十一 『麻を彩る露』
明日菜に教わって金を引き出し、結希は一人帰路を歩く。
運動部の助っ人として各方面から引っ張りだこの椿と一緒に帰れるはずもなく、今までずっと一緒に帰っていた亜紅里には祠の調査を頼んでいる。任された亜紅里は一瞬驚いたような表情を見せたが、結希よりも狐の半妖である亜紅里の方が適任だ。任せる相手を間違ったとは思っていない。
あの日から何ヶ月も経って、その分彼女を待たせていたが──今日、やっと、擬人式神を剥がして亜紅里のことを送り出せた。
亜紅里が思っている以上に結希は亜紅里のことを信用している。だからか亜紅里は素で照れていた。
それに少しだけ罪悪感を抱く。百妖家が解体されていなければ、結希は多分亜紅里のことを選ばなかった。今日も学校に来なかった愛果辺りに頼んでいたと思う。同じように学校を休んだ依檻には相談していたと思う。
そんな相手が次々と自分の周りから姿を消した。会いに行けないわけでも連絡が取れないわけでもないが、気軽にできなくなったのは痛い。
百妖家は、半妖を監視する為だけの家ではない。半妖同士の繋がりを深める為でもあったのだ。
「……麻露さん?」
足が止まる。見覚えのある人影だと思っていたのに、本当に麻露が通学路に立っていた。
「結希。今帰りか?」
「は、はい。麻露さんは……あれ、麻露さん今日仕事休みですよね? こんなところで何してるんですか?」
「少し、裁判所に行こうと思ってな」
「裁判所?! そんなところになんの用があって行くんですかやめてくださいよ!」
「落ち着け。別に法廷に立つわけではない」
「じゃあなんの用があってそんなところに!?」
「傍聴席に行って見てみようと思ったのさ。あそこには……法廷には、あの人が立つからな」
「あ、あの人?」
法廷に立つ人間とは、誰だ。そこまで考えてそれが白雪であることに気づく。
「雪之原白雪──その、」
「姉さんですか?」
「……そうだ。その人の仕事がどのようなものなのか一度見てみたくてな」
「じゃあ、俺も行きたいです」
麻露の方に近づいていった。麻露は亜紅里と同じように一瞬驚き、おかしそうに笑い出す。
「裁判所に行きたいのか? 変わっているな、キミは」
「別に変わってないですよ。だって、《十八名家》の人たちがいるんですよね? ……あっ、もしかして未成年は入れないとかあるんですか?」
「あははははっ。そんなことはないさ、騒いでいたら当然追い出されてしまうがな」
「大丈夫です、騒ぎません」
「知っている。キミはそういう子ではないからな」
「じゃあ行ってもいいんですか?」
「あぁ。キミがここまで前のめりなのも珍しいし、裁判所はすぐそこだしな」
「えっ?」
裁判所の場所を意識したことなんて一度もなかった。麻露は笑って結希のことを手招きし、住宅地から外れた地区へと連れ出していく。
滅多に足を運んだことがない自然公園を突っ切っていくと、木々の奥にこじんまりとした裁判所が建っているのが視界に入った。ドラマで見たことがある裁判所の外観を保っていても、それが裁判所であることに気づく為にはある程度の時間を要してしまう。
「こんなに小さいんですか?」
「扱うのは陽陰町と近隣の村の……それも民事がほとんどの裁判だからな。そんなに件数がないんだよ」
「確かに……。裁判員も検察官も陽陰町の人で充分ですもんね」
「弁護士もいつかはそうなればいいんだがな」
麻露から片時も離れずについて行くと、敢えて話題にしなかった弁護士についての話題が出てきた。
弁護士にならなければいけないのは、骸路成家の一族だ。骸路成家には現役大学生の麗夜しかおらず、勘当されたアイラと意識不明の真璃絵が弁護士になる未来を描くのは難しい。
そもそも《グレン隊》や《カラス隊》に保護されている時点でアイラが目指したい職業が弁護士であるはずがないのだ。
アイラがなりたい職業が《カラス隊》だと聞いている以上、それを強制することもできなかった。
「そういえば、真璃絵はどうしているんだ?」
「……変わりないです」
「……そうか。時々見に行くよ、キミがなんと言おうとな」
「それは別にいいですけど……。だって真璃絵さん、こんなことになってるって絶対思ってないでしょうから」
真璃絵のことを知っているわけではない。ただ、悪い人ではないことは知っている。心優しい人だということも知っている。だから彼女が傷つく未来を簡単に想像してしまう。
「そうだな。……私もかつてはそうだったよ」
麻露が腕を組んだ。これ以上の会話は、傍聴席に入った時点でできなくなった。
麻露は検察官である実姉の白雪を片時も目を離さずに見つめている。
白雪は麻露が来ていることを知って明らかに動揺していたが、さすが雪之原家の現頭首──いや、旧頭首と言うべきか。おどおどとしている人という印象だったのに、堂々と自らの仕事を進めていた。
吹雪の方が現頭首に見えるのに、本家の人間だからと言って現頭首の席についた雪之原白雪。野暮ったい黒縁眼鏡をかけた彼女の凛とした姿は麻露から見えたものと大差ないのに、どうしても麻露の方が格好良いと思ってしまう。
