幕間 『魂の残火』
私がまだ六歳の時、この家に鈴歌と熾夏と朱亜が来た。
生まれた日はバラバラで、どうやったって三つ子にはならないのに三つ子として扱われた可笑しな子供たちだった。
本当に彼女たちが三つ子なら、三人を産んだ母親はバケモノだと思う。けれど、朝日さんは──私たちの養母の朝日さんは、笑って私たちを家族にした。朝日さんが結んだ絆が、何故か無性に暖かかった。自分の中に潜む業火が、喜びの火柱を上げていた。
そんな朝日さんの養母の辞任は、十歳になった私とみんなの人生に影を落とした。日に日に膨らんでいく朝日さんのお腹が嫌でも視界に入ってくる。そして、その中で守られている赤ん坊にもなり切れない〝何か〟が私たちの終わりを告げていた。
「ねぇ、朝日さん」
去っていく彼女を呼び止める。何度も泣いて、何度もさようならをして、それでも私は彼女の背中に縋ってしまった。
「依檻ちゃん」
困ったように笑う朝日さんに向かって否定する。私は貴方を引き止めに来たんじゃない。それはもう仕方のないことなんだと理解して、〝お母さん〟という存在をちゃんと諦めるから──
「お腹の音、聞かせてくれる?」
──私たちから〝お母さん〟を奪った、まだヒトになり切れていないバケモノの心音を聞かせてほしい。
私が自分の実子についてどんな感情を抱いているのかも知らずに、朝日さんは嬉しそうに笑ってお腹を私に近づけてきた。私はそっと耳を近づけ、どくんどくんと気持ち悪い音を立てて生きているバケモノの命の鼓動に耳を澄ませる。
「可愛いでしょう?」
「うん、可愛い」
最低過ぎる嘘だった。
「あっ」
「あ」
瞬間、私に腹が立ったのかバケモノが私の頬を蹴った。本当に、思いっ切り、自分のほっぺたを蹴ってきた。
「……!」
何故だかぼろぼろと涙が溢れてくる。ねぇ、どうして? どうして私のことを蹴ったの? 私は朝日さんのお腹でもある貴方のことを殴れないのに。
「い、依檻ちゃん……! ごめんね、痛かった?」
朝日さんが慌てて私に謝るけれど、こんなことをされて大泣きするほど私は子供というわけでもなかった。朝日さんが与えてくれた〝お姉ちゃん〟という立場だったから思うように泣けなくて、呆然と朝日さんのお腹を見つめる。
「きっと、早く〝お姉ちゃん〟に会いたいのよ」
「え……?」
「みんな、この子にずうっと声をかけてくれたでしょう? だから、みんなに会いたくって会いたくって仕方がないのよ」
「この子、私のこと〝お姉ちゃん〟だって思ってるの……?」
〝お母さん〟を奪っていくバケモノなのに。バケモノのくせに。
「あっ、また蹴った。『そうだよ』って言ってるみたいね」
「私、〝お姉ちゃん〟?」
おんなじバケモノとしてこの世に生を受けた私は、なんとなくこの子のことを他人だと思えなくなってしまった。蹴ることで、私に命というものを嫌でも理解させてきたこの子のことを憎めなかった。
朝日さんは、「麻露ちゃん、依檻ちゃん、真璃絵ちゃん、歌七星ちゃん、鈴歌ちゃん、熾夏ちゃん、朱亜ちゃん、和夏ちゃん。みんながこの子の〝お姉ちゃん〟よ」そう笑って肯定して、無責任に去っていった。私は、〝お姉ちゃん〟なんだと思って鼻を啜った。
*
「──まりちゃん!」
同じ大学に通っている彼女と共に行動し、徐々に徐々に町の中心部へと向かっていく。どうしてそっちに向かうのか。それは、町中から溢れ出した妖怪がそっちに向かって行進しているからだった。
「まりちゃん、待って! これは百鬼夜行よ! 突っ走らないで!」
声が枯れそうになるけれど、構わずに叫ぶ。餓者髑髏に変化した大切な妹のまりちゃんは、私の声が届いているのかいないのか一人で勝手に先行していた。
「待って……! ねぇっ、待ってまりちゃん!」
私が半妖姿になったら、もう二度とまりちゃんに声を届けられなくなる。だから変化できなかった。人間の姿のまま町中を走り、時々妖怪に襲われそうになっては命からがら逃げ出して大好きなまりちゃんの後を追う。
「私を見て! まりちゃん!」
