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百鬼戦乱舞  作者: 朝日菜
第九章 諸刃の氷雪
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二  『足跡』

 月夜つきよが震えながらも発した声が、あんまりにも切実で。あんまりにも痛々しくて。耳を、そして胸中を薄暗く支配し自分の手足を拘束する。その薄暗さは、新月である今夜と大差なかった。

 結希ゆうきは深夜であるにも関わらずベランダに出、痛いくらいに肌を突き刺す冷気を浴びる。眠気なんて感じる暇もなかったが、徐々に徐々に思考が明瞭になっていく理由に気づいてしまった。


 新雪をわざとらしく踏みつけて遊ぶような心の余裕が絞り出そうとしても出てこない。

 気持ちの切り替えができたつもりになって、本当はできていなくて、人のことなんて言えないと悟って、グラデーションのように明確な変化がない心境から解放されたくなった。なのにまだ、眠れない。


 恐らく、この家にいる全員が眠れない夜を過ごしている。どの部屋の灯も消えているが、それだけはわかる。わからないのは幸茶羽ささはだ。幸茶羽はこの事実を知っているのだろうか。幸茶羽や、芦屋あしや家にいる彼らも眠れない夜を過ごしているのだろうか。


 実母が愛し、実父が愛した両義兄弟姉妹のことを──考えて、考え抜いて、不意に両膝を折りたくなった。


「結希」


 初めて聞いたあの時とは違う声が耳朶を打つ。振り返ると、雪が似合う麻露ましろがたった一人で立っていた。

 曇り空は新月だけでなく星々さえ隠し通し、麻露の表情を見えにくくする。彼女の背後に広がるリビングは、結希が初めて中に入った百妖ひゃくおう家の一室で。あの日あの夕暮れあの場所で、初めて会話を交わした麻露は、そんな過去を覚えているのかいないのか曖昧な足取りでベランダに出てきた。


「足が……」


 止めようとして言葉が掠れる。雪女ゆきおんなの麻露は、素足のまま結希が辿った道を歩いた。決して赤らむことのないその白き足は、やはり魔物のもののようだった。


「冷えるだろう」


「……別に、体温高いから」


朝日あさひさんから貰った血だ。そんな血でも、あっという間に凍ってしまうぞ?」


「…………」


 羽織っていたストールをかけられる。首筋に一瞬だけ触れた麻露の指は氷柱のように冷たくて、思わず身震いをしただけなのに笑われる。


「いいですよ、こんなの」


「着ていろ。中に入る気などないのだろう?」


「これ女物じゃないですか。麻露さんが着ててくださいよ」


「ただの防寒具に女物も男物もないだろう。寒さを凌げればそれでいい。キミだって寒いのは嫌だろう?」


「暑いか寒いかだったら寒いを選びます。夏か冬だったら冬ですよ」


「意外だな。キミは触れたくないんだと思っていたよ」


「あの時の麻露さんが依檻いおりさんだったとしても触れたくなかったですよ。凍死も嫌ですけど、焼死も嫌です」


「ハハッ、キミなら溺死も嫌だろうな」


 隣に立ち、真新しい雪を両足で踏み締めた麻露は爪先で雪を弄んでいた。決して溶けない雪は麻露の体を受け入れているようで、結希はそれをじっと見つめる。


「恨んでいるか?」


 麻露も、それを見つめながら問うてきた。


「……誰のことをですか?」


 結希はあえてそれを問うた。


「私だよ」


 ほっそりとした、今にも折れそうな足の甲に雪が降りた。


「貴方の何を恨むんですか。俺は今、幸せなのに」


 雪が再びこの地に降りる。麻露に降りる雪は溶けないのに、自分に降りる雪は溶けて水になる。


「濡れているぞ」


 それを見た麻露はもう一度笑みを浮かべ始めた。だが、表情が笑っているだけだった。結希は、こんなにも悲しい笑みを今まで一度も見たことがなかった。


「おいで」


 ただついていく。麻露が歩んだ道の上から新しい足跡をつけながら、子供のようについていく。

 雪を払った麻露が上がり、かけられたストールで軽く頭を拭われてから上がる許可を得る。熾夏しいかや依檻の時点でわかっていたが、長女である麻露もまた、結希を子供おとうと扱いする人だった。


