上げたが幸茶羽は結局唇を尖らせただけだった。
膝を曲げ、「よろしく」とぎこちなく微笑む。月夜は嬉しそうに笑っていたが、幸茶羽は不機嫌そうにそっぽを向いた。
「よろしく、ささちゃん」
「その名で呼ぶな! 貴様、馴れ馴れしいぞ!」
小さな体でまさかの発言をした幸茶羽は、キッと上目使いで結希を睨む。
「ささの名前は幸茶羽だ!」
そして、結希の脛を力いっぱいに蹴り上げた。
「うぐッ!?」
地味な痛みは結希に立つことを許さない。膝をつき、「たいへん!」と慌てて結希の脛に触れた月夜の念じるように閉じられた瞳を見上げた。
「痛いの痛いの飛んでけ〜!」
手を動かす。その子供らしいやり方は、幼少期を忘れてしまっていた結希の目に新鮮に映る。
瞬間、大勢の目が自分に向けられる気配を感じた。顔を上げると、鈴歌や心春を含めた姉妹全員が食い入るように結希を見つめている。
「ッ!」
そこで初めて顔を赤らめた。子供扱いされたことも、注目されたことも、今の今までなかったから。
「結希、どうだ」
「な、何がですか」
「痛みだ。消えたのか?」
真顔で問いかけてくる麻露に、少しだけ不貞腐れながら「そんなわけないでしょう」と呟く。だが、意外なことに麻露は気難しそうな表情をした。他の姉妹は落胆し、その様子に罪悪感が込み上がってきたが、嘘をつくわけにもいかない。
本当に消えなかった痛みを我慢して、結希はおもむろに立ち上がった。瞬間に駆け出した幸茶羽の名前を、全員が同時に叫んだ。それでも幸茶羽は止まることはなく、リビングの扉を荒々しく開けて出ていった。
「幸茶羽ちゃん!」
すれ違ったほんの一瞬だけ、結希は幸茶羽の涙を見た。彼女を追いかけようとするも、麻露の「放っておけ」の一言で動かなくなる。
「ちょうどいい時間だな。そろそろ夕飯に……」
「つき、ささちゃんのとこに行ってくる!」
「あっ、おい!」
麻露の制止を振り切って、月夜はリビングから出ていった。
静まり返ったリビングは、冷気が満ちたように寒くなる。それは結希の目に、本当に一瞬だけ氷の結晶を見せたほどだった。
俯いた刹那、荒々しく扉が開く。幸茶羽か月夜か、そう思って顔を上げるが、そこにいたのはそのどちらでもなかった。
今にも燃えそうなオレンジ色の髪を揺らせながら、結希よりも高い身長の女性は目を丸くする。
「なっ……!」
それ以上に目を丸くした結希は、次の瞬間絶叫した。
「あぁ、やはり知り合いだったか」
オレンジ色の髪の女性に視線を向け、麻露は軽くため息をつく。女性──百妖家の次女百妖依檻は、しばらくの間硬直していたが──すぐに足を動かして結希の目の前に立ち塞がった。
身の危険をありありと感じた結希は、すばやく身を引き警戒する。
「そんなに怖がらないでくれる? 間宮君」
面白そうにころころと笑った依檻を前にした結希は、「来ないでください!」と拒絶することしかできなかった。
豹変した結希の態度でほとんどの姉妹たちが困惑するが、それでも全員がその理由に薄々感づいていて、可哀想という視線を結希に向ける。
「もしかして、いお姉って……結兄の〝先生〟なの?」
さっそく〝結兄〟と呼んだ椿は、憐れみを含めた表情をしていた。依檻は再びにいっと笑い、結希の肩を馴れ馴れしく組む。
「そうよ。私、今年度から間宮君の担任になったの」
「やめてください先生!」
しっしっと依檻の手を振り払う結希は、嫌な予感が的中したとただただ心の中で嘆いた。表に出さなかったのは他の姉妹たちに自分の本性を知られたくなかったからだったが、何もかも遅いことには気づいていた。
「うふふっ。先生と生徒が同居って、なんだかゾクゾクするわね?」
「しません! しても声には出してほしくなかったです!」
噛みつくように叫ぶ結希を、先ほどからまったく変わらない笑顔で依檻が見つめる。それは、飽きない玩具を見つけたような子供の目でもあり、壊れそうな玩具を見つけたような子供の目だった。
いつの間に近づいたのか、手が届く距離に現れた麻露は依檻の肩を軽く叩いた。テレパシーでも通じたかのように、依檻は笑うのを止めて結希から手を離す。
「んまぁ、なにはともあれこれからよろしくね──〝結希〟」
急に名前呼びした依檻に鳥肌を立たせながらも、他の姉妹たちの手前「はぁ」と返すには返す。
「あのさぁ、ご飯まだ?」
愛果の不満げな発言を皮切りに、誰かの腹の音が鳴った。