伸ばした手は、たくさんの骨を置き去りにしていったまりちゃんの──餓者髑髏の骨の一部を掴んだ。それでもまりちゃんは止まらない。たった一つの願いの為に、みんなを、誰かを守るという尊い気持ちが抱いた願いの為に、誰がいるのかもわからない中心部へと向かっていく。
「まりちゃん──……私にもまりちゃんを守らせてよっ! 私は貴方の〝お姉ちゃん〟だからっ!」
零れた涙を拭う手はない。私はただ、まりちゃんが無茶をしないようにと戦うこともせずに走っている。時に妖怪に襲われても、知らぬ間に妖怪に囲まれても、私はまりちゃんを見捨てられなかった。
妖怪に囲まれて逃げ道をなくした誰かがいる〝かもしれない〟と心配して突き進むまりちゃんと、してあげたいと思うことは一緒だった。
「──!」
見えてきた町役場は混沌と化していた。集った妖怪は、何をするでもなく徘徊している。こんなところに人なんているわけがない。いたとしてももう死んでいる。そこらじゅうに転がった遺体が誰のものだったかなんて知りたくない。異臭がして鼻を塞ぐ。瘴気が濃すぎて口元を覆った。全身餓者髑髏のまりちゃんは、妖怪の中に綺麗に紛れて這っていった。
「まり、ちゃん……」
もしかしたら、助けに来た私の方が危ないのかもしれない。呼吸が段々と難しくなって、早く変化しないとあっという間に殺されてしまう。
まりちゃんが危惧していた誰かもいないし、私はいい加減、私の身を守らないと──
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
──その声は、私の絶望そのものだった。
あまりにも幼すぎる声を持って妖怪と戦っていた私の絶望は、少年と呼ぶに相応しい年頃のように見える。まりちゃんも、当然その子に気づいていた。
「あぅっ!?」
そんな彼と同い年に見える少女もいる。ついさっき、いや、私たちが来るよりも前にここにいたように見える二人はあまりにも場馴れし過ぎているからかギリギリのところで生き残っていた。あまりにも小さすぎる体が、この地獄の底で命を賭して戦っていた。
「うそ、でしょ」
掠れた声は私の声だった。お願いだから誰もいないで──そんな願望を打ち砕き、幼いながらに懸命に戦う二人の姿を目に焼きつける。
助けなきゃ。そう思って一歩を踏み出す。彼の頬に張りついている渇いた涙の跡を、真っ赤になってしまった彼の双眸を、汚れてしまった彼の体を、成人してしまったオトナの私が守ってあげないと。
けれど、私よりもまりちゃんの方が早かった。
「ぁっ」
少年と少女は、自分たちを庇った餓者髑髏の骨が粉々に砕け散っていくのを不可解そうに眺めていた。その顔に絶望なんてものはない。ただ、なんで? と──無邪気な子供が親に尋ねるかのような雰囲気で、原型もなく崩れ落ちていく餓者髑髏を眺めている。
「まりちゃぁあぁぁぁあぁぁあぁぁあん!!」
びくっと肩を上げた少年を無視して駆け寄った。
人間の姿に戻ったまりちゃんは、骨がぐちゃぐちゃに砕けているのかすべての関節があり得ない方向に曲がっていた。当たり前のように流れている血は海のようにまりちゃんの体を容易に沈め、まりちゃんの綺麗な白髪は赤黒く染まり、真朱色の瞳はその血よりも濁った色をして虚空を見つめる。
ひゅっと、喉を空気が通った音がした。振り返ると、少年が怯えた瞳でまりちゃんを見ていた。
「ッ!」
まりちゃんを隠す。でももう遅い。少年はゆるりとまりちゃんから視線を逸らし、まりちゃんを無視して、戦い続ける少女でさえ無視して、たった一人で町役場へと駆けていった。
「まっ……!?」
また手を伸ばす。私は大慌てでまりちゃんを担ぎ、無理矢理道をこじ開けていく少年の後を追いかけた。
「まって……!」
遺体に躓き、コンクリートに全身を打ちつけた少年は倒れても倒れても挫けなかった。土地神が彼に何かを与えているのかと思うくらい、辺りにいる妖怪が少年に手を出してもすぐさま全身を弾き返される。
臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前、臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前──それだけを唱え続けてロビーに入り、上へ上へと駆け上がっていく。
「まってよ!」
あぁ、どうして同じような言葉しか言えないのだろう。どうしてまりちゃんも、この少年も、私の言うことを聞いてくれないのだろう。私はただ、守りたいだけなのに──。
少年が転がり込んだ場所は、地獄を一望できる屋上だった。そこにも当然のように妖怪がいて、少年は魂を削るかのように詠唱し続ける。けれど、さっきので消耗したのかたいした威力を伴わなかった。
「ごめんね、まりちゃん」
私は、生きているのかも死んでいるのかもわからないまりちゃんの体を地面に置いた。今すぐその体を抱き締めて、愛を囁いて、助けてあげたい。けれど、まりちゃんと同じくらい目の前にいる少年を見捨てることなんてできなかった。
彼は、万人に優しいまりちゃんが私の目の前で守った子。そして、守らなきゃって他人が思ってしまうくらいに可哀想な目をした子だ。きっと、この戦いで誰かを亡くしてしまったのだろう。亡くなってしまった誰かの為にも、大怪我を負ったまりちゃんの為にも、私が彼を守り切らないと──
「──飛んでっ!」
叫び、半妖に変化した私は全身を使って地面を這った。今の私は土地神から唯一恐れられている炎の悪魔。すべてを、命を焼き尽くす大罪を背負う最も醜いバケモノだ。
少年を殺そうとする妖怪を焼き殺してしまうのは容易いこと。言っても止まってくれないなら、彼の行く道は私が創る。私は悪魔になってやる。
私の思いを知らない少年は、ひたすら中央を目指し続けていた。私が創った道を有難がる素振りも見せずに突き進み、中心地に立ってどす黒い虚無が広がる空を見上げる。
一体何を──
「四神よ、我に力を貸したまえ! 我は力を欲する陰陽師である!」
──そう思った刹那に奇跡が起きた。この土地にこべりついていた希望の残滓が、彼の元へと集っていく。微かな力。それでも、少年が取り込むと膨大な力となって辺り一帯を支配する。
すごい。陰陽師って、こんなにもすごい人たちのことを指しているんだ。朝日さんと少年を重ねて見てしまい、言葉を失った私は新たな妖怪を燃やしにかかる。
少年の意図は伝わった。貴方のことは私が命を賭して守るから、この町を、この町で生きる人々のことを、どうかどうか助けてほしい。
(まりちゃん、貴方って昔っから不思議な子よね。いつもふわふわしてるのに、いつだって自分の信念を貫いてる。間違ったことなんか一度もしない。まるで神様が宿っているみたい……ううん、神様の代替人のように、貴方はいつだって正しかった。そういう子だから、そうなっちゃったの?)
私の話を一度も聞こうとしなかった彼女は、まるで誰かに操られているようだった。彼を救う為に神様かなんかに操られ、彼を救い、神様からあっさりと見捨てられたように見えた。
本当にそうだとは言い切らないけど、まりちゃんはそういう子だ。まりちゃんのことを知らない人がいたら、私はまずそう説明する。でも、そんなのって酷いじゃない。この子を守る為に戦って、要らなくなったらポイっと捨てて殺しちゃうの? そんなのって、ないじゃない。間違ってるじゃない。
少年の周りを業火で囲った。燃やせ、燃やせ、骨の髄まで。少年とまりちゃん以外のすべては私の一部となって燃え続けろ。
けれど、少年が唱える呪文はあり得ないくらいに長ったらしい。煙が彼に向かないように微調整をする。終わりが見えない戦いだ。それでも私は命を燃やす。
「あの者の魂を繋ぎ止め、この町を救いたまえ!」
私の最後の希望である、彼の為に。
仄かな光が少年の周囲に灯っていく。それを纏い、少年は両手を空に翳して叫んでいる。その光に惹かれた妖怪が這い上がってきているのを風が炎に教えていた。
あの数、全部。全部だなんて、無理だなんて──言ってられない。
業火の中から少年を見つめる。あの日、生まれてもいない弟に頬を蹴られた私と同年齢くらいの少年が戦っているのだ。逃げるなんて真似は絶対にできない。
