二十 『両義兄弟』
帰宅して、姉妹の後で紫苑と共に風呂に入り、疲れ切った体をベッドに投げ出した時間は朝日が昇る数分前だった。
白み始めた空をカーテンで隠し、結希はゆっくりと瞳を閉じる。だが、それを中断させたのは紫苑の単純な暴力だった。
「なんだよぉ……」
力を振り絞って声を出し、結希はうつ伏せから仰向けの状態に体勢を変える。紫苑は、結希を見下ろしながら立っていた。その表情は、重たい瞼のせいでよく見えなかった。
「阿狐頼、まだ捕まんねぇのか?」
何を言うのかと思ったが、全員と合流した時に聞かれたような言葉だった。
「あぁ」
面倒になって手短に答え、床に敷かれた布団に視線を落とす。紫苑は一向に中に入る気配を出さない。
「捕まる気なんてねぇよな」
「だろうな」
多分、紫苑が言いたいのはこんなことではないのだろう。今この瞬間に紫苑が言いたい、本当の言葉がわからずにただただ眠気に必死に耐える。
「あのさ」
「ん?」
「言う気はなかった。言いたくなかったっつーか、言えなかったんだけどさ……」
「なんだよ」
珍しく口籠もった紫苑が気まずそうに視線を逸らした。そのただならぬ雰囲気を感じ取ってようやく目が開く。だが、眠気には抗えない。紫苑はそんなタイミングを見計らって話しかけていた。
「……芦屋、紫苑」
言いづらそうに、苦しささえ感じるような声色で吐き出されたその名前は──結希の耳奥でじんわりと滲んだ。その名前は、いや、その苗字は、結希の心の臓を鷲掴んで離さなかった。
「それが、俺の、今の……ほんとうのなまえ」
今度こそ覚めた双眸で紫苑を見つめる。紫苑は、覚醒してしまった結希を見つめ直して表情を強ばらせたまま俯いた。
「ずっと、〝そういうこと〟だったんだよ」
体を起こす。力が入らなくて前のめりになり、床に片手をついて顔を上げた。
「そういうこと、って」
掠れた声しか出てこない。長い間水を飲んでいなかったせいだろうか。
「俺たちの今の苗字は芦屋。この町に住む芦屋は全滅……いや、千年前の隠居と同時に数を減らし、細々と生きてる芦屋が今は一人だけ存在している」
「芦屋って、それはだって」
「てめぇの本来の一族、その最後の末裔に限りなく近い男が俺らの養父だ」
「……最後、って」
それが誰であるのかに気づいた。自分という芦屋の血が混じった存在を生み出した人以外考えられなかった。
「美歩はあの人の姪だ。つまりはてめぇのマジの従妹。ババァは同い年だけど誕生日的にはてめぇの方が先に生まれてる」
早口で捲し立て、紫苑は事実だけを淡々と告げ、口を閉ざして両手をスウェットのポケットに突っ込む。
「なんでそれを、もっと早くに……《カラス隊》に言わなかったんだよ」
「ばっ、言えるわけねぇだろ!」
「なんで、俺を気遣ったのか?」
「ッ!」
思考が上手く回らなかった。表情らしい表情もなく、結希は紫苑を問い詰め続ける。その顔は想像していなかったのか、調子を崩されたような紫苑は唇をきつく噛み締めた。
「…………気遣ったよ、いちおう」
「…………そんなこと、しなくて良かったのに」
「でもっ、てめぇはただでさえ〝裏切り者〟呼ばわりされてんだぞ? それに加えて父親までって、んなのキツすぎんだろ」
「なんでそういうとこだけちゃんと考えてんだよ、〝裏切り者〟って……別に、関係ないだろ、芦屋が裏切り者だってみんな知ってたんだから」
「おいてめぇ、まさか知らねぇのか? 芦屋の〝裏切り者〟の本当の意味」
「……は?」
結希が芦屋は裏切り者だと聞かされたのは、数ヶ月前。陰陽師の会合で一度だけだ。実母も認めた芦屋の裏切りの意味を、結希は──思えば一度も聞いていない。
「少なくとも、アレを知らねぇわけじゃねぇだろ? 『千年前、陽陰町に鬼がいた。間宮は鬼を愛し、裏切り者と呼ばれた。芦屋は鬼の声を聞き、隠居した。結城は鬼の首を切り、陰陽師の王となった』ってヤツを」
「さすがにそれは知ってるけど」
つい最近までは知らなかった。知らないことが多すぎた。
紅椿に殴られた頭が痛い。
「芦屋家は、〝妖怪の声を聞く力〟が大昔から備わっていた唯一の一族だ。隠居した理由もそれがでけぇ。聞きたくないから最前線から離れていった。それ自体を咎められたってわけじゃねぇ、妖怪を倒すのを止めろって陰陽師の中で最初に言ったのがあの人なんだ」
「ッ?!」
下がっていた顔を上げた。間宮と芦屋、両方の血を引く結希は紅椿に心臓を喰らわれ、八つ裂きにされる運命をたった一人で背負っている。
そんな芦屋の一族である実父が、陰陽師に楯突いた──?
