十八 『愛の果てに』
麻露、朱亜、和夏の三人は、散り散りになって逃げる妖怪を呆然と眺めていた。麻露は屋上を見上げ、結希がフェンスの上に立っているのを視認する。
「……これを全部、結希がやったのか?」
「かもしれないのぅ」
「ユウ、すごい」
三人はボロボロになった衣服を整え一息つき、そのせいで屋上から落下してくる物体への反応が遅れた。が、猫又の反射神経を持つ和夏は思い切り地面を蹴り上げて、空中で結希の体を受け止める。
「ユウ?!」
珍しく焦った声を上げる和夏の元へ麻露と朱亜が駆け寄った。和夏の腕の中の結希は固く目を閉ざしており、背中は──焼け爛れていた。
「結希?! 何があった!」
麻露はすぐさま氷を作り出し結希の背中を冷やす。血で汚れた狩衣はところどころが焼け焦げており、肌が剥き出しになった背中は痛々しい。
薄目を開ける結希は、ぼんやりとした頭で屋上を見つめていた。
「意識はあるのじゃな。待て、動いたらダメじゃ!」
体を起こそうとした結希を押さえつけたのは、和夏だった。猫又の力を使わなくても容易に押さえつけることができ、その弱々しさに顔を歪める。
「保健室に運ぶぞ。朱亜、先に行って開けろ」
「了解じゃ」
走り出した朱亜を目で追って、和夏は背中を冷やす麻露に合わせて歩き出した。
「すみません、俺……」
掠れ声を漏らす結希は、背中を冷やす為に下に向けられたことをいいことに涙を流した。声を押し殺して、麻露と和夏に悟られないように。
「謝るな。キミは何も悪くない」
無理矢理泣くのをやめて、結希は「でも」と言葉を続ける。
「愛果さんがまだ屋上に、スザクもいない中戦いを続けるのは……」
「屋上で何があった。朱亜が戻ってからすぐに妖怪が逃げ出して聞き出せなかったんだぞ」
「半妖の裏切り者が現れたんです。姿は狐でした」
「なにっ?!」
その事実に色を失った。麻露は、気づけなかった自分の愚かさを呪って自責した。
「それを早く言え! 和夏、後は私に任せて屋上へ!」
「わかった!」
自分を持ち上げていた肉つきのいい腕の代わりに、細くて冷たい腕に支えられる。麻露は和夏と同じく軽々と持ち上げ、保健室へと駆け込んだ。そこには救急箱だけが机上に置いてあり、朱亜の姿はどこにもない。
「……朱亜も行ったか。結希、悪いが私は医者ではない。応急処置にもならないかもしれないが、許せ」
麻露は短く頷いた結希をベッドの上にうつ伏せの状態で寝かせた。ヒリヒリと痛む背中は今も冷たく、雪女の麻露がいて良かったと心から思う。
「……ありがとうございます」
「……何を言う、礼を言うのは私たちの方だ。昨日──いや、もう一昨日だな。一昨日も今日も、私たちはキミに助けられた。キミは、私たちにとって欠かせない存在となっているくらいに」
枕に顔を埋めながら結希は黙って聞いていた。
「私はな、結希。あの時キミを父さんの再婚相手の連れ子と言ったこと、間違っていたとは思わないんだ。正しかったと思ってる」
それは、麻露が嫌っている父親──仁の言葉を肯定する言葉である。だが、麻露はそれでも構わなかった。
「よし、できたぞ。キミは鈴歌が戻ってきた時に妖目総合病院に運ばせるからな」
麻露は救急箱を一通り片づけてから屋上に行くつもりだった。が、勢いよく起き上がった結希が保健室を飛び出していく。
「結希?! 待て、その傷で戦うつもりなのか?!」
麻露も、外ではなく廊下へと飛び出して結希の後を追った。本気を出せば麻露は結希を捕まえることができる。それをしなかったのは、心の奥底では期待していたからだった。
屋上へと飛び出して裏切り者と戦う──六年前の少年陰陽師が見られると。
屋上へと続く扉を術で開けた結希は、そこで見た光景に目を疑った。麻露は危うく治療したばかりの背中にぶつかりそうになり、視線を向けて息を呑む。
「朱亜、和夏!」
屋上の中心では、麻露に名前を呼ばれた二人が激闘を繰り広げていた。朱亜は日本刀で、和夏は鉤爪で互いを傷つけようとしている。
「どうした! 何故互いを傷つけ合う!」
結希は屋上の隅で術をかける狐の少女と、それを阻止しようとたった一人で足掻く愛果を見つめた。
「……多分、幻術の一種です。麻露さんは二人の動きを止めてください。幻術はそう簡単には──解けない」
麻露は無言で結希を見上げる。
結希はそんな麻露を安心させるように微笑み、中心で戦う二人を避けるようにして愛果の下へと駆け寄った。
