十五 『依り代と檻』
何度目かの深呼吸をする。この家を取り囲んでいるすべての妖怪を倒す為には、自分一人の力だけじゃ到底足りない。
全速力でこちらに向かっている麻露や歌七星の援軍を待ち、二人が引き連れている姉妹たちが奴らを蹴散らした瞬間を狙って外に出ようか──。瞬間、結希のスマホが存在を主張するように懸命に震えた。
「もしもし? 紫苑?」
念の為にと無理矢理交換させていた連絡先。だと言うのに嫌がっていた方からかけられるなんて──そう思って感動したが、ここを襲撃しているのはマギクであって春であって美歩である。連絡をせざるを得なかったのだろう。
『てめぇ、どこにいる?』
意外と落ち着いた声色だった。冷静に結希の状況を確認する紫苑の周囲は、他の姉妹たちの混乱した声で溢れ返っている。
「小倉家の中だ。妖怪に囲まれていて……」
『そこから出るな!』
瞬間、冷静さをかなぐり捨てた紫苑の叫び声が耳を貫いた。思わずスマホを遠ざけ、訝しげに画面を見つめて紫苑であることを確認する。
「紫苑? どうした」
外に出る気は最初からなかったが、紫苑は縋るようにその場に留まることを命令していた。人が変わったように、狂ってしまったかのように──いや、さっきまで正常だったおもちゃが途端に壊れてしまったかのように、紫苑は同じことしか言わなかった。
『出るな……頼むから……』
泣きそうだ。まるで、結希がこれから死ぬかのような嘆きっぷりだ。何故? いや、尋ねるまでもない。それは愚問だ。紫苑のことを少しでも知っている人間ならばそれは聞かない。その言葉に縛りつけられている結希は──
『……俺がいると、誰かが妖怪に殺される』
──あの日の紫苑を。流れるはずなのに流れなかった涙に甚振られた紫苑のことを、知っていたから黙っていた。
「俺はしばらくここから出れない。外からなんとかしてくれるか?」
『……わかった。しばらくそこですることもなくぼけっと待ってろ』
乱暴な物言いは相変わらずだったが、その中にある彼の優しさに包み込まれる。その優しさはどこから来るのかと疑問に思うほどに、紫苑の境遇は幸福に満ち溢れたものではない。なのにこうも温かく在れるのは、きっと紫苑本来の温かさであり亡くなった両親からの愛なのだろう。
両親からの正しい愛を知らない結希は、それが喉から手が出るほどに羨ましかった。紫苑との違いを嘔吐くほどにこの身に叩きつけられ、逃げ出したくて堪らなくなって逃げ場がないことを思い知る。
這うように歩いた。いつでも外に出られるように玄関で待ち、ドアスコープから外を覗く。状況はどうなっているのか。どれほどの妖怪が張りついているのか。確認したいことは山ほどあるのに、辺り一面闇に覆われていて何も見えない。
真っ暗な海原にその身一つで放り出され、航路も何も知らないまま生きなければならない絶望感に一瞬だけ苛まれた。それでも進むしか生き抜く道はないのだから、死ぬなんてことは──家族が、紫苑が絶対に許さないことなのだから前を向く。
唾を飲み込んだ。こうして何もしない時間があると、どうしても余計なことを考えてしまう。雪片が地上に落ち、積み重なって地上を覆い隠すようなことを。その重さに耐えきれなくなって大地が壊れてしまうようなことを、ずっと。
本当は、耐えることなんて辛くて辛くて嫌になるからできれば避けたいと思っていた。耐えられないことが何度かあると、すぐに逃げ出してしまう。
六年前の陰陽師の会合のように。風丸と明日菜から差し伸ばしてもらった小さな掌を払ったように。
紫苑と話すことでずっと頭の片隅に追いやっていた真実の重みが内部から崩壊する。
百妖家に来てから強くなれたような気がしていたのに、熾夏の前で強くなれたのはそこに熾夏がいたからという理由だけだった。一人になった時のメンタルはあの頃よりも弱くなったような気がして、扉に手をつけたまま額をぶつけた。
「……ッ!」
何かをせずにはいられない。少しでも自分で自分の心を救う為に結希は踵を返して走り出す。靴は玄関に放り投げた。小倉家ならば絶対にどこかにあるはずだと信じていた。
観葉植物は……ない。盆栽は外。石なんてものは小倉家であっても家の中には持ち込まない。動物なんて飼っているはずもない。人間は論外。真下にいるはずの雷雲が自分の足音を聞いて何を思うのかはわからないが、わかってくれると信じて居間に入った。
「あった……」
手を伸ばし、掴んだものは奉書紙だった。和紙の一種であるそれは座敷机の上に山積みにされており──文鎮で片隅を留められている。
結希はそれをペン立ての中に立てられていた鋏で切った。なるべく人形に見えるように。どれだけ不器用だと笑われてもいいから、苦手だと言って投げ出すような真似だけはしたくなかった。
今だけこれに集中していれば、余計なことを考えないで済む。後で雷雲に頭を下げて謝ることくらい痛くも痒くもないから。怒られてもいいから、今だけ唯一逃げ出したい現実がある。
一人では立ち向かえない依檻への罪悪感が渦巻いて自分が堕ちてくる瞬間を待っていた。
「──ッ!」
鳥肌が立つ。厳重に閉じられた縁側の雨戸の奥で、強大な妖力が使用された気配がした。