「芦屋を裏切り者にしたのはあの人だ。あの人は裏切り者って呼ばれた。けどそれは表面ってだけで、根本を裏切ったわけじゃねぇ。誰も本気であの人のことを裏切り者って呼んでねぇのは見てたらわかるからな。でも、俺たちのボスがあの人だって知られたら、てめぇは……陰陽師を根本から裏切った両家の末裔として、殺されるかもしれねぇんだぞ?」
「まさか、なんでそっちに話が持ってかれんだよ。さすがに殺しは……ないだろ?」
へらりと笑い、確かめるように問いかける。だが、へらりと無理をして笑った時点で答えは出たも同然だった。
「外の世界を見たならわかるだろ。この町は、未だに古臭い因習に縛りつけられてる。一般人じゃねぇ、この町の外に出るなんて赦されるはずもねぇ陰陽師が……てめぇを生かすって本気で思ってんのか?」
「…………」
熾夏は、古臭い儀式によって救われた。明日菜は古臭い儀式の犠牲になる為に生まれてきた。この町は未だにそういう町なのだ。痛いくらいに思い知っている。
「俺は嫌だ。そんな理由でてめぇが殺されるなんてバカバカしいって思ってるし、てめぇは、俺の……兄貴だから」
思わず唾を飲み込んだ。カーテンの隙間から差し込んだ朝日が眩しくって目を細める。
「なぁ、〝兄さん〟って呼んでいいか?」
はっきりとした口調でそう言われた。とてつもなく長い間、このことについて話す瞬間を心の中で思い描いていたかのような口調だった。
「……急だな」
あまりにも突飛な発言のせいで、上手い言葉が返せない。紫苑の気持ちもよくわからない。
「急じゃねぇんだよ。俺たちからしたら、てめぇは最初から……六年前から、〝なんとなく兄貴〟だったんだよ」
〝そういうこと〟だった。
紫苑が結希にぶつけていた感情の、微妙な違和感の正体は。マギクが結希にぶつけていた、感情の生々しさの正体は──とてつもなく身近なところにあったのだ。
「マギク、は……」
「拾ってくれた人の実の息子なら、誰だって気になるだろーが」
「…………」
「俺たちの家にはてめぇがいた形跡なんてどこにもねぇし、てめぇのことを話すなんてヘマもされねぇ。普段はぽやぽやしてるくせに、俺たちに実子の存在を悟らせないように、あの人はずっと気を遣ってた」
足に力が入らない。立ち上がれないのは、実父の人間性について話をされていることに気づいたからだった。
生まれた時からいなかったわけではない。大切に育ててもらった子供時代を忘れてしまった結希が知らない、繋ぐものは流れ続けている血だけという希薄な関係を持つ実父の話を──。
「けど、俺たちは全員この町を救った奴の名前を知っている。まだ芦屋の名前を引きずっていたてめぇのことは俺たちの耳にも届いてた。だから、てめぇが傍にいなくても、俺たちの中には……なんとなく、てめぇがずっと居座ってた」
ゆっくりと体を元に戻し、ゆっくりと紫苑の言葉を飲み込んでいく。何一つ取り零さないように、すべてを理解する為に、飲み込み続ける。
「一番上のババァも、本当の一番上は自分じゃねぇって知ってたからてめぇに執着してたんだと思う」
「俺はもう、芦屋じゃねぇよ」
「てめぇの親権がある日突然母親から父親に変わったら? 俺たちはどうすればいいんだよ」
「今の俺の親権は、仁さんが持ってるよ」
百妖結希。その名前に大いなる誇りを持っている。だからそれはあり得ない。朝日がそうしたわけではないが、結希はもう朝日の手から離れている。
紫苑は言葉を失っていた。ずっと母親か父親かと考えていた紫苑は、母親から手放された結希の現状にまったく気づけていなかった。
「……あぁ、うん。そうだな。そうだ。俺たちは多分、てめぇがただの息子だったらここまで執着しなかったと思う」
結希の実父が──紫苑の養父がそれを隠そうとしなくても、いない人間のことを気にしたって仕方がない。いつかは割り切らなければならないから、紫苑は多分そう言えた。
「けれど、てめぇが百鬼夜行を止めたから……てめぇを超えられるような子供にならなきゃ愛されないって思ってる奴が大半だった」
「お前は?」
「俺は…………あの人に愛されても、仕方ねぇから」
「…………」
愛されたくて仕方がなくて、結希の実父──雅臣からの視線を集めようとする子供たち。その中に紛れ込んだ幼い紫苑は彼からの愛を一切求めず、ただ隅で丸まっていた。
