十九 『密かに恵む』
依檻にどんな言葉をかければいいのだろう。彼女が心優しい性格であることは充分に知っていることで、自分がしたことに対する罪の意識を持ち続けている人であることも知っている。
「ゆうくん! 亜紅里ちゃん!」
依檻から目が離せなかった二人の背中に抱きついて、視線を荒野に向けたアリアは依檻以上に不快感を顕にさせた。
「これは……」
責め立てるような口調ではない。ただただ破壊され尽くした自然の末路に嫌悪感を抱いている。
「ごめんなさい、やり過ぎたわ」
謝った依檻は炎を撒き散らし、いつもの人間の姿に戻った。向けている背中はちっぽけなもので、理系を学んだ化学教師としても心を痛めているように見える。
凪いだ風に揺れた長髪は、もう黄昏時の色をしていない。暖炉に似た暖かさは消え去って、くすんだ蜜柑のような色をしている。
「……謝らなくていいですよ。だって、その為に私が存在するんだもん」
だが、アリアが耳元で鈴の音のような笑みを零した。思わず視線をアリアに落とすと、彼女は黄金色の光を両手に灯して大地を照らす。その光は粒となって荒れ果てた土の肌に降り注ぎ、土地神の核に命を与えて世界を芽吹かせた。
「むしろここを一人で守ったっていうのが凄いんですよねぇ。さっすが〝かがりん〟の従妹の人だ。すっごくかっこいい。〝かがりん〟がそこにいるみたい」
「〝かがりん〟、ねぇ……。私の家族は百妖家のみんなだから、あの人は最初から最後までずっとただのセンパイだったけれど……もっと近くに行ってみたかったわ。そしてもっと話したかった。貴方みたいな子まで魅了するなんてさすが炎竜神家の人だなぁと思うけれど、私はあの人にはなれないわよ?」
「ならなくていいよ。誰も誰かの代わりになんかなれないんだし。私がアイラの親代わりになれなかったようにね」
「え? 貴方、アイラちゃんの親代わりになろうとしたの? 朝霧さんがそうだったらしいけど、さすがにそれは…………ううん、無理じゃないわね。シロ姉が私たちの親代わりなんだから、そこを否定することなんてできないわね」
雑草はやがて草原に、草原はやがて森林に。急速に成長していく木々の傍らで紡がれる会話は終わってしまった命の話だ。新しい生命の誕生の最中に語るような話ではない。
視線を落とし、結希は死んでしまった生命の再生がなされない歪な森の復活を見守った。微生物と同様に、炎竜神炬が生き返ることも朝霧愁晴が生き返ることもなかった。それが人類最大の禁忌であることを知っているのに、ママという名を与えられた妖怪が視界に入る度に頭蓋骨の奥の奥が啄かれるような感覚が走った。
『〝オヤガワリ〟ナンテ、ソウカンタンニデキルヨウナモノジャナイヨ』
そんなママの言葉には不思議な力が込められている。ほんの僅かに口角を上げた亜紅里の微笑は多分彼女の本心によるもので、彼女の心からの笑みがこの瞬間に見れた理由はママの子育てに対する正しさが証明されたからだった。
「私、同い年なので何もわかりませんけど、みんなが千里ちゃんの親代わりであろうとした理由って……」
「……スゥが安らかに眠れるように、って。それだけだよ」
スザクとオウリュウの想いが溢れている。千里をあそこまで育て上げたのは残されてしまった彼女の実父だが、心は親であろうとした四人の式神の想いは人間のそれと同等のものだ。
妖怪のママも、人ではない式神も、人間であるアリアも、その根本は一緒なのだ。そんなことを、知っているようで知らなかった。
「はいっ、これでちゃんと元通り! みんなは今夜起こったことを知ることもなく明日を迎えることができるんだね!」
「くひひっ、姉さんもう今日ですよぉ〜? 阿狐頼の幻術も解かれてんだし、あと四時間くらいでお天道様のご登場だぁ!」
阿狐頼が近くにいないからか、亜紅里はいつもの亜紅里として笑い出す。
「亜紅里ちゃんは揚げ足を取るのが大好きだねぇ〜? まぁいいや! あっちに戻ろう?」