少女は幻術を朱亜と和夏にかけながら、愛果にも幻術をかけようとしていた。愛果は豆狸の幻術を酷使し、少女の幻術が自分にかからないように防御している。
少女は結希を視認して息を呑んだ。愛果は脇目も振らずに少女の隙を伺い、その度に蹴ったり殴ったりという雑な攻撃を繰り返している。
「あい……ッ! 愛果さん!」
「ッ!?」
振り向いた愛果は、ようやく結希に気づいて駆け寄った。少女は愛果への攻撃を止め、朱亜と和夏の足元が氷漬けにされていることに気づく。
「結希?! アンタ、生きてたの?!」
「勝手に人を殺さないでくださいよ」
「だって……! だってだってスザクが消えて! 死んだんじゃないかって思うじゃん!」
嗚咽を漏らす愛果は、結希の胸板を叩こうとして止める。愛果の前で弱さを見せたくなかった結希は、愛果が叩くのを止めて苦笑した。
「……アンタ、この傷でまたここに来たの?」
「愛果さんだって、たった一人で戦ってたじゃないですか」
「ウチしかアイツとまともに戦える人間がいなかっただけ。幻術使いは厄介だからさ」
愛果は唇を尖らせた。刹那に少女が攻撃して来ないことに違和感を覚え、一緒に来た麻露の声が聞こえないことに焦りも覚える。
「そういえばあいつは……麻露さんは?」
愛果も二人の存在に気づき、屋上に視線を走らせて少女を探した。そして、ぼんやりとした表情で少女の傍に立つ麻露を見つける。
「シロ姉!」
「麻露さん!」
麻露は光のない緋色の瞳で結希と愛果を捉え、その両腕を二人のいる方へと突き出した。少女は何かを麻露に囁き、自分は安全地帯へと下がる。
「アイツ! シロ姉を操ったな?!」
愛果は負傷した結希を守るように前に出た。結希はその愛果の腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。
「ゆ、結希?」
「上を」
「えっ?」
言われた通りに上を見ると、黒い布が蠢いていた。
「鈴姉!」
黒き一反木綿の背中から、誰かが飛び下りて庇うように前に立つ。
少女と同じ銀色の髪。同色の狐耳。ゆらゆらと九尾を揺らすその人は──
「しい姉!?」
「しい姉……って、熾夏さん?!」
「はぁ〜い、弟クン。ついでに愛ちゃん」
──百妖家の六女、妖目総合病院で働く医者の熾夏だった。
胸まであったはずの藍色の髪は肩までしかない銀髪に変わり、眼帯をつけていない左目は翡翠色に輝いている。
「百目の半妖じゃなかったんですか……?」
「チッチッチッ。常識に囚われたらダメだよ、弟クン」
熾夏は眼帯を解き、にぃっと笑った。すると琥珀色の右目が輝き、花が咲くように熾夏の肌にも琥珀色の眼球が開花する。
「私は確かに百目の半妖。けど、九尾の妖狐の半妖でもあるチート的な存在なの」
熾夏はウィンクをして、麻露から放たれた吹雪を腕を振っただけで消滅させた。
「うんうん。愛ちゃんも言った通り幻術使いは厄介だよ。でもね、百妖の幻術使いは愛ちゃんだけじゃないってシロ姉は知ってるでしょ?」
熾夏は麻露に視線を向け、小馬鹿にしたように笑う。
「こうして心も読めちゃうチート幻術使いがいるって、ねっ!」
ビクッと肩を震わせ、麻露は不快そうに顔を歪める。
「……『私を倒せ』か。りょ〜かいりょ〜かい。言われなくても目が覚めるまで私が痛めつけてあげるから、弟クンと愛ちゃんは結界をよろしくね」
「しい姉、でも結希は!」
「知ってるよ。背中の火傷は、千里眼を持つ医者の私が後で絶対に治すから。──信じて」
二人の方を見もせずに言った。九尾に開く眼球も二人を見ずに、正面の麻露と少女を見据える。
「これだけ目があるんだから、君も逃げられないよ?」
熾夏は、ただの狐の半妖である少女に告げた。少女は異形中の異形、熾夏という存在を天色の瞳に焼きつけて背筋を震わせる。
「……わかった。行こう結希」
「でも」
「しい姉は嘘つかない。ウチが保証する」
結希は頷き、結界を張る為に充分な空間へと移動する。その間に愛果が見た結希の背中は、逞しくもあり痛々しくもあった。
「平気?」
愛果に微笑む。言葉で答える必要はなかった。
「愛果さんこそ平気ですか? 結界を張ったら……」
「変な心配するなバカ。結界が破られる前からウチらはこの学校に通ってたんだ。あのシロ姉だってそうだったんだし、絶対大丈夫!」
愛果は結希に向かって精一杯笑った。
自分の言葉が少しでも結希の心に届くようにと笑った。