結希の沈黙をどう捉えたのか、紫苑は一瞬だけ出そうとした言葉を思わず飲み込む。その躊躇いがなんだったのかは、紫苑自身も答えられないことだろう。
「や、あの、わりぃ」
それは、どういう意味の謝罪だったのか。
「そうだよな。てめぇは愛された記憶を失ってるし、母親からも引き離された可哀想な奴だったんだな」
「それ以上言うなよ」
聞きたくない。思わず耳を塞いでしまいたくなる。紫苑は気遣うことを覚えているが、どうしても一言二言余計な言葉を添えてしまう。
それでも苦笑して紫苑を止めた。自分自身でもわかっていることを他人にも知られてしまうと、息苦しくなった。
「いやいや聞けよ。俺たちの、六年分の思いを。ずっとてめぇに言いたくって、知ってほしくて、認めてほしかった俺たちの気持ちとか。てめぇを消し去って〝ホンモノ〟の家族になろうとした、あいつらのガキみてぇな気持ちとかさ」
六年分の記憶しかない結希は、紫苑たち芦屋義兄弟の六年分の想いを、そして──
「〝十九人分〟は、さすがに受け止めきれないんだけど?」
──百妖義姉妹の膨大な想いを、どうしても受け止めきれなかった。
紫苑が小さく喉を鳴らす。そして、唇の端を引く。
「……てめぇって、やっぱ可哀想な奴なんだな」
その意味をきちんと汲み取ってしまったらしく、憐れむような視線で結希のことを見下ろしていた。その視線がとっても痛かった。
実母の朝日に育てられ、彼女のことを養母と慕う十三人の大切な家族と。
実父の雅臣に育てられ、彼のことを養父と慕う六人の敵とも言える彼ら。
生まれた時から弟扱いをされる未来が確定していた百妖義姉妹たちとは違う。六年前、雅臣が孤児となった彼らを拾い集めた結果にできた芦屋義兄弟からの歪んだ想いは──あまりにも重すぎる。
『その頃から、弟クンは私たちにとって〝なんとなく弟クン〟だった』
そう言ってくれた熾夏が懐かしい。
『でも、弟クンは可哀想な人なんだよね』
百妖家側からも、芦屋家側からも可哀想と言われた自分の人生を見つめ直す。
母親を奪ってしまったのに、受け入れてくれた彼女たち義姉妹。
父親を奪われたに近いことをされたのに、いなくなってくれと望み続けてくる彼ら義兄弟。
重いと言えばどちらも重い。寄せてくれた想いはどんな形でも投げ出してしまいたくなるし、両方から愛され続けた記憶のない結希からしたら両義兄弟の方が羨ましくて羨ましくて仕方がない。
自分が知らない両親を知っている両義兄弟たちの方が羨ましいのに、実子というだけで奪われたと言い出した百妖義姉妹の一部の姉妹や、実子というだけで殺してやると言い出す芦屋義兄弟は目を塞いでしまいたくなるような存在だ。受け止めきれない。
それでも、百妖義姉妹は家族で芦屋義兄弟の中にいる美歩は確実に家族だった。
自分と涙という従兄弟を持つ千羽と紅葉の兄妹たちが羨ましかったように、自分にも美歩という家族がいた。
初めて会った時、美歩に〝何か〟を感じていたことを思い出す。その〝何か〟が血縁であるとは──血の中に滲んだその家特有の陰陽師の力だとは何故か一度も思わなかった。
「何か言えよ」
また紫苑に殴られた。
「痛い」
「そうじゃなくて。バカかてめぇ」
「そのバカが兄さんでいいのかよ」
「いいも何も……てめぇはあの人の実子だろ?」
「お前ってよくわかんねぇよな」
「どこがだよ」
「あいつらことは家族じゃないつってんのに、父さんの子供の俺は家族だって思うんだな」
「うっ……?!」
それに気づけなかったのか、紫苑はびくりと肩を震わせた。
「お前、多分あいつらのことも心の中じゃ家族だって思ってるだろ」
「思ってねぇよ」
「思ってるんだよ。俺が兄だって思えたなら」
「お、俺は……」
紫苑は黙った。その沈黙は、多分肯定だったのだろう。
「……俺は、あの日からずっとてめぇのことすげーって思ってる。春じゃなくて、琴良兄さんでもなくて、てめぇが兄さんだったらって何度も思ってた。別にあいつらがすごくねぇってわけじゃねぇけど、てめぇが俺の中で特別だったのは確かだと思う」
「…………ま、マジか」
考えて考え抜いて出てきた言葉は、誰でも言えるような言葉だった。紫苑にそう思われていたなんて知らなかった。気づけるはずもないくらい、紫苑は結希に当たり散らしていた。
紫苑は僅かに顎を引き、自分にとって結希という人間がどういう人間なのかを伝えていた。