朝日さんの血を引くまだ見ぬ弟に恥じない自分で在りたいから、今はただ、彼を守ろう。それができる私で在りたい。
「この地を守護する土地神、風之万流命よ、我に力を貸したまえっ! 我の名は、間宮結希! 力を欲する陰陽師である……!」
呻く少年が吸い込んだ息で発したのは、私の思いを裏切るものだった。
『どのような運命を辿れば、其方が我を呼び寄せるのか』
絶望し切った人が発するような、諦めに慣れた誰かの声が聞こえてくる。どちらかと言えば男に聞こえるその者の名は、間違いなくカゼノマルノミコトだった。
『間宮の子よ、其方の魂だけは奪えない。だが、其方の記憶のすべてであれば手を打とう』
少年は返事をしなかった。けれどその目は、とっくのとうに覚悟を決めた人の目だった。
待ってと、そんなことさえ言えないような状況で。待ってと、言わせてくれないようなその瞳で。私のことをまったく眼中に入れていないその子は記憶を奪われる。
消えていく記憶について思うことは何もないのか──そう憤って、急にぼろぼろと涙を流した彼に胸を無理矢理締めつけられた。
思うことがないなんて、そんなことない。だってこの子はまだ子供だから。意味を深く理解しないままに承諾してしまったが故の悲劇だと思うから、裏切られた悲しみと怒りは自分に向く。
私が、私たちオトナが、この子のすべてを奪ったんだ。
少年の犠牲によって発生した光は周囲の妖怪を消滅させる。砂のようにさらさらと、欠片もなく大地に還っていく。
「ねぇ、ぼくの……ぼくの命をあげるから」
刹那に耳を疑った。
『それで、百鬼夜行まで食い止める気か。間宮の……最後の子になるつもりか』
「足りない、の……?」
『否。我が其方の魂を奪えぬのだ』
「うばってよ、だって、このままじゃ……」
「待って!」
瞬時に人の姿に戻り、燃え滓が残った屋上でぽつんと佇む少年を見つめる。
「自分の命を犠牲にしないで!」
人のことなんて言えないけれど、まだ見ぬ弟と同い年にも見える少年の元へと歩み寄る。
「人の命をそうやって売り飛ばした未来に笑顔はないわ! 貴方にだって、大好きな家族がいるでしょう?!」
少年の頭上には実体を持たない神がいた。仄かな光の集合体だ。今なら、まだ。
『ならば其方が捧げるか。その穢れなき魂を』
「私の魂を綺麗だって言ってくれてどうもありがとう。けどね、お断りよ!」
『ならばこの地を救う手立ては失われる。できることなら、我も彼を失いたくない。其方の命であれば充分な供物となる』
「待って! この人は関係な……」
少年の口を手で塞いだ。手汗塗れの焦げ臭い手でごめんなさい。それでも、守るから。
「──私の寿命の四分の一! それで手を打ちなさい、カゼノマルノミコト!」
ゆらりと揺れた頭上の神は、光の粒を少年に捧げる。少年は水を得た魚のように詠唱し、震えた大地の轟音が鼓膜を貫いた。
「ッ!」
守るように、支えるように少年のことを抱き締める。少年は我が身と私の身を見えない糸で強く結び、空へと上がった光の柱の核とした。
終わりなき光がやがて町中に降り注ぐのを中心部で眺めながら、私は地獄が終わる瞬間を見た。
「──生きて」
その声を、この子の願いを、間近で聞いた。
そんな自分の全身から溢れ出した血は、奪われた寿命だったのか。それとも、受けていた傷が今開いたのか。双眸や口からとめどなく流れていくそれが少年にかかっていくのを申し訳なく思いながら、私は意識を手放した。
*
あの時の少年、そしてまだ見ぬ弟に会いたくて教師を目指した。理学部だったけれど教育学部にわざわざ転部し、教育学部だったけれど休学してしまったまりちゃんの友人と一緒に授業を受け、まりちゃんの話をし続けた。
自分の本当の家が何をしているのかは知っている。それでも私は、朝日さんがくれた家族が好きだ。反抗する為に教師の道を選んだと言っても過言ではない。私はまりちゃんみたいに清く正しく生きたかった。
青葉さんに迷惑をかけたなと思うけれど、感覚がぶっ壊れているとか言われたけれど、弟の世代の入学式の日、中庭を陣取って待っていたのは彼らだった。