身内贔屓をしていることに気づいていても、白雪がどれほど完璧に自分の仕事をまっとうしていても、結希は隣に座る麻露の方が好きだった。
小白鳥家の人間である中年女性の裁判官が町外の弁護士を一瞥する。
戸惑い、白雪に負けないように奮闘するが、町外の弁護士が負けることは素人の目から見ても明らかだった。
*
「あの被告の人、ちょっと涙目でしたね」
「あれほど検察官と弁護士との間に力の差があったんだ。あれは当然の結果だろうな」
「それってつまり、弁護士に力があったら勝てたってことですか?」
「そりゃそうだろう。だが、私は絶対にあんな奴の弁護なんかしない。例え弁護士が優秀だったとしても、必ず勝ち続けてやるさ」
「…………麻露さん、それってつまり……」
「ん? どうした、結希」
「……検察官になりたいってことですか?」
「……へっ?」
素っ頓狂な声を上げられた。だが、結希の方も自覚していないとは思わなかった。
「いや、だって今検察官になりたいなぁみたいな感じで語ってましたよね?!」
「だっ、誰がいつ検察官になりたいなぁと言ったんだ?! そんなわけないだろう! 私は巫女だぞ?!」
「やっ、そうですけど! そうですけど今のはだって……」
「シロちゃん!」
振り返ると、階段から全力疾走で駆け下りてくる白雪が視界に入った。ヒールを履いていることを忘れているのか、何度か足を縺れさせてついには階上から転げ落ちる。
「白雪さん?!」
「ちょっ、大丈夫ですか?!」
二人で慌てて駆け寄ると、ずれた眼鏡をかけ直す白雪がへらへらと笑ってなんでもないように取り繕った。だが、誰がどう見ても大丈夫そうには見えなかった。
「バカか! 足を捻っていただろ、見せてみろ!」
「えっ? わわわわわっ、シロちゃん! 大丈夫だよ、本当に大丈夫だからっ……」
「大丈夫なわけあるか! バカ!」
「まっ……またバカって言った?! 私はシロちゃんより賢いのに?!」
ショックを受ける白雪を無視し、彼女のパンツスーツの裾を無理矢理麻露が上げていく。顕になった足首に触れた実妹の麻露は、痛みで顔を歪める白雪を怒った表情で睨みつけた。
「白雪さんは本当に私の姉なのか」
「えっ?」
「なんで白雪さんが……なんで、こんな人が……」
「ちょ、シロちゃ……冷たっ?!」
視線を落とすと、白雪の足首を掴む麻露の手が異常なほどに白くなっている。
「麻露さん!」
慌てて白雪の足から引き剥がし、血が通っているように見えない麻露の右手を自分のマフラーで包み込んだ。マフラー越しだとその冷たさはわからないが、麻露の手に熱がないことくらい容易にわかる。
「…………っ」
「白雪さん、立てますか?」
「う、うん。ありがとう、結希くん」
「結希、こんな人に手を貸すな」
「何言ってんですか。自分の姉でしょ?」
「だから、姉なんて……思いたくないんだ」
「え?」
「シロちゃん……」
半分泣きそうになっている麻露を見たのは生まれて初めてのことかもしれない。いや、麻露に会ったのは今年の四月だ。
朝日の腹の中にいた時にある意味会っていたのかもしれないが、本当に、そんな麻露を見るのは生まれて初めてだったのだ。
「……ごめんね、シロちゃん。お姉ちゃんちょっと頼りないみたいだね」
よく見ると白雪の眼鏡にヒビが入っている。
彼女の瞳は歪んで見えなくなっているが、無理して笑っているのは口角を見ればわかることだった。
「お姉ちゃん、ずっと一人だったから……みんなから〝お姉ちゃん〟って言われてもよくわからないんだよね。〝お姉ちゃん〟できてる自信もないんだよね」
俯いた白雪は鼻声だった。白雪は多分、泣いていた。
「だって、シロちゃんの方が立派な〝お姉ちゃん〟なんだもん……私が〝お姉ちゃん〟じゃ、嫌だよね。シロちゃんが不満に思ってるのもちょっとわかるから、私、頑張ろうとしてるんだけど……すっごく空回ってるね」
「…………あぁそうさ。頼りない、情けない、白雪さんが姉だなんて思いたくない」
「麻露さん、何言って……」
「ごめんね。わかってるよ」
止めようとしたのに、白雪は麻露を受け入れた。それどころか抱き締めて、麻露の背中を優しく撫でた。
「私が〝お姉ちゃん〟でごめんね、シロちゃん。でも、シロちゃんの〝お姉ちゃん〟になれるように、お姉ちゃんずっと頑張るからね」
「…………し……き、お…………ん」
「え?」
「……白雪、お姉ちゃん」
白雪と同じく息が止まった。ずっと長女だった麻露が誰かを〝お姉ちゃん〟と呼ぶ日が来るとは思わなかった。
「シロ、ちゃん?」
「わかっているんだ。こんな人が姉だなんて思いたくない。それでも、白雪お姉ちゃんは間違いなく私の姉だって……法廷に立つお姉ちゃんを見てたら嫌でも思い知らされるんだ」
「シロちゃん……大好き」
「好きって言えるほど共にいたわけでもないだろう」
「それでも大好き」
「私はあんまり好きじゃない」
白雪から離された麻露は、自覚していないと思うがはにかんでいた。




