十 『期末テスト』
依檻が一年以内に百妖家を去る。その事実を受け止め切れないまま、期末テスト当日となってしまった。
「ちょちょちょっ、結兄?! 大丈夫か?!」
単語帳を片手にお茶を湯呑みに注いでいたが、頭に入って来なさすぎて零してしまった。
「うわっ」
「気づいてなかったの?」
目の前で朝食をとっていた愛果は、盛大にため息をつく。だが、罵倒するわけではなく結希の代わりにテーブルを拭いた。
「……悪い」
「ありがとうでしょ」
「…………ありがとう」
「ねぇ。アンタってそんなに期末ヤバいの?」
顔を上げると、布巾を畳む愛果が心配そうに結希を見下ろしている。
初めて会った頃よりも周囲がよく見えており、表情も大人しくなった愛果は確かに結希よりも年上だ。最近の愛果の変化を見てそう思う。
「一つでも赤点だったら留年が決まる……。もう胃が痛い……」
「おぉ……。珍しく結兄が弱音吐いてる」
「吐きたくなるのもわかるけど、自業自得でしょ」
「そう言う愛姉はどうなの〜? 偏差値まだ足りてないんでしょぉ〜?」
端からちょっかいを出した亜紅里は「ニヒヒッ」と笑うが、本人も結希と同じで一つでも赤点があれば留年なのだ。笑っている場合ではない。
「……平均点下がらねぇかな」
「結兄……。勉強が関わってくるとめちゃくちゃカッコ悪いな……」
愛果と椿は、結希が勉強できないことを知っていても六年以上前の記憶がないことは知らない。結希が元から勉強嫌いだと思い込み、的外れなことばかり言うのだから気が沈む。
「みんな、今日から期末だからってテンションおかしくない? 結希と亜紅里よりも愛ちゃんとつばちゃんの方がお姉ちゃん心配だわ」
朝食が乗ったお盆を置き、結希の隣に座った依檻はそのことを知っている。だからか容易に話題を逸らし、揶揄うように笑みを浮かべて結希は初めて安堵した。
「ううううっ、ウチは偏差値ちょっと上がったし! べっつに期末も受験も怖くないしっ!?」
「あっ、アタシも別に大丈夫だ! なっ、なんにも不安なんてない!」
「不安だらけじゃない。まぁでも、一番アレだなと思うのは……」
「おいてめぇ! 勝手に目覚ましセットしてんじゃねぇよ!」
依檻が視線を移したのは、大きな足音で駆け下りてきた紫苑だった。
「……二度寝するのが悪い」
「はぁ?! 起きなくていいから二度寝したんだよ! さっさと止めろ! 止まんねぇ!」
面倒そうに視線を移した結希は紫苑から投げられた目覚まし時計を受け止めて、スイッチを切って、テーブルに置く。
「よし。止めたな。もう二度と俺の部屋に勝手に置くなよ?」
「いや俺の部屋だよ」
「うるせぇ仕切り作っただろうが!」
「部屋の構造的に仕切りを作るのは無理だと思うけどねぇ」
紫苑は「はぁっ?!」と脊髄反射で激昂したが、テーブルを囲んでいた学生組の視線に気づいて言葉を飲み込んだ。
「な、なんだよ」
「クヒヒッ。紫苑が一番おバカちゃんだねぇって話だよ」
「はぁっ?!」
そしてまた脊髄反射で激昂した。
「まぁ、学校に行くことがすべてだとは思わないけどねぇ。今の価値観はそれを許しているし、すべては紫苑の自由なのよ。でも、高校に在籍している以上は教師として気にかけなきゃいけないし。例えうちの子じゃなくても、高校生という肩書きを持っている以上は見ちゃうわよねぇ」
「はぁ……? 何言ってんだよてめぇ」
「紫苑、十代の時間は有限よ。足踏みをしていたら二十代になってましたとかよくあるんだから」
「ッ! 知らねぇよババア!」
