五 『帰るべき家』
丑三つ時も過ぎた頃、静寂が支配するこの家にインターホンの音が響く。鍵を開けてリビングまで上がってきたのは、百妖家の現頭首である仁壱と──真璃絵の本当の弟である麗夜だった。
「仁壱、麗夜さん」
ソファから腰を上げ、隣で寝ている椿と月夜を起こさないようにゆっくりと歩く。
麻露と亜紅里、そして紫苑は起きており、微動だにしないままそれぞれ別の場所を見つめていた。
「本当に、やったんだね」
人の気配を感じなかったのだろう。仁壱が呟くようにそう言った。
「麗夜さん、上までついて来てくれますか?」
麗夜は戸惑いの表情を浮かべつつも、すぐさま毅然とした態度で顎を引いた。仁壱はリビングの空気に耐えかねたのだろう。上には呼んでいないのに勝手に部屋までついて来た。
「この人が、骸路成真璃絵さんです」
麻露が言っていたことをそのまま伝える。
麗夜は、六年も眠ったままである幼馴染みの姉だった人から視線を逸らすことはしなかった。その強さで歩み寄り、眠る彼女のベッドの傍らに跪いた。
「…………ッ、」
声なき声が漏れてくる。震える音の正体は、涙を噛み殺す音だった。
自分以外の一族が全滅し、勘当されていたアイラと共に暮らすこともできず。ようやく会えた同じ血を分かつ姉は、目を覚ますのかさえ定かではない。麗夜の涙に共感することはできなかったが、同情することだけはできた。
「麗夜さん」
声をかける。
「その、真璃絵さんは六年前の百鬼夜行で死にかけていたらしくて」
その時のことを結希は知らない。これも麻露から聞いた話だ。
「俺が、その状態にしたらしいです」
「……今まで散々聞かれただろうが、この人を戻す方法は」
「……わかりません」
「生きていると信じていいのか」
「……俺や、家族は、みんな信じています」
「そうだろうな。死んでいると思いたくない」
恐る恐る麗夜が真璃絵の手を握った。麻露と同じくらい冷えきったその手に温もりを分け与え、麗夜は額をベッドに埋める。
「……父様や母様、爺様や婆様、叔母様や叔父様、大叔母様たちや大叔父様たちや、再従兄弟姉妹たちの死は認めても、この人の、姉様だけの死は……認めたくない」
亡くした者よりも、今を生きる者を信じて。そんな麗夜の背中を仁壱よりも尊敬していた。
「多分、姉さんたちは今、それぞれの家で現頭首になっているんだと思います。けど、麗夜さんは……骸路成家だけは、まだ頭首を交代させることができません」
「そうだろうな。……だが、それでいいのかもしれない」
「それでいいって……俺は真璃絵さんに会いたいです。真璃絵さんも姉さんだから、絶対に」
「俺だって会いたい。生きていてほしいんだ。だがな、時々、骸路成家は滅んだ方が幸せなんじゃないかと思ってしまうんだよ」
「……え?」
「麗夜、口を謹め。《十八名家》に対する反逆罪で打首にされるよ」
「それでもいいって思ってしまうんですよ、仁壱さん。姉様が目を覚まして俺の代わりに頭首になってくれたとしても、この家はもう駄目なんです。家として成り立っていないんだ、近い将来本当の意味で滅んでしまう。……もう諦めたいんですよ」
「諦める? 正気か? 六年も頭首をやっていた若き君が?」
年数も、歳も、関係ないような問題だと思った。それでも仁壱は麗夜の思惑をどうにかしようと躍起になって──口を噤む。
頭首として何も成していない議員秘書の仁壱が、頭首であり大学生でもある麗夜に言えることなんてない。百鬼夜行でどこよりも多くの犠牲を払った骸路成家は、何年経っても実質一人しかいないのだ。麗夜の心が折れて弱音を吐いてしまうのは無理もない気がした。
「……だとしても、俺は絶対に認めないよ」
視線を上げると、迷いのない眼で仁壱が麗夜にそう言っていた。
「君が本当の本当に諦めても、俺は絶対に認めない。百妖家の現頭首として君を支え、君が必要だと言うのならなんでも差し出す男になれるよう努力する。百妖家の力を振り翳し、本来の家の頭首になった奴らだって使って君のことを助けてやる。あぁあとコレも」
ついでのように親指で雑に差されたが、口を挟むことはしなかった。仁壱が口下手なりに何かを話そうとしているのだ。邪魔はできないし、結希だって最後まで聞いてみたかった。
「だから、滅んだ方が幸せだなんて悲しいことを言わないでくれ」
その言葉が仁壱の口から聞けるとは思わなかった。
「……仁壱、さん?」
「俺は〝一人〟じゃないってクソ生意気な弟が言ってくれたからね。麗夜も〝一人〟じゃないって言いたかったのさ」
仁壱の言葉がそんなにも意外だったのか、信じられないとでも言いたげに目を見開く麗夜の瞳が自分を捉える。真朱色の綺麗な瞳だ。アイラと同じ──そして、写真以外ではまだ見たことがない真璃絵の瞳もそんな色をしているのだろう。
骸路成家の、血よりも濃い赤目を持つ者はこの世にたったの三人だけ。その事実が結希の心を軋ませた。