「麻露さんは」


 声をかけ、視線が自分の視線と絡まるのを待つ。


「俺のこと、〝なんだと〟思ってますか」


 声のトーンが一弾下がった。下げるつもりなんてなかったのに、責めているような口調になって内心焦る。


「……〝なんだと〟?」


「熾夏さんと依檻さんは、俺のことずっと〝弟〟だったって。でも、麻露さんはそう思ってなかったですよね?」


 今でも鮮明に覚えている。温かかったあの春の日に、あの階段で直に感じた冷気と凍てつくような鋭い視線を。今も結希を見つめている、青よりももっと深い、魂を吸い取られるかのような青い瞳を。


「……確かに、弟だな」


 その瞳が緩んだ。細められたそれは俯きと同時に隠されて、麻露は力なくテーブルに腰かける。


「確かに弟だ。あぁ、キミは私の弟だよ。弟だったんだ、最初から……」


 震えた肩の意味は知らない。泣いているようにも笑っているようにも見えるから、反応に困る。


「……奪われたわけじゃ、ないのに」


 刹那に脳裏が鈍く痺れた。やはり泣いていた麻露のその声色は、二十代後半の女性のようなものではなくて十代にもならない子供のような声色だった。

 朝日が最初に出逢い、最初に育てた〝始まりの子〟は、結希じゃなくて麻露だったことを結希は一度だって考えなかった。初めて抱き上げた子も、初めて一緒に眠った子も、初めて愛した子も──すべての初めてを奪った麻露は、ぎゅっと両手を握り締めた。


「どうして私は、キミのことを弟だって思えなかったんだろうな」


 言葉にできない衝撃をなんとか処理しようとして、麻露に問いかけられて、虚無の声を思わず漏らす。


「どうして熾夏は、依檻は、キミのことを弟だって思えていたんだ……確かにあの時、一緒に、お腹の中にいるキミを見ていたのに。いつの間にボタンを掛け違えていたんだ、私たちは……」


「麻露さん」


 初めて見た時の麻露にはない震えだった。あの頃からずっと見ていた麻露の背中が崩れ落ちる音がする。今になってようやく麻露に憧れを抱いていたことに気づいた結希は、子供っぽさも持ち合わせていた麻露の弱音を飲み込んだ。それでも強く在れと鞭を打った。


「シロねぇ


 結希が憧れながら見ていた人は、百妖麻露ではなく、雪之原ゆきのばら麻露でもなく、みんなのシロ姉だったのだ。姉として強くあろうと、弱音を一切吐かない戦う人だった。

 だから、予想通り麻露がゆっくりと顔を上げた様を申し訳なく思いながら見守っていた。だが、その端正な──氷像のように透き通った美しさを持つ顔に涙の欠片は落ちていなかった。長い間泣くことを忘れていた人の、苦痛に歪められた表情に再び言葉にできない衝撃を受けた。その表情がシロ姉の表情に変わっていく摩訶不思議な映像を、結希はじっと見つめていた。


「……ただのゲストのつもりだったんだ。朝日さんの頼みだから、できるだけ断りたくなかったんだ。繋ぎ止めたくて利用しただけだったのに、なのに、なんで不快じゃないんだろうな。キミにそう呼ばれること、キミが当たり前のような表情でここにいること、いつの間にか──それが私の当たり前だった」