「ウチにできることは?」
結希は逡巡したが、愛果の碧眼が結希の背中を押した。
「……支えてください。俺を」
「それだけでいいなら何度でもするっての」
愛果は結希に寄り添い、結希は無事だった呪符を数枚狩衣から取り出して浮かせた。
五人以上必要だと言って、本当に自分一人だけでできるのだろうか。不安はまだあるが、もうやるしかない。
「四神よ、我に力を貸したまえ。我の名は──」
我の名は。
「──百妖、結希」
その名を口にした途端、温かい風が結希と愛果を包んだ。式神を呼ぶ力さえなかったが、徐々に力が湧いてくる。
「青龍・白虎・朱雀・玄武・空陳・南斗・北斗・三台・玉女」
愛果の目で見てもわかるように、黄金色の結界の波が広大な学園を包み込んだ。波は次第に卵の殻のように形を整え、結界への道を歩む。
「くっ……!」
「結希!」
思わず叫んだ。結希が苦痛に顔を歪め、吐血するから。それでも、結希の苦しみを和らげることはできない。自分は、何もできない。
顔を上げると、張られた結界が崩れかけていた。
「そんな……!」
無理だったのか。愛果は悔しさで唇を噛んだ。
そんな愛果に結希は気づいていた。一人だったら諦めているだろう、そう思って愛果を見上げる。
「……俺は、諦めません。信じて、待っていてくれる人が……いるから……」
結希の瞳は、何もかもを吸い込む宇宙のような漆黒の瞳だった。その瞳を見据え、愛果は頷いた。
結希は目を閉じて呪符を飛ばす。呪符は円を描きながら学園を囲んだ。
汗が結希の額から垂れ、愛果はもう一度唇を噛む。今の自分ができることは、こうして今にも倒れそうな結希を支えることだけなのだろうか。
「……ウチだって、アンタの力になりたいよ」
いち早く炎に気づけたスザク。
落ちた結希を助けた麻露、朱亜、和夏。
裏切り者が来た刹那に助けを呼びに行った鈴歌。
少女と操られた麻露を一気に相手にする熾夏。
愛果は何度目かの涙を流し、自分ができることに気がついた。
「ウチの力を結希にあげる」
目を閉じていた結希は、愛果が何をするのかわからなかった。だから、唇に押しつけられた柔らかい感触がなんなのかに気づけなかった。
唇から力が送られてくる。
愛果は妖力を結希に贈り、結希は愛果からそれを受け取る。
「んっ……?!」
体に違和感を覚え、愛果はゆっくりと目を開けた。
結希の顔が間近に見えても、唇を離すことは決してしなかった。
そして違和感の正体に気づく。黄金色に輝く自分の体は、結希に力を贈るのと同時に結希からもなんらかの力を受け取っていたようだった。
──バリバリバリッ!
結界が雷に打たれたかのような電流を放ち、一瞬にして何事もなく消え去っていく。
「……え?」
唇が離れた途端に愛果は辺りを見回した。いつもと変わらない学園の風景が逆に恐ろしかった。
「ひぇっ!」
何かが寄りかかったと思ったら、力が抜けた結希だった。
「ちょ! おも……」
い。
そう言おうとして、結希の体重の軽さに驚く。
「結希? 結希っ!」
リン。鈴の音が耳元で聞こえてきて、耳を触ろうと無意識に愛果は頭部に触れる。
「……うそ」
自分の身に起きたことを悟り、結希に尋ねようと首を回した。見えたのは、気持ち良さそうな結希の寝顔だった。
「襲っちゃダメだよ?」
「みぎゃあ!」
振り返ると、人間の姿に戻った熾夏が一人で立っていた。
髪にはきちんと呪文つきの白リボンを結び、右目には眼帯をつけている。二つの妖怪の半妖熾夏は、こうして強すぎる力を抑えていた。
「お、襲わない! 襲わないから!」
「えー、あぁーやぁーしぃー」
「怪しくないっ!」
結希を寝かせて飛びつこうとするが、いつもなら笑って躱す熾夏は慌てて手を上げて降参した。
「ごめんって! ほら、みんなを運ぶの手伝って!」
「……何。今日はめっちゃ素直じゃん」
「そりゃあ、今の愛ちゃんには勝てないからね」
「え? しい姉、勝てないって?」
「はいはい。鈴歌ー、もういいよー」
話を逸らした熾夏は鈴歌を呼び、一反木綿はのんびりと下降してくる。
「ちょ、勝てないってどういう意味よ!」
教えたくないのかはぐらかす熾夏に、愛果は頬を膨らました。だから狐は嫌いなんだ、そう内心で毒を吐いて。
「早く。弟クン死んじゃうよ?」
「ッ!」
愛果は結希を抱き上げて、一反木綿の背中に飛び移る。知らない間に苦しそうな表情になっていた結希を気にかけながら、彼女は痛む胸を抑えつけた。