「言われなくてもわかってますってば! 行こ、ママ! ポチ子もどうせ中にいるんでしょお〜?」
背筋を伸ばして堂々と歩く彼女とママの後ろ姿を眺めながら、結希は式神を家に帰す。だが、スザクは去ってもオウリュウだけは去らなかった。
「……ユー、一つだけ」
片目をいつまでも結希に留め、彼は小さな口で息を吸い込む。
「……覚醒は、禁忌だよ」
その意味がわからない結希ではなかった。耳を疑い、「なんで」と尋ねて冷静であろうとする。
禁忌だと思っていることは幾つかあるが、禁忌だと思わずにやっていることもあるなんて一度たりとも考えなかった。
「……とっても、強すぎるから。身を滅ぼしちゃうかも、しれないから」
「かも? 滅ぼしたわけじゃないってことか?」
「……うん。でも、あれはとっても危険だってソウリュウが言ってた。嫌な気配がする、って」
「そんな気配全然……」
だが、〝ソウリュウ〟が誰かを結希は聞かなくても知っている。間宮宗隆という名の古い陰陽師であり、オウリュウの前の主でもあった彼は間宮家を裏切り者の一族に転落させた我が家の長年の仇である。そして、千年にも及ぶ呪いの元凶を作ったとも考えられる間宮家の癌──。
そんな彼が言う言葉を信じろと、他でもない間宮家の最後の子孫である結希に言っているのだろうか。宗隆と結希だけにしか仕えたことのないオウリュウの言うことを、千年を生きたオウリュウの言うことを、結希は簡単に無視できなかった。
「……わかった、信じる。間宮宗隆は覚醒について他に何か言ってたのか?」
「……言ってない。まだ何もわかってないから。けど、陰陽師の力に当てられた妖怪が死んでいくのは確か」
「死ぬのか? 妖怪が? 九字を切ったわけでもない、陰陽師の力にあてられて死ぬならこんな苦労はしないだろ」
「……でも、紅椿は死んじゃった」
刹那、雷に打たれたかのような衝撃が結希の肉体を駆け巡った。酷い頭痛には覚えがある。これは、いつもの呪いだ。誰かの記憶が流れ込んでくる。
脳裏に美しい桜の花弁が舞っていた。〝何か〟は、いや、〝紅椿〟と名づけられた平安の鬼女は、未だに結希のことをじぃっと見つめて心臓を握り潰す機会を伺っていた。
自分を愛してくれた間宮宗隆の心臓を喰らい尽くしたい。自分の声が聞こえていた芦屋清行を探し出して八つ裂きにしたい。自分の首を取って始末した結城星明を末代まで呪ってやる。そんな憎悪が全身を貫き、鬼の真意に気づいた途端に息が詰まって指先一つ動かせなくなった。
「結希? ちょっと、どうしたの?」
駆けつけてきた依檻のおかげで我に返る。そして思う。どうして千年前の話をもっと早くに聞かなかったのだろうと。
いや、聞いたところでこの呪いはもう解けない。流れる血の細部にまで、魂にまで、こべりついていると知ってしまった。
「……その死に方は正しくない。だからもっと、呪われちゃう」
「そうだな」
その呪いの恐ろしさを知ってしまった。だから結希は、そう言って頷くことしかできなかった。
「……話が終わったなら、帰りましょう」
気づけばアリアも帰っていた。オウリュウもスザクと同じように姿を消し、結希は依檻と共に小倉家へと続く道を歩く。
「あーあ。なんだかお腹が減っちゃったわねぇ。帰ったらラーメン食べましょ」
「あー、いいですね」
「あら珍しい。結希が私の意見に同意するなんて」
「同意できたからしただけですよ」
「可愛くないわねぇ」
「可愛くなりたいわけじゃないんで」
「相変わらず棘だらけ」
「引っこ抜いたらいいんじゃないですか?」
くだらない話だと思った。だが、そんな会話ができる関係になった。そんな依檻と、小倉家に集っていた他の家族と、共に暮らす家に帰る。
《カラス隊》は外に出てきていた雷雲と小難しい話を繰り広げていた。結希に気づいた雷雲は会釈し、「お礼はまた後日に」と他人行儀なことを言う。
「当たり前のことをしただけですよ」
結希はそう返し、苦笑する雷雲と彼を囲む《カラス隊》に向かって手を振った。他の姉妹たちも、そうしていた。




