十一 『誕生日の少年』
「終わ、ったぁ……!」
「珍しいな、貴様がそんな反応をするのは」
最後のテストが返却され、机に突っ伏す。すると、目の前の席に座っていたヒナギクが僅かな笑みを浮かべてこっちを見た。
「その声、大丈夫だったと判断していいんだろう?」
「赤点超えた……!」
「そうだな。さすがに十三点以下はどうかと思うぞ。で? 化学は何点だったんだ?」
「三十九点」
「貴様それは勉強したのか?」
自信満々で答えたが、侮蔑するような瞳が結希の真上から降ってきた。
おかしい。採点もして返却もした依檻から直接教わったはずなのに、何故ヒナギクからこんな扱いを受けなければいけないのだろう。
「いや、でも赤点は十三点」
「平均点は二十六点だな」
「俺は三十九点」
「それはそんな褒めてくれとでも言うような表情で言えることか?」
そんな表情をしていたつもりはなかったが、ヒナギクは結希の頭を軽く撫でて前を向いた。
その背中が語っていたことは、なんだったのか。心から褒めようと思ったのか、記憶がないことへの同情だったのか。
ヒナギクの心が読めないことはいつものことだったが、今日ほど一言添えても良かったんじゃないかと思った日はなかった。
*
「センパイ、こっちですこっち!」
ヒナギク以外には見せられないテストの答案用紙を鞄の中に突っ込んで、待ち合わせ場所に指定された正門で待つ翔太の元へと歩く。今日は十一月二十九日。どちらが先かは知らないが、愛果と翔太の双子の誕生日だった。
「えっ、と……」
正門前に止められた黒い高級車は、《紅炎組》の恵が連れてきた車と同じタイプのものだった。それを《風神組》の若頭である翔太も使っている──。
「副会長、いっつも相豆院侍らせてない?」
「きっと本性はヤバい人なのよ。あんな優等生っぽい顔してるけど」
「留年噂されてる先輩だからな……。あの百妖先輩のオトウトだし」
「あ、でも留年回避したらしいぜ」
「えっ、そうなの?」
「まぁでも出席日数がヤバイのは間違いないって」
「やっぱりあの人本性は不良なんだよ。大アニキって呼ばれてるし」
「副会長、この前《紅炎組》に拉致されたって聞いたことあるけどあれ本当?」
胃が痛い。テストが終わったはずなのに、胃に穴が開いたような苦しみを覚える。
「センパイッ?! なんで胃の辺りを抑えているんですかっ?! 食中毒ですかっ?!」
「……吐きそう」
「吐きそう?!」
「……その車だけはやめてほしかった」
さすがに両膝をつくことはしなかったが、背中が猫背のように曲がってしまった。
「センパ〜イ! とりあえず車に乗ってください! 病院に行きましょう!」
「いや、病院はいい。家に行こう」
慌てる翔太に引っ張られ、無理矢理に中に突っ込まれる。病弱な翔太のことだ。それがどれほど辛いことなのか深く理解しているからこそ、結希を助けたかったのだろう。……だが、その様子を正門前にいた生徒全員に見られてしまったことが致命傷だった。
「ちょっと、何ボサッとしてんの。早く出して」
冷たい声色で運転手を急かし、翔太は座席に座らせた結希に視線を移す。
「センパイ、この時間なんです」
黄昏時になった。生徒の視線を気にして窓の外を見ていた結希が判断すると、翔太がそんなことを言い出した。
「この時間って、まさか……」
黄昏時のことを知っているのか? そう思ったが、翔太は「はい」と頷いてこう言った。
「十八年前のこの時間に、ボクはこの町で生まれたんです」
それは結希の予想とは違ったが、聞いておかなければならない話だった。
この時間帯に生まれた愛果と翔太。お互いの存在が血縁者であることをまだ認識していない双子の誕生。
「叔父夫婦が九年前に亡くなって、母さんが七年前に亡くなって、鬼一郎が頭首になって、父さんはまだ生きているけれど《風神組》から追放されてからはあんまり会ってくれなくなって……ボクはずっと入院してたから、鬼一郎のことをずっと一人にさせていたんです」
それは、結希が知らない相豆院家の話。今にも消えそうな炎を守り続けている炎竜神家と対立している家の話だ。
「生まれてきて良かったのかなって、入院している時何度も何度も思ってました。ボクはそこにいるだけで、鬼一郎の足を引っ張っているんです。父さんは裏社会にいる人間の上に立てるような人じゃなかったから、鬼一郎を守る為に離れていったんだと思います。ボクも、鬼一郎の威厳を損なわせるような奴だから離れようって何度も何度も思ってました」
そして、愛果がこれから帰るかもしれない家の話だった。
「でも、ボクが離れたら当たり前だけど本当に鬼一郎を一人にさせちゃう。入退院を繰り返して、迷惑ばっかかけているようなボクだけど、母さんと父さんから生まれてこなかったら鬼一郎は最初から一人だったってことになっちゃう。それはそれでしんどいだろうなってボクは思う」
もし、翔太が生まれず愛果だけが生まれていたら。愛果だけが生まれて翔太だけが死産だったら。愛果だけが死産で翔太だけが生まれていたら。
どんな運命でも、鬼一郎という翔太の兄にとっては地獄のような日々になるだろう。
「なんにも知らなかった小さな頃は、死にたいってずっと思ってた。こんな弱っちい体で生き続けている意味なんてないし、毎日毎日苦しいし」
翔太の独白に余計な感情は入ってなかった。それが翔太の今日までの日々を表現しているようで、結希まで苦しくなる。
