四 『共犯者』
「……ねぇ」
口を開いた依檻が麻露に詰め寄った。
「私だって、いつか終わる日が来るって思ってたわよ」
震える声で自らの胸を強く叩き、自らの思いを吐き出していく。
結希は、依檻が一年もしないうちにこの家から去ってしまうことを知っていた。
「でも、こんな終わり方ってないじゃない」
静かに涙を流す彼女の拳が赤く色づく。怒りの色だ。その怒りが麻露の心に届くことはない。氷柱の中に閉じこもってしまったかのように、心を閉ざす麻露の耳には届かない。
「……こんなのって、酷いわ」
「ッ!」
刹那に唇をきつく噛み締めた歌七星の視線が伏せられた。
歌七星は、依檻や麻露と同じくらい家族のことを大切にしていた。本物の家族を蔑ろにして、ずっと大切にしていた家族が崩壊する様を受け止めきれずに立っていた。
「……もっと、傷つけない言い方があったはずです」
幸福を模索し、幸福を受け入れようとしていた歌七星の声が掠れている。大切にしていた声でさえ綻びが生じてしまうほど、歌七星は麻露の身勝手な判断に憤りを感じていた。
「……何を言っても傷つけた結果は変わらなかったと思うがな。それに、熾夏の言葉を聞いていただろう。私たちはこれ以上周囲に甘えるわけにはいかないんだ」
「──?」
空気が止まる。恐る恐る視線を移して、彼女の真意を探ってしまう。家族ごっこを〝甘え〟と称し、更なる氷柱の奥へと閉じこもってしまった麻露は一体何を考えているのだろう。
「甘え……?!」
信じられない。そう言いたげに歌七星は両目を見開いて、麻露の言葉に動揺した。誰だってそうだった。麻露の真意が霧に覆われ、見えなくなることが怖かった。
「ちょっと待ってください、何が甘えだったと言うのですか……! わたくしたちがいつ周囲に甘えたと言うのですか! こんなに、こんなに、苦しくって苦しくって仕方がなかった日々を送っていたのに! 痛かったのに! 精一杯生きて、ようやくできた家族を愛して、戦ってきたのに! どうして周囲に甘えていると言うのですか!」
「甘えているだろう……! 年下の結希に、亜紅里に、紫苑や火影に、家族じゃないという重荷を背負わせているのは誰だ! 頭首になってくれたキョウダイの存在を見て見ぬ振りをしているのは一体誰だ! 和穂が休業したことを知らなかったとは言わせないぞ! 若くして頭首になってくれた麗夜や鬼一郎の痛みを、たった一人で次世代を担うことになった風や八千代の痛みを、今まで生きてきた中で一度も感じなかったとは言わせないぞ!」
歌七星が興奮気味に噛みつけば、麻露も興奮気味に噛みつき返す。
今日がいつも通りのなんでもない一日だったら、この二人は誰よりも冷静であれるのに。二人のたがが外れた今、依檻だけが悔しそうに顔を歪めていた。
眠る真璃絵は微動だにしない。椿は頭の処理が追いつかないのか、口を大きく開けたまま立ち尽くしている。頬に涙の後を張りつけた月夜は、小さく小さく蹲っていた。
「……それに、これは仁壱からも告げられていたことだ。ヒナギクは何故か今まで何も言ってこなかったけどな」
「……ヒーちゃんがなんかなんて言うわけないじゃん」
小声だったが、亜紅里の声は部屋に響く。重荷を背負わされた亜紅里は、良くも悪くも他人事だと決めつけて今まで口を閉ざしていた。
そういうところが亜紅里の一番の悪いところで、そうさせていたのが百妖十三義姉妹だった。
「頼む、歌七星。彼らに頼り切るのはもうよそう。家族ごっこの潮時だ」
「……本当に潮時だと思っているのですか」
「あぁ」
「……シロ姉」
望みが断たれた。信じていた人に裏切られたかのようだった。
「もういいわ」
「……依檻姉さんまで」
「シロ姉、今までお疲れ様。シロ姉の決断は間違ってなかったと思うけれど、正しいことだとは思っていない。当然、『ありがとう』とも言えないわ。誕生日に話したからって罰を受けた気にならないでね。……けど、お誕生日おめでとう。貴方に出逢えて、貴方がお姉ちゃんで本当に良かったわ」
「ッ、姉さん!? なんで貴方までわたくしを置いていくのですか!」
依檻も去る。依檻なんていつでも会えるような人なのに、どうしようもない虚無感が込み上げてくる。
「キミも、姉さんになる時だ」
「ふっ、ふざけないでください! わたくしは、もうずっと前から姉ですから!」
歌七星は泣きながら最後に吠えた。
戸惑いながら、手探りのまま、迷うように去っていく。結希に思いを吐露した和穂と奏雨の元へと帰っていく。誰よりも家族から詰られるであろう歌七星は義姉妹の中で一番哀れだ。それでも、いつか帰らなければならない家がある。それを持っていたのが百妖十三義姉妹だった。
「麻露さん」
もう誰も言葉を発しないようなこの部屋で、結希だけが口を開く。
「その、〝なんとかする〟ってこういうことだったんですか?」
結希は、結希の為だけに全員を裏切った麻露の気持ちをどうやったって信じることができなかった。結希よりも義姉妹を大切にしていたはずなのに、家族だと認めた途端に終わりを選んだ彼女の真意が汲み取れなかった。
亜紅里や紫苑同様結希だって所詮は他人だ。家族同然として暮らしていた百妖十三義姉妹の喧嘩に口を挟むことはできなかった。だから今になって口を開いたのに、麻露の瞳が熱を帯びることはなかった。深い青目は最初に会った頃のようだった。