芦屋なんて珍しい苗字が見つからなかったから、弟はいないんだって諦めていた。けれど私は、あの時の少年を見つけてしまった。
あの子が成長したら絶対にこうなる。そう確信を持って言えるくらい細部まで似ている少年は、私と目が合って視線を伏せる。
関わりたくない、そんな雰囲気。そんな子に構わない理由がない。実際に触れてみたら壊滅的なほどに勉学ができなくて、大泣きしていたあの日を思い出して、抱き締めたくなるのを我慢して根気よく教えていった。その子が間宮結希だった。
罪滅ぼしをして赦されたい、そんなのは甘い。甘すぎる。記憶という命に等しいものを差し出した結希に差し出さなくちゃいけないのは、私の命だ。でも私は、命を差し出すことなんてできない。だって、私には──
『依檻、朝日さんから連絡が来た』
『えっ? うそ、本当に?! いつ?! なんて言ってるの?!』
『気持ちはわかるが落ち着け。息子を一時的に預かってくれと、押しつけられてしまってな……』
『息子……そんなの、オッケーに決まってるじゃない! あの子は私の弟だもの!』
──私には、家族に会いたいという願いがある。できるなら、その子と一緒に暮らしてみたいという願いがある。そんな願いがやっと叶ったんだから、死んでたまるか。
そう思っていたのに、現実はあまりにも残酷だった。いや、考え方によっては違うのかもしれない。
ねぇ、結希。自宅にいる貴方を初めて見た時、点と点が繋がったの。朝日さんの息子は間宮結希。間宮結希は朝日さんの息子。
弟が助けを求めるのなら、助けてあげたい。助ける為にはまだ死ねない。けど、弟の為に死ぬわけにもいかないのだ。私の死は、あの時の少年に捧げなきゃいけないのだ。
そんな二人の少年に板挟みにされていた。そして、私たちが本当の意味で出逢ったあの日、貴方の為なら死ねるという大義名分を得てしまったのだ。
だから、結希。貴方から朝日さんとの記憶を奪った私に、今度こそ貴方を守らせて。
まりちゃんが守り、まりちゃんを救った貴方を。この町を愛し、土地神に愛され、血反吐を吐きながら生きている貴方を愛させて。
*
「紫苑! お前これ勝手に使うなよ!」
「なんだようっせぇな。んなの共有だろ」
「共有?! ワックスが?!」
「男用のワックスなんて何個も要らねぇだろ。ただでさえてめぇの部屋せめぇのに」
「お前がいるから狭いんだろ……! ていうか余計な物も買うなよ使った瞬間に仁壱に金集りやがって! こっちに苦情来るからやめろ!」
「集ってねぇよ小遣いくれって殴り込んだだけじゃねぇか」
「普通に恐喝だろ! よくやったな?!」
「仁壱兄さんは金を持て余してるからな〜。結希兄さんは心もせめぇ」
そういう問題じゃないと小一時間怒る結希を眺める。休日の朝だというのに二人は元気で、他の子たちは「またやってる」というような雰囲気で思い思いに過ごしていた。
「うふふっ。反抗期な弟に怒ってもなんの意味もないわよ〜?」
「依檻さんは黙っててください。紫苑、今から共有と私物を分けるぞ」
「はぁ〜?! めんっっっっどくせぇなてめぇはマジで! 潔癖症かよ! 弟にもっと寛大になれ!」
「何様なんだよお前はもう! まさか……髭剃りまで共有物とか言い出さないよな?! そこは大丈夫だよな?! 大丈夫って言ってくれよ!」
以前もそんな感じだったけれど、最近はもっと兄弟らしくなっている。この二人は見ていて飽きない組み合わせだ。
「価値観の違いでしょう? 男用を使うのが今まで自分だけだった結希と、兄弟だけで暮らしてた紫苑。必然の争いよねぇ」
「そう言われると返す言葉がないんですけど」
結希は渋々と持っていたワックスをポケットに入れ、みんながいるリビングから出ていく。階段を上がっている音。部屋の掃除でもするつもりなのだろうか。
少しだけ気になって後を追いかけた。
「結希〜」
「うわっ、なんですかついて来ないでくださいよ」
避けることはなくなったけれど、いつにも増して辛辣に、深く深く甘えてくる結希を見上げる。