 胸につかえていたものが消えたように晴れ晴れとした微笑を浮かべ、麻露はゆっくりと瞑目する。


「家族だよ。キミは私の大事な家族だ。もうずっと前からちゃんと家族だったんだよ」


 そうして結希の中にもあった僅かな苦悩を消していった。

 本格的に降り始めた雪は結希の足跡を消していくのに、麻露が気を利かせてつけていた床暖房のおかげで爪先からじんわりと熱が広がっていく。


「うん。言葉にするとすっきりするな。なんで今までこのままでいられたのか不思議なくらいだ」


「そうですね……」


 僅かな苦悩が消えた程度ではもうなんとも思わない。相槌を打ち、結希はゆっくりと視線を逸らす。


「結希、そういうことだから聞かせてもらおうか」


 何を、そう尋ねる暇もなかった。


「キミは今、何を思っている?」


 その言葉の意味をいっぱいいっぱいとなった頭脳で考えた。


「私にどう思われているか。キミの悩みの本質はそれじゃないだろう」


 そういうことか。いっぱいいっぱいとなった頭脳を差し出せということか。


「それ、言わないとダメですか?」


 紫苑しおんには、なんとなく養父のことを伏せておくように頼んでいた。

 別に他の誰かに知られたところでたいした問題は感じない。問題なのは、それを聞いた今の家族が何を思うかだ。その〝何か〟がなんであれ、結希はその〝何か〟を思ってほしくなかったのだ。


「私は百妖麻露だぞ」


「なんですか、それ」


 思わず零れた笑みの理由は、シロ姉という人間を知っているからなのだと思った。だから結希は、芦屋雅臣あしやまさおみが実父であることを話してしまった。


「それはつまり、紫苑しおんにとってのキミは──本当に義兄弟ということか?」


「みたいですね。真菊まぎくもそれが原因で俺のこと相当嫌ってますし」


 瞬間麻露が沈黙した。この空気に覚えがあった結希は「可哀想」と言われることを悟って身構え、麻露が無言のまま近づいてくる様を怯えにも似た瞳で凝視する。


「わかる気がするよ。真菊の気持ちが」


 共感は得られなかった。むしろ向こう側の人間に共感された。



「──それでも私は、キミを愛する」



 そして、同情もなかった。


 麻露は腕を広げて温かく笑った。その目はどこか、慈愛と懸念を宿していた。

 それも抱き締められた瞬間に吹き飛んでいく。目頭が熱くなり、視線を麻露の旋毛に置く。


「キミが両側から引っ張られて引き千切られそうになった時は、私がなんとかしてみせる」


「別に、なんとかしなくてもいいです」


「させてくれ。キミは朝日さんの息子で、百鬼夜行を終わらせた人なのだから」


「…………」


 それだけですかと問いかけた口を閉ざした。朝日の実子じゃなかったら、百鬼夜行を終わらせていなかったら、自分にはなんの価値もないということか。

 窓硝子に映った自分は何故か涙を流していた。あまりにも自然と流れてきた涙を、悲しいとも苦しいとも言えない表情で──無表情のままで泣いていた。泣けなかった麻露の代わりに泣いて、なんとも言えない気持ちになって、縋るように抱き締め返す。それだけで妙な安心感が得られていた。


「髪伸びたな」


 急に関係ないことを言い出した麻露は、結希の襟髪を指先で弄って顔を上げる。


「……元日まで伸ばしてるんです」


 なんでこの人はこのタイミングで顔を上げたんだろう。泣いているってわかってたくせに、見られることを嫌がっているってわかってたくせに、なんで顔を上げたんだろう。


「じゃあ、元日が終わったら切っちゃうのか?」


「切りますよ、ばっさりと」


「そうか。勿体ないな」


「だって邪魔じゃないですか。これ別に趣味で伸ばしてるわけじゃないし」


 元日に着る衣装の為に伸ばされた髪は、既に肩にかかっている。そろそろ一つに結ぶような時期だろう。

 毎年この時期になると憂鬱になるが、今年は今まで以上に気が沈むような日々だった。

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