「キミのせいじゃない。私自身ももう疲れたんだ」
それを聞かされた椿と月夜は、一体何を思ったのだろう。
「あっ、つ、疲れてたのか?! シロ姉、そういう時は飯だっ! 飯を食べたら元気になる! ほら、ここにこーんな美味そうな飯がいっぱいあるだろ?!」
的外れなことを言って、少しでも麻露に元気になってもらおうとして、空回った椿の元気は雪に埋もれる。
「えっと……アタシは絶対出て行かないからな! 月夜は? 月夜はどうする?」
「……出てかない。だって、まだ、ささちゃん帰ってきてないもん」
椿の残留の意図は謎だったが、月夜の思いは明瞭だった。
「帰ってくるのかは謎だけどねぇ」
「亜紅里」
亜紅里は短く舌を出し、ママの毛に顔を埋める。ママは九尾で亜紅里を撫で、ポチ子は綿毛のようにママの背中を転がっていく。
「麻露さん」
麻露は結希を一瞥し、リビングを出て廊下の奥へと引っ張られた。そのまま階段を下りていき、あの時の壁に結希自身の手によって押しつけられる。
「なっ、結希?!」
こんな状況になる直前まで、麻露の表情は硬かった。なのに今は困惑している。結希がこんなことをするとは思わなかったとでも言いたげに。
「俺は麻露さんの味方ですから」
思うことは多々あるが、これだけは遠い昔に決めていたことだった。
それは、親同士の偽りの婚姻に同意して、同じ嘘を吐き続けていた麻露と結希の〝契り〟のようなものだった。麻露と結希は、同じ罪を背負っているから──
「だから、嘘を吐かないで」
──誰よりも幸福であることを、強く強く願ってしまう。
「う、うそ……?」
その単語を飲み込んで、麻露は結希の胸元を握り締めた。ぐしゃぐしゃに皺をつけられたパーカーが冷える。顕になった襟首も冷える。
「……ッ!」
深い青目から溢れたものは、固体ではなく液体だった。さすがに目から氷を流すことはなかったが、冷たい涙であることに変わりはなかった。
「私だって、終わらせたかったわけじゃない」
「はい、知ってます」
「けど、もう、嘘を吐き続けることができないんだ」
「……わかってます」
特に麻露は、白雪から王冠を受け取るに相応しい年齢をとっくのとうに越している。依檻も、歌七星も、鈴歌や熾夏や朱亜だって、誤魔化せるような年齢じゃない。
未来を守る為に頭首交代を迫られたのに、肝心の頭首がいないせいで玉座に座らざるを得なかった偽りの王たち。そんな彼らは彼女たちを恨むだろうか。
恨むような人たちだとは思えなくて、正当なる王の帰還を知る由もない彼らの今に思いを馳せる。
「俺も、間違ってないって思います。百鬼夜行は必ず来るから」
無意識のうちに麻露の両肩に置いていた手が、麻露の恐怖を感じとる。
「──だから、家族は団結すべきなんです」
知らないまま「さようなら」をさせるわけにはいかなかった。会えるうちに会わせた方が幸福だとも思う。
「……そうだな。力を合わせて戦わなければ、犠牲者は増える一方だ」
「同時に、俺たち家族も団結するべきなんです」
そうじゃなければ百鬼夜行は生き抜けない。
結希は百鬼夜行を知らないが、周りの人間の反応だけでわかってしまうことはある。
「だから、麻露さんは正しくない」
「……キミは、味方だと言っておきながら否定もするのか」
「だって好きですもん。麻露さんのこと」
「…………」
「依檻さんのことも、真璃絵さんのことも、歌七星さんのことも、鈴歌さんのことも、熾夏さんのことも、朱亜姉のことも、和夏さんのことも、愛果のことも、椿ちゃんのことも、心春のことも、月夜ちゃんや幸茶羽ちゃんのことだって。それで、亜紅里やヒナギクや火影も一緒になったら、怖いものなんてないでしょ?」
「そして、キミがいたら──百倍も強くなれる」
「強くなってくれないと困ります。俺、〝あの人たち〟のことも守りたいって思ってますから」
「私だってそうさ。みんなが家族を守る為に戦ったら、犠牲者なんて出るはずがない。ただな、結希。何度でも言うが、私が何を言ったところできっと全員傷ついていた。依檻と歌七星に相談して、協力してくれることになったとしても。結局はバラバラになってしまう」
否定はできなかった。ただ、これだけは言えた。
「俺の家族は全員強いですよ。だから、その傷を乗り越えてくれるって信じてます」
「……キミは私たちの何を知ってそんなことが言えるんだ」
半ば呆れた様子だったし、過信し過ぎだとでも言いたげな表情だった。それでも。
「全部じゃないですけど知ってることはたくさんあります。俺は、あの人たちが命を削って戦う様をこの目で見てきた。過去の自分を乗り越えて、生まれ変わってくるところを見てたんです」
だから信じられる。
麻露は何も言わなかった。
一人で階段を上っていく麻露を見送り、結希はポケットの中からスマホを取り出す。そして相変わらずの留守番電話であることに不満を抱きつつ──
「頼む、俺と姉さんの為に帰ってきてくれ」
──実母であり、この町の外で暮らしている朝日に言葉を残した。
帰って来るような気もするし、帰って来ないような気もする。一度誘ったのにこの家に来ようともしなかった朝日は、終わったこの日をどんな風に過ごしていたのだろう。