「でも、ボク自身の肩書きを理解した年頃になった時、鬼一郎の力に少しでもなれるのならって思った時……そう思ったのは結構最近のことなんだけど、今日という日を心から幸せだっていう気分で味わいたいなって思った」
結希よりも小さな体で、結希よりも一つ年上の翔太は話す。……いや、十一年分の記憶がない結希だ。結希と翔太の年の差は十二歳分になるだろうか。
そんな翔太の悩みと決意は尊敬できるものだったし、翔太の肩書きや周りの声を無視して翔太本人と向き合ってみると、知人で良かったなとも思う。
「だから、言ってほしい。ボクと初めて仲良くなってくれたキミに、生まれてきてくれてありがとうって。それが絶対にボクの力になる。言ってくれたらもっともっと頑張れる。ボク自身に新しい価値をつけて、鬼一郎の傍に立てるような男になるから、だから……」
「誕生日おめでとう」
結希は翔太の言葉を遮った。友達じゃない。知人という言葉が相応しいと思ったが、翔太が結希が思っている以上に親愛を示していてくれるのならそれは友達の域に達していると思う。
「センパイ、そうじゃなくて……」
「言って欲しい言葉がこれじゃないってわかってるけど、誕生日の相手に真っ先に言う言葉はこれだと思う」
年下と年上。先輩と後輩。歪な友人関係だが、永遠に変わらない関係性。
「……センパイ、ありがとう」
笑った翔太と共に車から下りる。そこは多分相豆院家のガレージで、何故かところどころに穴が空いているのは見なかったことにする。
「センパイ、来て! 下僕たちは後で自転車ぶっ飛ばして来るみたいだし、先に始めてましょ!」
翔太に連れ出されて階段を上がると、中世の洋館のような内装が広がっていた。炎竜神家は日本家屋の面を被った洋風の家だが、相豆院家は真っ赤な絨毯が敷き詰められた典型的なそれだ。
「翔太、お客は間宮結希だけなのか?」
「ッ?!」
まったく感じなかった気配の持ち主の声に振り返ると、低めの声を出したとは思えないほどに甘い顔立ちをした青年がそこに立っていた。
ストレートの綺麗な髪を持つ翔太とは異なり、ウェーブがかった髪を持つ彼は──
「鬼一郎!」
──翔太の実兄の、鬼一郎その人だった。
あの時は遠くで見ていただけだったが、近くで見ると人形のような青年だと思う。赤ん坊のような柔らかそうな胡桃色の髪は翔太にそっくりで、ビー玉のような碧眼は彼の中にある冷酷さを具現化しているようだった。
「違う違う、後からたくさんの下僕が──って、あれ? なんで鬼一郎がセンパイの旧姓知ってるの? ボク言ったっけ?」
「一応頭首だからな、百妖の人間から聞いている」
違う。鬼一郎は二十歳の現頭首だ。だから結希のことを知っているし、翔太とは違う目で自分を見ている。
あと二年もすれば翔太も知ることになる真実だが、その時翔太は、どんな目で自分を見るのだろう。今の関係が簡単に崩れ去ってしまうのだろうか。
「そっか! じゃあセンパイ、ボクの部屋に案内しますよ! 来てくださいっ!」
「翔太、待て。少しだけ結希に話がある」
「えっ? ……うん、そういうことならいいけど後でちゃんと連れてきてね?」
「わかっている」
翔太は多分、鬼一郎に逆らえない。逆らおうとも特に思っていない、逆らう必要がないとさえ思っていそうだ。
結希は唾を飲み込んで、若き歓楽街の王を見据えた。自分よりも背が低い鬼一郎だったが、放つオーラは他の現頭首と大差ない。若くとも立派な頭首であり、裏社会を牛耳る《風神組》の組長だ。
そして、彼が炎竜神密と対等に──いや、今となっては彼の方が強いのかもしれないが、彼女と渡り合える権力を持つ者だった。
「弟が世話になっているらしいな」
「は、はい」
瞬間、彼が愛果の実兄だということを思い出す。友達の兄で家族の兄。なんだかおかしな関係性を結んだ鬼一郎は、結希にあっさりと頭を下げた。
「えっ?! ちょっ……」
「ありがとう」
「……やめてくださいよ!」
結希に感謝をする人間はいても、ここまでする人間はいない。過去の功績を、記憶のない今になって感謝されるのはもう嫌だ。
「言わせてくれ。お前に出逢ってから変わったんだ、あの翔太が」
なのに、六年前に出逢ったことのない翔太の話を持ち出された。
「翔太はずっと、入退院を繰り返していたんだ。そのせいで友達ができず、一人遊びばかり覚えて、人に壁を作るようになっていた。そんな翔太が、高校生になった途端に笑うようになったんだ。体調も崩さなくなった、死ぬなんてことを考えなくなった、自分の未来について考えるようになった。お前の名前を出して俺に話を聞かせてくれた辺りから、翔太は初めてこの世に生まれてきたようだったんだ」
翔太、翔太、翔太、翔太。当然だが、愛果の名前は一度も出てこない。密が依檻の名前を、白雪が麻露の名前を口にするようなものなのだから。
「俺は、ただ出逢っただけですよ」
だから、翔太が変わることができたのは自分自身の力のおかげだ。鬼一郎は「そう言われればそうだろうが」と苦笑いを浮かべ、「来い」と結希を案内する。
「センパ〜イ、もう話終わった〜?」
ひょこっと顔を出した翔太は、ひらひらと手を振って結希を迎える。
「翔太、生まれてきてくれてありがとな」
告げると、翔太は誕生日に相応しいとびきりの笑顔を見せた。




