三 『終わる日』
黒髪を襟首で一つにくくり、顕になった肌に触れる。ここに触れる度に思い出すのは、息が詰まりそうになるほどに陰鬱な陰陽師の新年会だった。
だが、新年会だと言っているような暇もない。麻露の誕生日会の為に集まった家族全員をゆっくりと見回し、その中に幸茶羽だけがいないことを認識する。幸茶羽が出ていって九日が経った十二月十日は、誰もが休みを取る休日の土曜日だった。
学校にも行っていない、町外に出て異なる暮らしをしている幸茶羽だけがここにはいない。黄昏時の終わりからリビングに顔を出すようになった家族全員は、幸茶羽のことを気にかけつつも彼女の拒絶から目を背けているようだった。
「シロ姉、ご飯できたわよ〜」
「お待たせしました。そろそろ始めましょう」
依檻と歌七星の声が聞こえてくる。普段から食事を作っている麻露は、忙しい日々を送っているにも関わらず今日だけは当番を譲らなかった義妹を見上げた。
巫女の麻露。教師の依檻。意識不明の真璃絵。アイドルの歌七星。歌七星と同じ事務所に所属することになった、新人声優の鈴歌。医者の熾夏。小説家の朱亜。大学生の和夏。高校生の愛果と椿。そして亜紅里。中学生の心春。小学生の月夜と幸茶羽。居候だった結希と紫苑と、ここにはいないがついでに議員秘書の仁壱も。全員が全員、百妖家としての誇りを持ってここにいることを知っている。
「豪勢だな。当てつけか?」
「嫌ね。日頃の感謝を込めているのよ」
「そうですよ。今日は幸せな日にしましょうね、シロ姉」
麻露は笑う。だが、目だけが笑っていなかった。
「何を言っているんだか。二十八年間生きてきたが、貰ってばかりの人生だったよ。こっちがキミたちに感謝したいところだ」
「あら珍しい。ありがとう、シロ姉」
「私からもありがとうございます。いつも、いつも」
「…………ハピバ、シロ姉」
「おたおめ〜。アラサー楽しんでね〜」
「シロ姉! 今まではわらわがシロ姉のお下がりを着ていたからな、今年はわらわがシロ姉に服をプレゼントするのじゃ!」
「おめでと〜! ワタシはマフラーだよ、ふかふかのヤツ!」
「おめでとおめでと。ウチも感謝してるけど、学業のお守り二十個はさすがに重いかなって感じ……あっ、それともそんなに不安なの?! ウチが〝落ちる〟って思ってるの?!」
「ん? 愛姉、それこの間禁句って言ってなかったっけあいだっ?! し、シロ姉っ、もちろんアタシからのもあるから見てくれよな!」
「シロ姉、これ、つきとささちゃんで選んだの……! つきからじゃないよ?! ささちゃんと選んだんだよ?! だから……」
「わかってる。ありがとな、月夜」
「ッ!」
麻露に頭を撫でられた月夜は、目元を強く拭って下がる。結希も、亜紅里も、紫苑も、麻露に日頃の感謝を告げて。ママとポチ子は我関せずといった態度を崩さなかった。
「キミたちは双子だ。何があっても、それだけは変わることのない真実だ」
わざわざ月夜の傍まで行って、彼女の頭を撫でながら麻露は告げる。
「……一人いないが、私の話を聞いてくれないか?」
願うように問うて、月夜の髪から名残惜しそうに指を離す。
「いざ話すとなると、どう説明していいのかわからなくなるんだが」
手が眉間に触れることはなかった。図らずも中央に立った麻露は、全員の顔を見回すことなく視線を伏せる。
「キミたちは知っているよな。私は、回りくどいのが嫌いなんだ」
細雪が降り始めた。麻露の心境によって発生する真っ白な雪は、全員の肌に触れて溶ける。
「──私たちは、家族じゃない」
深い青目は、寂しそうだった。言葉の意味が理解できず、結希は依檻と歌七星に視線を移す。それが無意識であったことに驚き、麻露が真実を告げたことに遅れて気がついた。
「ん? 家族じゃないってどういうことだ?」
事態を深刻に捉えていない椿の声が胸を抉る。
「シロ姉、待っ」
「血が繋がってないってことだ」
「シロ姉!」
依檻の静止を振り切り、歌七星の叱責を無視する麻露の心が隠されていく。
「えっ……と、シロ姉? 急にどうしたの?」
真実を知らない心春は、それを真実だと捉えなかった。悪い冗談だと、何故今この場でそれを言ったのかと、不思議そうに首を傾げている。
「私の本名は雪之原麻露。依檻は炎竜神依檻で、真璃絵は骸路成真璃絵──」
「ちょっ、だから待ってって! シロ姉、悪い冗談はやめてくれる?!」
「わかってますよね?! 自分が今、何を言っているのか……! わからない貴方じゃないでしょう?!」
「いお姉かな姉黙って! 今、シロ姉が大事な話してるでしょ」
すべてを知っている熾夏は、依檻と歌七星に敵意を向けた。隠されていることに憤りを感じていた愛果も、依檻と歌七星に敵意を向けた。
「続けて、シロ姉。今さら何を言われたって驚かないから」
怖い顔をしている愛果を見るのはこれが初めてじゃない。だが、今まで見てきたどんな顔よりも恐ろしい怒りを内包している。
「泡魚飛歌七星、綿之瀬鈴歌、妖目熾夏、首御千朱亜──」
刹那、朱亜が首を切られたような声を出した。ひゅっと──喉に風が通るだけの小さな小さな声だったが、静まり返ったリビングで聞くには充分だった。