これは愛果の幻術だ。心春がかけていた言霊が代わりに剥がれ落ちていく。
結希は切り終わった人形の紙──依り代の一種である形代を掻き集め、玄関へと走った。幻術がかけられたということは、思う存分に暴れ出す姉妹が駆けつけてくれたということだった。
それは戦争の幕開けを意味している。修復能力を持つアリアの力に完全に頼り切った彼女たちの力が鬨の声を上げる。
『コロス、コロス』
『ウラギリモノ、コロス』
『ホロベ、ホロベ、スベテノチ、ココデシネ』
『シネ、シネ、シネ、シネ』
『アイツ、ヨワソウ、チカラ、ツカエナイ』
『ナニモナイ、ヨワイ、コロセバ、シネ、コロス』
『エモノ、タクサン、フクシュウ、タクサン』
『結希ーーーー!』
遠くの方から聞こえてきた唯一の肉声は、紫苑のものだった。脳内に直接届く妖怪の声を押しのけて、伝えようと叫んで、恐らくマギクらにも自分の位置情報をなんの考えもなく漏らしている。
『全員来てるからなーーーー! てめぇが出てきたら、絶対こいつらがなんとかするって言ってるからなーーーー!』
『アイツカラコロソウ』
『イチバンヨワソウ』
『アイツ、ウラギリモノ、チガウ。キット、イチバン、ヨワイ』
『妖怪の声で聞こえなかったって言ったらーーーー! ぶっ殺ーーーーす! だからさっさと出てこーーーーい!』
『イコウ、イコウ、ゼンインデ』
『ノミコメ、ノミコメ』
『ホネノズイマデ』
靴を履く暇なんてない。だが、履かないと絶対に足を引っ張る。靴下のまま走り回れるほど神社の地面は優しくないから──。
結希は数秒間もたついた後、玄関の扉を勢い良く押し開けた。
「他人の心配よりも自分の心配をしろよバカ!」
一気にそう捲し立て、紫苑に向かって飛び掛ろうとするすべての妖怪の背面を視認する。
「無策のまま突っ込むとは──愚かですね」
放たれた無数の水の矢。速度が速すぎるそれは充分な殺傷能力を秘めて飛び掛る妖怪を貫いていく。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
それを見逃す結希ではなかった。
自分の方へと飛ばされてくる恨みを孕んだ肉塊に術をかけ、膿を撒き散らしながらぼたぼたと降ってくるそれらを被りながらも平然と立つ。
視線を上げると、鈴歌が従える白い一反木綿に誰かが乗っていた。目を凝らすと、歌七星と紫苑──そして、朱亜と椿と月夜と幸茶羽と亜紅里が乗っていた。
唯一半妖に変化していない──いや、結希の擬人式神で変化ができない亜紅里は巨大なママとそれでもまだ小さいポチ子を従えている。
「てめぇ……!」
紫苑はついさっきまで結希のことを心配していたはずなのに、何故か怒りに身を震わせていた。
「何普通に出てきて俺のこと助けてんだよ! ぶっ殺すぞ!」
「お前がぼけっとしてるからだろ」
普通の声色で文句を言うが、紫苑はついこの間教えた読唇術をもうそこまでマスターしたのか──それとも表情で読んだのか、「うるせぇバーカ! ぼけっとしてねぇわカス!」と的確に激怒した。
「…………ユウキ」
鈴歌は一反木綿を操り、白い布を伸ばして結希のことを拾い上げようとする。だが、結希と鈴歌の間を鋭い九字が横切った。
「──ッ!」
視線が思わずそちらを向く。それをする者は結希が知る限り一人しかいない。
「…………」
紫苑の空気が一瞬で変化する。結希の空気は変化しないが、心に汚染された漣が広がる。
「……マギク」
そこに立っていたマギクは、痛々しい火傷の跡を全身に刻み込まれた憐れな少女だった。いや、憐れむのは周囲の人間だけでマギク自身は自分のことを憐れんでいない。憎悪を翡翠色の瞳に宿し、結希を恨むだけの肉塊と化しているその少女を──結希は正面から見つめることができなかった。
「ユウ!」
「お兄ちゃん!」
そんなマギクの背後から駆けつけてくる和夏と彼女に運ばれている心春は、春と美歩に追われていた。
「和夏さん後ろ!」
いや、和夏ならちゃんと気づいている。殺意に気づけない猫じゃない、肩に乗せている妹を危険に晒すような姉じゃない。
「私を見ろ!」
意識は霞んでいたマギクに戻された。焼けて短くなった髪。全身の色が変わった肌。そんな変わり果てた義姉の姿を紫苑はどんな目で見ているのだろう。
「いっつも……いっつもそう! お前は私を見てくれない! お前を見ているのは私だけ! 私だけがお前を見ている! 私だけがお前のことを……こんなにも……なんでっ、なんでお前はぁっ! なんでお前なんだ! 死ねぇぇぇぇえぇぇぇぇえ!」
マギクの言葉は意味不明だ。数歩下がり、他の姉妹が駆逐している妖怪の肉片がついさっきまで自分がいた場所に落ちる様を眺める。
前へ進むのではなく、下がってしまった。だから結希は今でもマギクのことが理解できないのかもしれない。
「マギク」
「その声で私の名前を呼ぶな!」
何がマギクのことをそれほどまでに突き動かすのだろう。瞬間に目の前に飛び下りてきた紫苑は、結希を庇うように結希の体をマギクから隠した。
「紫苑、退きなさい」
「退かねぇよ」
「また私たちの元から去るの?」
「死ね」
瞬間、マギクと紫苑の呪術がぶつかり合った。




