一 『芦屋と間宮』
麻露に背中を押してもらった。麻露は結希を救う為に家族を解体させた人だ。なのに何故、背中まで押そうとするのだろう。自分の家族が大切だと思っているはずなのに、何故、結希と朝日の仲を取り持とうとするのだろう。
そして、何故──
「……結希君」
──焦って視線を向けると、いつの間にか朝日が麻露の部屋にいた。家主はいつの間に出ていったのか、何故か二人っきりだった。
「私は、結希君のどんな話を聞けばいいの?」
麻露に言われて来たらしい。本当に、あの人はどこまで自分を甘やかしてくれるのだろう。その好意に気づけないほど愚かではない。だが、その好意にどう応えればいいのかはわからない。
「話……」
指で下唇に触れ、麻露のベッドから起き上がる。
彼女が作ってくれた機会を逃すほど愚かでもない。今の今まで、結希が朝日に言えなかったこと──。
「たくさんある」
そして、一つずつ思い返した。
「美歩に会ったよ」
朝日が僅かに目を見開いた。腕を組み、歩を進め、結希が立つ傍らまで来て顔をよく見ようとする。嘘なんてついていないのに、朝日はその顔で結希が嘘をついているわけではないと判断した。
「紫苑が、俺の従妹だって言ってた」
「……えぇ、そうね。その子は貴方の従妹だわ。でも、会ったってどこで?」
「駅や、祠で」
「祠……」
それだけで、朝日は結希の言葉の意図を汲んだ。唾を飲み込み、顔を両手で覆い、覚束ない足取りで麻露のベッドまで歩いて腰を下ろす。
「……そういう、ことなのね?」
察しているのに答えを聞きたがった。これだけしか言っていないのに察せるということは、朝日が薄々そうだと感じていたことを証明していた。
「なんでそんな反応になるんだよ。知ってることがあるなら全部話せ。俺が聞きたいのは、それと──」
──それと何故、六年前のあの頃に自分の傍にいてくれなかったのか。
思っているのに言葉は出てこなかった。他の誰かには言えるようなことでも、母親になると言えないことはごまんとある。
唇を噛んだ。そして慌ててそれを止めた。
「美歩ちゃんは、貴方の三つ下……心春ちゃんと同い年の女の子でね」
そこからの言葉が続かなかった。迷うような朝日のその態度は彼女の優しさから来るものだ。だが、その態度は結希には優しくない。
癇癪を起こしてしまいそうになるほどに、朝日は結希に心を砕かなかった。その理由でさえ結希は未だに知らなかった。
「なんで何も言わないんだよ」
「……あの子、その、親がいないのよ」
「それは……知ってるけど」
「あぁ、そうよね。まぁ……そうよね」
朝日のその態度が引っかかった。
「親殺しだって言ってたよ」
「それは……えぇ。間違ってないわよ」
間違いではないのなら、それ故に何も語れないのか。
自分が急に無神経な人間になったように思えて口を噤んだ。だが、そうやって何度も黙ってきたせいで自分がいつまで経っても無知なのだと思った。
「言いづらいのはわかるけど、ちゃんと話してほしい」
自分は母親に何も言えないのに、母親には言わせようとする。だが、それで罪悪感を抱くことは不思議となかった。
「…………わかったわ」
息を吐き、口を開く。
「美歩ちゃんのお母さんが芦屋の人なんだけどね、あの人も相当優しい人だったのよ」
も。何度か聞いてきたことだったが、朝日にとって、結希の父親である雅臣も相当に優しい人ということだった。
「優しいから変な人たちに掴まって、お金を貸したり、色々なことを押しつけられたり、時間を奪われたり、騙されたり……色々あって、先にお父さんの方が爆発しちゃったのね」
優しすぎるが故に崩壊する。そんな家があることを結希は知らない。
「暴力を振るうようになって、お母さんは変な人たちから逃れることができたんだけど、お父さんは止まらなくて……それで、美歩ちゃんもストレスを溜めていたみたいで、爆発したのよ」
いくら待っても、それ以上の話は出てこなかった。
「爆発、した?」
「そのままの意味ね。陰陽師の力が、ボンッて。普通はあり得ないのよあんなこと。半妖じゃないんだから。でも、美歩ちゃんは陰陽師としてすごく力に恵まれてたみたいで、なんでもかんでもたいした苦労もせずにできていたわ。そんなあの子に嫉妬してたのよ、貴方。だからずっと結城家に行って、色々と教わってたの」
それ故に、涙と、千羽と、紅葉と、過剰な絆を結んでいたのだろうか。
自分の家に引き取られた美歩を置き去りにして。
「美歩ちゃんは家に引きこもっちゃったけど、あの人優しいから……そんな美歩ちゃんばっか構って。私はちょっと寂しかったな、芦屋の血を引く子たちの話題について行けなかったの。妖怪の声が聞こえるって」
「…………」
「別に疑ってなかったわ。そういう言い伝えがある家だもの。あの人も、美歩ちゃんも、貴方も、最近妖怪が苦しんでる〜なんて言い始めて。向こうから急に離婚してくれって言ってきて、美歩ちゃんはあの人についていったのよ」
「仲、悪かったのか?」
思わず尋ねてしまった。だが、これもずっと気になっていたことだった。
「いいえ」
はっきりとした口調で否定されて安堵する。だが、それ故に何故とも思う。
「でも、あの人と私の価値観って……びっくりするくらい違ってたのよね。私は、妖怪は殺すべきだって思ってるから」
「え?」
「だってそうでしょう? 殺さないと、私たち間宮はいつまで経っても裏切り者だわ」
「そんな……」
