十六 『金の狸、銀の狐』
愛果は、結希の落ち着き払った声を聞いて確信した。
二十匹いる豆狸は、野狐を取り囲むように円を描いて走る。野狐は次第に足を止め、鋭い視線を自分よりも数倍小さな豆狸に向ける。しかし、本物の愛果だけは円の外にいるスザクに向かって走っていた。
聴力が優れているスザクは、愛果が駆け寄ってきても冷静だった。
突如煙を上げた愛果はスザクの空いている手に飛びつき、煙でその身を深く隠す。握り締めたそれの感触に驚き、愛果の意図を理解し、スザクは背筋を伸ばす。
「今だ!」
愛果の合図と共に、野狐の周囲を一列に走っていた豆狸が消滅した。
結希は右手の人差し指で空間を真一文字に切り、簡易な結界を張って二匹の野狐の標的をスザクへと変える。左手から上がる煙は収まっており、スザクはいつになく真剣な表情で──日本刀を〝二振り〟構えた。
「ハッ!」
二刀流となったスザクが野狐に立ち向かう。野狐は好戦的な態度を示しており、疾走するスザクと二匹の肉体が交差する。
鮮血が迸り、紅い花弁となって宙を舞った。
先に倒れたのは、野狐の方だった。
右側の前足を深く切りつけられ、人間よりも濃い色の血がとめどなく流れる。スザクの姿を探すと、スザクは上手く刃を躱したもう一匹の野狐の後を追っていた。
「……任せたぞ、スザク」
呟いて、立ち上がれない野狐の前に立つ。結希の雰囲気が変わったことに気づいた野狐は、残りの力を振り絞って四足で立ち上がった。
「──無理するな」
幼馴染みの明日菜も、親友の風丸も、式神のスザクでさえも聞いたことのない声色だった。同情を含ませつつも厳しいそれは、野狐にとってなんの効果もない。
戦う意志を曲げない野狐は唸り、くすんだ毛を逆立てた。そんな野狐を見て思う。
妖怪にも自我がある、と。
だからこそ半分妖怪という中途半端な存在が生まれる。結希は、右手を強く握り締めた。
その隙に、スザクと交戦していた野狐が後ろ足を上手く使って負傷した野狐と合流する。視界に入った二匹は、使い古されたボロ雑巾のようだった。
「結希様ッ!」
わかっている。
結希はそんな意味を込めて、握り締めた拳を前に突き出し──人差し指と中指を立てた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前」
せせらぎのような声で九字を切ると、野狐が苦しそうに体を捻じ曲げる。そして、二匹は時間をかけて消滅した。
「結希様ぁ!」
振り返ると、日本刀を消したスザクが涙目になりながら駆け寄ってくるところだった。その奥の方では、月明かりに照らされた愛果が血塗れのまま立ち尽くしていた。
「愛果さん?!」
抱きつくスザクを好きなようにさせ、愛果の下へと走る。愛果は結希を一瞥し、短くため息をついた。
「言っとくけど、怪我はしてないから」
「じゃあその血は……!」
「野狐の血。ウチの血じゃない」
結希の台詞を遮って、愛果は早口にそう告げた。スザクの刀が二振りになっていたのは、愛果が刀に変化していたからだった。
「愛果様が仰っていることは真でございます」
結希から離れたスザクが申し訳なさそうに袖を握り締める。結希は愛果とスザクを見比べて、事態を察した。
「愛果さん」
「何……って、ちょ?!」
愛果の腰に手を回し、愛果を自分の方へと引き寄せる。急速に顔を赤らめさせる愛果を無視して、それよりも濃い血を狩衣の袖で拭う。
「な、何してるのよアンタ!」
じんわりと、純白の狩衣に血が滲んだ。結希は無言で髪を、頬を、手を、拭い続ける。
「ちょっ、ちょっと! せっかくの綺麗な服が汚れるでしょーが!」
「服なんてどうでもいいですよ」
愛果の小さな肩が震えた。
「なんであんな危険なことをしたんですか」
碧眼が大きく見開かれた。
「なんでって、あれが最善だったからに決まってるでしょ」
「あれが愛果さんのとっておきだったんですか?」
自分でも声が震えているのがわかった。