紫苑は依檻に完全なる悪口を吐き、リビングを飛び出して階段を上がっていく。
「ババアって言ったな、今」
「言った。ウチは聞いた」
「アタシも聞いた」
三人義姉妹は顔を見合わせ、紫苑の知らないところで大笑いした。
留年するかもしれない結希は笑う気にはなれなかったが、見ず知らず──出逢って間もない年上の女性にババアと吐ける紫苑は明らかに依檻を近しい人間として見ていると思う。完全なる他人とは思っていない。家族として思っているわけではなくても、自分が何かしらの感情を相手に抱かないとババアという単語は出てこない。
「言われたわねぇ。私、紫苑の心に踏み込みすぎたかしら」
「それくらいが紫苑にはちょうどいいんじゃないですか?」
紫苑は積極的に見えて、実は消極的という部分があった。臆病で、その殻を破る時は時間をかけて破ってくる。
生まれたての子供のようだ。熟れていない青い果実。苦さを内包している年頃の少年。
「そう? 結希がそう言うならもうちょっとだけ踏み込んでみようかしら」
「そんなことよりも今日のテストだよ、ゆうゆう! その単語帳あたしにも見せて!」
「嫌だまだ〝でぃえと〟の意味が出てこない……!」
「……ダイエットじゃないの? それ」
捲ると、『食事/ダイエット』と書かれていた。
「……もう駄目だ」
テーブルに突っ伏し一人で嘆く。こんな気持ちになったのは初めてで、こんなにも自分が駄目なのだと思った日もない。妖怪と殺し合いをしていた方がまだマシだ。
「結兄がんば! ダイエットがすべてじゃないって!」
「ていうかそれ、日本語で馴染んでいる単語でしょ? なんで出てこないのさ」
「まぁ、それが結希って感じよねぇ。可愛い可愛い」
フォローにもなっていない言葉の数々に肩を落とし、食器を片づける。これから歯を磨いて着替えて家を出るのに、一限目の英語のテストまで暗記が間に合う気がしない。
「……本当にもう駄目だ」
「まぁまぁまぁまぁ! ゆうゆうがダメだった時はあたしもダメだった時だから! 落ちる時は一緒だよ!」
「……お前と同じ学年をもう一回なんて耐えられない」
「えぇ〜! セイシュンライフ、一緒に楽しもうよ〜!」
結希を抱き締めてべたべたと引っついて、移動する度についてくる亜紅里を投げ飛ばす。亜紅里は器用に着地して、盛大にため息をつく結希をいつもの明るさで慰めた。
「頑張ろゆうゆう! ファイト〜! なんならこの後神社行っちゃう?! 神頼みしちゃう?!」
本当の自分じゃないのに、結希を励ます為だけに自分を偽る亜紅里を見ていると背筋が伸びてくる。ここまでしてもらったなら、もう自分自身に自信を持つしかないのだと思う。
「……行く」
「よし! よく言った! ついでに阿狐頼を倒せますようにってお願いしよっ!」
「えぇ……。それでいいのかよ」
確かに結希も倒したいとは思っているが、亜紅里にとっては実母だ。階段から下りてきたママとポチ子が亜紅里の肩に乗って頬を舐めているが、本当にそれでいいのか疑問に思う。
「いいのいいの。あたしにとってのかあさんはママ。ポチ子もゆうゆうも、みんなもあたしのこと好きなんでしょ?」
「どっから来るんだその自信」
愛果もそうだが、亜紅里も変わった。結希は亜紅里に引っつかれながら準備を済ませ、小倉家に隣接する風丸神社へと寄る。
ここへ寄っても時間はまだある。最高のコンディションでテストに挑もうとしているのだから、今日だけは早起きしたのだ。
「留年回避しますように……!」
「赤点だけはどうか勘弁してください!」
「お願いします!」
「お願いしますっ!」