言葉に詰まった。芦屋家に生まれた人間として、間宮家に生まれた人間として──結希はどちらの言い分も理解できてしまったから。
「結希君はどう思う?」
「どうって?」
「妖怪は殺すべきだと思う? それとも──救うべきだと思う?」
「ッ!」
意図を汲む。故に、血が流れる。
「あの人ね、最後にそう言って出ていったのよ。美歩ちゃんも、そう言っていたのよ。貴方は、何も言わずに私の傍にいてくれたけれど」
妖怪が苦しんでいるのは事実だ。結希は何度も救いを求める声を聞いている。それでも、それと同じくらい人を殺したいという憎しみも感じていた。
「だから、六年前のあの日……あの人や美歩ちゃんの死体がどこにもないって気づいた時から、あの二人を探していたの」
朝日が足を組み直した。その表情は俯いているせいでよく見えなかったが、どんな表情をしているのかは想像に難くなかった。
「貴方の傍にいたかったけれど、それと同じくらい……あの場所に生者としても死者としても現れなかったあの二人を見つけたかった。……酷いと思う? 赤の他人の為に家を空けた私のこと。どこかで野垂れ死んでいるんじゃないか、とかじゃなくて……救いたいと言って出ていった五日後に起こった百鬼夜行の元凶だと思って……探していたこと」
知りたかったことが明かされていく。思っていたような理由ではなかったが、そこに不快感はない。
「……別に」
だから否定した。それでも視線は逸らしてしまった。
「……ありがとう。やっぱり優しいわね、結希君は」
そんなことないとこの場では言えず、結希は黙る。朝日はそんな結希に気づかなかった。
「頼ちゃんが一連の事件の犯人だと知った時、私、心から良かったって思って……未だに会えないあの二人はどこに行ったんだろうって思って……でも、そういうことなのね」
「…………」
「あの人も──芦屋雅臣も、犯人だったのね」
今まで聞いたことがないほどに、毒を孕んだ声色だった。
間宮家の人間として妖怪を殺すことで陰陽師に忠誠心を見せようとしていた朝日と、どうにかして苦しむ妖怪を救おうとしていた雅臣は愛してはならない者同士だった。
結希はどちらの気持ちもわかる。わかってくれると雅臣が思ったから、美歩のように陰陽師を裏切って亜紅里のパートナーになる道が用意されていた。
「父さんは、善意で……」
「わかってるわよそれくらい。貴方よりも、私が一番。でもね、だからって……人を殺していいわけないじゃない」
絞り出すように出てきたその言葉は、この世の真理だった。
死んだ人間は戻ってこない。何があっても。千羽でさえ霊としてこの世を彷徨っていても、生き返らない。
それに心を痛めない父親ではないと思った。少なくとも、紫苑から聞いていた話と微妙に違った。
「……少し、違う。母さんは父さんを誤解してる」
「誤解って何? どうやって誤解するのよ、貴方はお父さんに会ったことないのに?」
じくりと胸を刺された。他の誰でもない母親に刺されたくないところを刺された。
「紫苑が、父さんは阿狐頼に従ってるって。父さんにとっては、妖怪を守ることがすべてだって。阿狐頼の本性を知らないから、もしかしたら……騙されてるのかもしれない」
そうだと思っていたかった。
『……そうだろうな。俺たちの養父も、ぽやぽやはしてるが聖人君子ってわけじゃねぇ。時々、『悪いのは人だ』って呟いて遠くを見てる。……お前なら、その意味がわかるんじゃねぇか?』
「────」
そういえばあの時、紫苑はそう言っていなかったか?
あの時はなんのことだかわからなかったが、妖怪よりも人が悪いという言葉の意味を、今なら。
「騙されてる、ね。そう言われたら、そうかもしれないけれど……」
「母さん?」
「……憎いわ。あの人は、私じゃなくて頼ちゃんを選んだのね」
細い両手が、再び朝日の顔を覆った。朝日は、肩を震わせて泣いていた。
「……母さんは、今でも父さんが好きなのか?」
「…………好きよ。もう、嫌になるくらい、どうしてだかわからないけれど……それでも、今でも、私は」
幾つになっても生涯を誓い合った相手を想っている。そんなことが本当にあるのだと思って、自分はそんな相手を選べるだろうかとも思う。
「…………」
会うつもりはなかった。幸茶羽が証明したのだから会えることはわかっていても、本当に会うつもりはなかった。
自分と父親は血が繋がっていても赤の他人だ。会いに行ったら母親を裏切ることになる上に、陰陽師を裏切ることにもなる。
会いに行くとしたらそれは、父親をたった一人で止めようとした時だ。それを亜紅里には話していた。
なのに、たった今会いに行きたいと僅かながらに思ってしまった。止めるわけでもなく、味方になるわけでもなく。ただ父親に会いたかった。
「母さんは、父さんに会いたい?」
聞いてしまった。
「わからないわ」
会いたいと言わないことが朝日の強さなのだと思った。
「会ってしまったら、私はあの人を傷つけてしまう」
「ッ!」
「私は、あの人の傷ついた顔を……もう二度と見たくないの」
「…………ふぅん」
もっと他に言うべき言葉があったと思うが、それが今の結希の精一杯だった。
「もちろん、結希君の傷ついた顔も──見たくないわ」
そう言ってほしかったのだと思った。そう言ってくれる人間がどれほど貴重なのかを知っていた。
「だから、そんな顔をしないで……ううん、ごめんなさい。そんな顔をさせて」
そんな人に傷つけられた。