「いいじゃない。私、まだ貴方に話せてないことがあるんだから」
本当に、ここ数日は怒涛の日々だった。結希に知られたくないことを知られたのに、話す機会さえほとんどなかった。
「なんですか?」
部屋の中に入れてもらう。結希が怒るのも理解できるくらい、この部屋は紫苑の私物で埋め尽くされていた。まるで、自分の居場所を確かめるような──もう二度とどこにも行かないと言っているような決意を感じて思わず笑む。
「ごめんなさいって言い忘れたの」
「今さらなんですか」
「そうじゃなくて。あの日、貴方が朝日さんの息子だって気づけていたら、私は寿命の半分を失っても後悔しなかった。むしろ喜んで渡したと思う。……酷いわよね? 貴方は十歳くらいの男の子だったのに」
寿命を半分渡せていたら、土地神は結希に記憶を少しだけ残してくれたかもしれない。なのに私はそうしなかった。命惜しさに口を閉ざした。
「躊躇ってしまったの。あの子たちの、家族の笑顔をもっと見ていたくてそうしなかった。記憶を捨てた貴方に怒ったけれど、救うことはしなかった」
結希は、何を言われたのかよくわからないという表情をしていた。どことなくまりちゃんに庇われた時の結希と似ていて、泣きそうになるのをぐっと堪える。
「……俺、依檻さんと出逢ってしまったから謝って欲しくないんですけど。姉じゃなくても、恩師の寿命を半分も奪ってまですべての記憶を覚えていたって苦しいだけ。俺は依檻さんの人生を奪いたくない」
「……私は、貴方の人生を奪いたくなかった」
命とは何か。たくさんの妹に囲まれているけれど、お腹の中にいる胎児のことはなんにも知らない。そんな私に、その身で教えてくれた唯一の人だったから。
「私たちがもっと強かったら、貴方をすべてから守れたのに。人生を、奪わなくて済んだのに」
悔いても悔いても悔やみ切れない。私はずっと、結希に謝りたかったのだ。
あの扉を開けた先に、貴方がいるなんて知らなかった。見た瞬間の衝撃が、絶望が、希望が、結希に少しでも伝わっていたのなら私は私失格だ。私がなりたい百妖依檻じゃない。これからならなくちゃいけない炎竜神依檻じゃない。
「奪われたなんて、思ってませんから」
見上げると、彼がいる。十七年前は私よりも遥かに小さい命だったのに、いつの間にか追い抜かされてそこにいる。
「そりゃ、紫苑とか仁壱を見てるといいなぁって思いますけど。千羽と涙、紅葉との……戻ってこない時間とか。両親のことも、覚えていたかったですけど」
そう思うのは当たり前だ。この子は、自分の従兄が死んだ実感さえ湧いていない子なんだ。
「ごめん、なさい」
「でも、なんにも知らない目でみなさんを見れる」
「え……?」
「何も知らないって悪いことばかりじゃないですよね。依檻さんの場合は挽回できないくらいやらかしてたんで偏見だらけでしたけど」
「そりゃ、だって、嬉しかったから……」
「死ぬほど嫌でしたけど、いっつも楽しそうだなぁとは思ってましたよ」
私はしいちゃんじゃないから結希の気持ちがわからなかった。けれど、本当に、嬉しくて楽しい日々だった。あの寂しそうな目の奥でそんなことを考えていたなんて知らなかった。
「ありがとう、結希。私の寿命は人よりもちょっと短いし、来年は百妖家じゃないかもしれないけれど」
私の人生を彩った大切な家族へ。生まれてきてくれてありがとう。六年前の地獄を共に生き抜いてくれてありがとう。
まりちゃん、私たちは貴方が帰ってきてくれるのを待っている。誰よりも貴方が待ち続けていた朝日さん息子で、貴方が命懸けで守って、世界を救ってくれたこの子と共に。私たち家族は待っている。
「最期まで、例え結婚して離れ離れになったとしても、一緒に生きてくれるかしら?」
いつかまた会えたら。それだけを糧にして生きていきたい。だからまだ、結希の為に死ぬわけにはいかない。残った寿命を真っ当したいと思った私を、貴方は軽蔑するかしら。
「当たり前じゃないですか。あんたは俺の姉なんだから」
そんなわけなかったわね。だって貴方は、私の大切な弟なんだから。