二人して全力で頭を下げた。これで少しは土地神からの慈悲が貰えるはずだ。
「……何してるんだ、キミたちは」
だが、一番慈悲のない人間が二人の真後ろで呆れていた。
「かっ、神頼みです!」
「ちょうど良かった! シロ姉もしてよ神頼み!」
「キミたちのテストについてか……? 悪いが、仕事中だ」
「そこをなんとかぁ〜!」
引っつく亜紅里を引っ張る巫女服姿の麻露は呆れ果てているが、無意味なことだとは決して言わない。巫女をしているからか、そうやって切り捨てることはしない麻露のことが結希は好きだ。
「おや。ご姉弟揃って朝から参拝ですか? 精が出ますね」
「あっ、雷雲さん」
それは社務所から出てきた雷雲も同じだろう。正装に身を包んで活動し、参拝客に挨拶している。
「お、おはようございます」
気まずい。普段はなんとも思わないのに、姉妹と一緒にいる時や参拝中に声をかけられると妙に居心地が悪くなる。
「はい、おはようございます。そろそろ阿狐頼の吉日も近いので、ご自愛くださいね」
「そうだな。結希、そろそろ襲撃場所もわかる頃だろう。頼りにしているぞ」
「いっ、今はやめてください絶対無理です……!」
「そうそう。ゆうゆうは今テストでいっぱいいっぱいだから、これ以上何かあると詰め込みすぎで潰れちゃうよ〜?」
「あぁ、確かにそれもそうだな。学生の本分は勉強だ、それを疎かにしてはいけない」
「陰陽師のお偉い方に任せましょう。以前は結希くん頼りでしたが、全体的によくなってきていると聞きますし」
「そうですね。なるべく早くが好ましいですが、彼らからの言葉を待ちましょう」
「そうそうそうそう! じゃ、半妖の方も社会人のお姉様方に任せました! 阿狐頼が出たら言ってください! ぶっ殺します! それまであたしはバカンスを楽しんでいますから!」
麻露は適当なことを言って楽しようとする魂胆が丸見えな亜紅里を手刀で仕留めるが、断ることは特にしなかった。受け入れなかったら矛盾してしまう。そう思ったのだろう。
「……吉日になったらテストはもう終わってるだろ」
そんな亜紅里を小突き、吉日は動けることを麻露に告げる。麻露は「そうか」と相槌を打ち、学校へと小走りで向かう結希と亜紅里を見送った。
「毎月毎月働きに出るなんてゆうゆうは大変だねぇ」
「どうせすぐに終わるだろ」
「終わるかなぁ」
「百鬼夜行が来て、夜が明けたら──必ず終わるさ」
亜紅里はそれ以上答えなかった。結希よりも阿狐頼と接触していた時間は長いのに、亜紅里は肯定も否定もしないで無言のままだった。
結希はテストへと意識を向け、覚えたての単語を思い出す。少なくともダイエットは覚えた。他の単語と、授業で習った長文と……。
「ゆうゆう! バス停はそっちじゃなくてこっち! あたしよりも土地勘あるくせに迷わないでよ〜!」
「うわっ、悪い」
「も〜! ほんとゆうゆうって駄目な時はとことんぽんこつだよね〜!」
「うるさいな」
思わず紫苑のような口調で返した。亜紅里はそれに気づいたのか、にやにやと不気味な笑顔を浮かべて結希の先を走っていく。
「バスの時間までそんなないよ! 急げ急げ! 遅刻したらシャレにならないしね〜!」
「だったらお前が連れてけよ!」
「やだぺー! だったら一人で行くしー!」
「お前なぁ……!」
舌を出して飛び回る亜紅里は今何を思っているのか。だが、亜紅里のことはいつもよくわからない。ただ、クラスメイトとして──生徒会の仲間として結希の傍に居るのは大体亜紅里だった。
そういう時間を、亜紅里とずっと過ごしていた。