結希は初めて愛果を恐ろしいと思った。平気な顔と言えば少し大げさだが、それでもその身で妖怪を切る精神力は恐ろしい。
「そうよ」
まっすぐな心で愛果は答えた。
姉妹の中で最も弱い自分が、大切な人と対等に戦える力。それを最大限に活かして武器に変化する。それ以外の方法は、何年探しても見つからなかった。
「俺は、あれが最善だったなんて思えません。そう思いたくありません」
「なら他に何があったの?」
結希は拭う手を止めた。
「今はまだわかりません」
そう答えることが今の精一杯だった。
「どうして怒るの」
今度は愛果の声も微かに震えた。
結希は漆黒の瞳に愛果を映して、胸の中にある怒りに触れる。
「どうしてアンタはいちいちウチを叱るの。ウチは一番強くて、一番恐れられてるのに。放っておけばいいのに」
その答えは小さい頃──いや、結希の中の最古の記憶、六年前にあった。
「母さんが言ってたんです。『道を進む人がいて、その道が間違っていると思ったのなら、死んでもその人を止めなさい。その人のことが大切なら尚更よ』って」
「ウチは、道を間違ってた?」
「そこまでは俺も言いません。ただ、愛果さんには妖怪を自分自身で切って、それが当たり前だと思わないでほしかっただけです」
妖怪を殺すことが逃れられない宿命だったとしても、初めのうちは良心が痛む。六年前の結希がそうだったように。
「確かに妖怪は退治するべき存在ですが、方法は一つじゃない。約束してください、愛果さん。もう二度とあんな真似はしないって」
愛果の唇が小さく動いた。その動きを読唇術で読み取ると、それは〝約束〟だった。
「ウチらってほんと、約束が好きだね」
呆れたように愛果が笑う。結希は少し前にした約束を思い出して、苦笑した。
「わかった。約束する」
「ありがとうございます。じゃ、さっさと結界を張って帰りましょう」
「だね」
振り返ると、待ってましたと言わんばかりにスザクのツインテールがぴょこんと動いた。
「結希様、張りましょう結界! 張りましょう!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねるスザクは、張り切って両腕の袖を捲る。ぶかぶかなそれはすぐにずり落ちてしまうが、スザクはまったく気にしていなかった。
「結界ってどうやって張るの?」
「あぁ、それはですね……」
結希が口を開くと、月明かりに影が差した。屋上に映った影は人──いや、どう見ても人ではない。
「誰だッ!」
愛果が顔を上げた。二メートルもあるフェンスの上に立っていたのは、想像を絶するほどに美しい銀色の髪を靡かせる少女だった。
ただの少女でないことは、誰もが影を見て理解した。
頭部から生えているのは銀色の獣耳で、目を凝らして見ると先ほどの野狐と同じ形状をしている。
「こんな奴等に負けたのか。使えない野狐だったな」
少女はそう吐き捨てて、言葉を失った結希を見据えた。
耳だけではなく尻尾までもが狐のそれである少女は、人でも妖怪でもなかった。忍者のように口元や首筋を黒い布で覆い隠して、着物を大胆に着崩した胸元だけが露出している。
「使えない野狐?」
愛果が眉を潜めて聞き返した。が、少女はまるで、愛果やスザクは存在しないかのように結希だけを見つめている。
「貴方が先ほどの野狐に命令をして、結希様と愛果様を襲わせたのですか?」
無言を貫く少女に痺れを切らしてスザクが尋ねた。それでも答えない少女は、ゆらゆらと尻尾だけを動かす。
「答えてください。貴方は誰ですか? 俺たちの味方ですか? ……それとも、敵ですか?」
結希の質問に、初めて少女が長いまばたきをした。
「残念だが、お前に名乗る名前はない」
フェンスを蹴って屋上へと下り立つ。
「……私はお前の味方にはなれない」
そう言葉を添えて手に青い炎を灯した。
「なら、敵ってことね」
愛果はもう一度豆狸に変化して、スザクは瞬時に出現させた日本刀を抜刀する。
月を雲が覆い隠して、辺りは闇に包まれた。