「未だに百妖家に住むこの女の実弟が自分だと言うのなら、君だって俺の家族の端くれだ。見捨ててたまるもんか」
何かがあったらその手を必ず掴んでやる。今にもそう言いそうな表情で、仁壱は麗夜の心に手を伸ばした。
「……ありがとうございます」
未だに意外そうに受け答えをする麗夜だったが、再び結希に視線を移した時、腑に落ちたように力を抜く。
尻を床につけ、低い場所から真璃絵を見、実感が湧いていないのかぎこちなさが残る動きで彼女に寄り添う。
「仁壱さん、というか結希」
「あ、はい」
声をかけられるとは思っていなくて背筋を伸ばした。仁壱はなんで結希なのかと不満そうな顔をしたが、するだけで何も言わなかった。
「俺が大学を卒業するまで、姉様をここで預かっていてくれないか?」
真璃絵の面倒を見るのは仁壱じゃなくて結希だろう。それがわかっていたから麗夜は結希をじっと見上げる。
「正直、姉様を引き取っても面倒を見切れる気がしないんだ。アイラでさえ引き取れない俺だ、情けないとは思うが頼まれてほしい」
「別に情けなくないですよ」
麗夜は眉を下げて微笑んでいた。最低限の支援しか受けようとしない麗夜は、家族で生きていく為の準備を未成年のうちから始めていた強い人だった。
「恩返しです。麗夜さんにはたくさん迷惑かけてるんで」
「かけられているとは思っていないけどな。まぁ、お互い様ということなんだろう」
「そうですよ。お互い様です」
「胸を張るな。……幼馴染みの弟だったはずなのに、お前はいつの間にか本当の弟みたいにそこにいるな」
「そうですね〜。麗夜さんが兄だったら良かったんですけど現実って残酷ですよね〜」
「はうあっ?! 君、さり気なく俺をバカにしたね?! 君の兄は俺じゃないのか?!」
「紫苑にばっか小遣いをあげる人は知りません」
「はうあっ?! 君も俺の金目当てか! もういい知らん! 勘当する!」
「あ、じゃあもうあんたとは口聞かないんで。愚痴とか勘弁してくださいね」
「えっ」
仁壱に背を向けると、困惑した仁壱が顔色を伺おうと回り込んでくる。それにいちいち背を向けていると、いきなり麗夜が吹き出した。
「そうしていると、二人の方が兄弟みたいだな」
「えっ、嫌ですよ麗夜さんの弟になりたい」
「はうあっ?! ぐ、愚痴を控えればいいのか……?! それとも金をあげればいいのか……?!」
「姉さんを侮辱するような思考が死んだら戸籍上だけじゃない兄だって思いますけどね」
言葉で刺す。麗夜だけではなく、姉さんたちにも優しくしてくれたらそれでいい。
仁壱は、気まずそうに口を閉ざしたまま麗夜と結希の約束を聞いていた。
リビングに戻ると、麻露が麗夜に視線を止める。
「……麗夜、その、色々とすまなかったな」
「どうして麻露さんが謝るんですか」
「我々が家族であったこと。真璃絵を守れなかったこと。キミの家族を守れなかったことだって、我々にとっては苦しいことだった」
「俺は、二十歳になってすべてを知りました。けれど、貴方たちを恨んだことなんて一度もないです。あの時の和夏の顔を見ていたら、恨むことなんて決してできないですよ」
麗夜の方も苦しそうだった。きっと全員苦しかった。
「帰ります。結希、姉様のこと頼んだぞ」
「はい。任せてください」
胸を張る。真璃絵は自分の姉さんでもあるのだから、頼まれなくても永遠にやる。
麗夜が帰っても、仁壱は帰らなかった。
「……結希。キミは亜紅里と紫苑を連れて結城家に帰ってくれ」
「人の話聞いてました? 俺は麗夜さんから真璃絵さんを任されたんです。どこにも行きませんよ」
唇を噛んだ麻露はかける言葉を失っている。結希は息を吸い込んで、麻露にかける言葉を見つけた。
「というか、麻露さんが雪之原家に帰ってくださいよ。俺たちなら大丈夫ですから」
「待て、結希。それはできない」
「帰ってください。麻露さんたちには帰る家があるんですから」
「だが……」
人のことを精一杯に考えて、自分のことはまったく考えない不器用な人。そんな彼女にかける言葉はもっとある。
「あの家は、俺の帰るべき家じゃない」
ただそれだけだった。
「……そんな」
それがわからない麻露ではないだろう。だから視線を落としていた。
「あたしも帰る家なんてない。ママがいる場所があたしの家。今は、ここがあたしの家」
「俺だってねぇよ。だからもうどこにも行かねぇ。行ってたまるか」
三人とも、気持ちはいつまでも一緒だった。
「私には、帰るべき家がある……か」
「帰って、しばらく休んでください」
それが願いだった。
立ち上がり、真夜中であるにも関わらず麻露は一人で夜に溶ける。結希は、残った家族を見回して笑んだ。
「俺がこの家を支えるから」
その決意を告げた相手は、他でもない仁壱だった。それを告げられた仁壱は、結希に気圧されつつも確かに頷いた。
「頼んだよ、結希」
声に出して、「まさか君にこれを言う日が来るなんてね」と肩を竦める。そんな仁壱は確かにこの家の頭首だった。