「猫鷺和夏、相豆院愛果、鬼寺桜椿、小白鳥心春」
和夏は鼻を掻き、愛果は唇を噛み、椿は忙しなく辺りを見回し、心春はごくりと唾を飲み込む。
「芽童神月夜、芽童神幸茶羽」
月夜は、涙を流しながら先ほど麻露に撫でられた頭に手を置いた。
「以上だ」
重い声が落ちる。雪之原家に戻ったら最年少になるであろう麻露は、いつにも増して顔色が悪い。健康的な肌の色をした依檻は、ブラウンの双眸を見開かせたまま動かなかった。意識のない真璃絵も微動打にせず、和穂と奏雨両方から真っ先に非難されるであろう歌七星は泣いていた。
「私たちは、亜紅里のように《十八名家》の家に生まれてきた赤の他人だ。だが、たまたま半妖だった私たちは半妖を管理する百妖家に預けられたんだ。結希の母親の朝日さんが私たちを家族にすると言い出して、それ以来、私たちは生まれた時から家族だった。……けれど、もう、それも終わりだ」
その終わりは、本来ならば過ぎ去ってしまった終わりだった。今まで延命していただけで、息の根はもう止まっていた。
「どうするのかなとは思ってたけど、まさか自分の誕生日の日に言うなんてねぇ〜。私、シロ姉のそういうところ大好きだよ」
熾夏はソファから立ち上がり、ひらひらと右手を振ってリビングの扉へと歩を進める。
「いちぬけぴ。下の子は知らないと思うけど、私たち半妖は自分が産まれた家の頭首になる運命だから覚えておいてね。私は妖目家に帰って速攻で頭首交代するから、みんなバイバイ。元気でね」
まだ誰も何も言っていないのに、熾夏は早々に見切りをつけて百妖家から出ていった。ここが本当の家ではないと知ったその時から、真っ先にこうすることを決めていたのだろう。そんな切り替えの早さだった。
「…………言いたいことは、わかった。ボクが本当にワタノセレイカなら、フウはボクの姉さんってこと」
鈴歌も早々にそのことを理解し、なんの躊躇いもなく腰を上げる。
「…………なら、行かなきゃ。〝五人目の姉さん〟に、言わなきゃいけないこと、たくさんあるから」
鈴歌も。
「嘘つき。でも、今まで育ててくれてありがとう。相豆院ってことはアイツと鬼一郎のところでしょ? ホント最悪。……やっぱり他人じゃなかったんだ」
愛果も。
「そういえば、叶渚さんに初めて会った時懐かしい匂いがしてたなぁ〜。あの匂い、もう一度嗅ぎたい」
和夏も揃って歩を進めた。立ち止まる様子を一切見せず、こちらに目を向けることもなく。熾夏と違ってもう一度会えるような雰囲気を残しつつ、振り返らないということはそういうことのような気がして胸に開いた穴を確かめる。
「……ぼく、お姉ちゃんのこと大好きだよ」
心春は麻露を見てそう告げた。依檻を見、歌七星を見、幸茶羽を含む五人が抜けた百妖家を見る。
「急にそんなこと言われても受け入れられないし、困るよ。……怖いよ」
「すまない心春。だが私は、前に進もうと思うんだ」
「その言い方は違うでしょ。これは前に進んでるって言わないわ!」
「根本を打ち砕かれたんですよ。もう戻らないかもしれないくらい、粉々に!」
依檻と歌七星は珍しく、というかほとんど初めて結希の前で麻露を怒鳴る。麻露や真璃絵とはあまりにもかけ離れた真っ赤な肌で、麻露だけを非難する。
「いお姉とかな姉も知ってたんだね。知っててくれて本当の妹のように愛してくれていたんだね」
心春はそんな様子を寂しそうに眺めていた。
「お願い、シロ姉を怒らないで。ぼく、喧嘩してる家族を見るのが大っ嫌い。でも、男の人が怖くなって、そんなぼくの傍にずっといてくれたお姉ちゃんたちはいつまでも大好き。もちろん、お兄ちゃんも」
最後に結希を一瞥し、心春は意を決したように扉へと歩く。依檻と歌七星だけが心春の後ろ姿を信じられないとでも言いたげに眺めていた。
「こはっ……」
「大好きだから、ぼくはもう大丈夫って言わせて。お姉ちゃんがいなくても、ぼくはやっていけるって証明させて」
誰も、前を向こうとする心春を止められなかった。他の五人とは違う感情で去っていく彼女が眩しかった。
「……本当に、本当にわらわは〝首御千〟朱亜なのか?」
震えるような声で問うた朱亜は、口元を手で覆って瞑目する。そのまま流れた涙の意味を、結希だけが知っていた。
首御千家の本家の娘ということは、あの青葉の妹ということだ。あの、朱亜が恋焦がれた男の妹ということだった。
「……全部、あの人は知っていたんじゃな」
血の繋がった兄妹だから、朱亜の想いには応えられない。すべてはそういうことだったのだ。
「あの人が誰なのかは知らないが、キミは首御千朱亜だよ」
朱亜はゆっくりと俯いて、僅かに顎を引く。
「あぁ、最悪。……死にたい」
啜り泣き、普段の口調を忘れた彼女はリビングから走り去った。朱亜にまだ恋心があったのなら、今日という日ほど最悪なフラれ方はない。
朱亜の本当の気持ちが結希にわかるはずもなかったが、残された義姉妹たちと共に地獄のような沈黙を味わう。他の六人とは違う感情で去っていく朱亜のことが、哀れで哀れで仕方がなかった。




