八 『炎の姉妹』
教室を出て、亜紅里と紫苑が先に帰っていることに気づき結希は無言で振り返る。教材を纏めて帰る準備をしていた依檻は、顔を上げて微笑みを浮かべた。
「ちょっとだけ待っててくれたら一緒に帰れるわよ?」
「待ってます。……ちょっとだけ」
答え、職員室へと向かう依檻の後を追った。
自分よりもほんの少し背が低い、母のような義姉の依檻。他の姉妹よりも先に知っていた、唯一無二の存在である依檻。依檻は──というか結希を受けもっている教科の教師は、一年の頃から結希に付きっきりなことが多かった気がして──
「俺のこと、いつから俺だって気づいてました?」
──不意に疑問に思った結希は思わず尋ねた。
「さぁねぇ」
そしてそれは、思っていたよりも曖昧な返事だった。
「最初から朝日さんの実子がいる学年だとは思ってたわ。でも、芦屋なんて名字どこにもなかったから公立に行ったのかと思ってたの。君があの時の陰陽師の子だと気づいたのは最初の授業で……恥ずかしい話、朝日さんの息子が本当にこの町に存在していると確信を得たのはシロ姉から居候の話をされた時よ。あの日初めて君を見て、あの時の陰陽師と朝日さんの実子が同一人物だったんだって知ったくらい、私は君のこと……なんにも知らなかったわ」
なら依檻は、自分が朝日の息子だと知らずに──あの日共に百鬼夜行を止めた少年として自分と接していたということか。
そんなこと、気づけないくらい依檻はあまりにも普通に結希の勉強を見てくれていた。ただの教師と生徒として、時々反応しづらい揶揄い方をして、結希を何度も戸惑わせて、げらげらと下品に笑っていた。
「…………そうなんですか」
依檻と義姉弟にならなければ、こんな会話をすることもなかった。そういう関係だったということも知らないまま、卒業していたかもしれなかった。
依檻だけが自分に向けていた特別な感情を知らないまま、はた迷惑な担任だったと片づけて大人になれば忘れてしまう──そんな未来もあったのか。
「ほんと、君がウチに来てくれて良かったわ。朝日さんが押しつけてきたみたいだけれど、家族としてまた会えるなんて思ってなかったから」
世界に異変が起きているから、結希は百妖家に預けられた。親戚の結城家ではなく、古巣に結希を預けて飛び立った。そうして結希と姉妹の縁を育み、いつかに備えてくれたのだ。
六年前の百鬼夜行も、これから起こるかもしれない百鬼夜行も、阿狐頼がいなければ起こらなかったことになる。そして、阿狐頼がいなければ生まれなかった縁もあるという事実に気づいて手が震えた。
握り締め、依檻の隣に立つ。先に生まれてきた依檻と肩を並べ、もう後ろを歩いて回るような子供じゃないことを伝えて安心させたい。
あんたが待ち望んでいた赤ん坊は、あんたの背を追い越してここにいると。もう自分の命を削らなくても、百鬼夜行を止められるような陰陽師になっていると──伝えようとして口を閉ざした。
──自分は、本当になんの犠牲も出さずに戦えるのか?
今までまともに考えたこともなかったが、現実味を帯びてくると足が止まる。自分は六年前の自分と比べて強くなっているのだろうか。多くの術を知れているのだろうか。
千羽──六年前に亡くなった従兄の名前を呼び、いるはずもないのに視線で探す。だが、千羽は今日も紅葉についていた。
「はい、到着。しばらくそこで待っててね」
我に返り、あっという間に子供扱いされて数十分間待たされる。盛大にため息をつき、親離れさせてくれない依檻の後ろをカルガモ親子のような様子でつけ回して帰路についた。
ほとんどの生徒が帰った時間帯だからか周りの目はまったく気にならなかったが、そうじゃないような気配がして結希は背筋を震わせる。
「……?」
妖怪が出てくるような時間じゃない。百鬼夜行でもない限り、この時間は平和そのものだ。なのにこの感覚はなんなのだろう。妖力のような妖力もないのに、刺すようなこの気配は──
「いつまで私をつけ回すの?」
──足を止め、結希は自分を指差した。だが、振り向いた依檻は結希のことを見ていなかった。
「これでも一応わかるのよ。出てきなさい」
依檻の視線の先を探し、電柱の影から姿を現した女性に気づく。目を凝らさなくても、夜目が利く結希は相手が誰だかすぐにわかって肝を冷やした。
「恵、さん……?!」
《十八名家》炎竜神家の本家の人間。《紅炎組》の構成員であり、実姉を組長と呼んで慕う銃の使い手だ。
「何か用かしら、恵ちゃん」
そんな彼女をちゃん付けし、依檻は腕を組んで彼女を睨む。半妖の力を使えば確実に勝てるが、素の力で恵に勝てるわけがない。レッグホルスターに入れている銃が今か今かと疼いているのが見て取れるのに、依檻はどうしてそうも強気でいられるのだろう。
「言わなきゃわかんないのか? お前」
「わからないわよ。私そういう半妖じゃないもの」
「ふざけるのも大概にしろ」
「ふざけてないわよ。私、本当にわからないから」
恵が苛立っているのがわかる。だが、依檻があえてそうしているような気がして結希は何も言えなかった。暴力団の一員である恵に突っかかっていけるほど、かつて銃口を向けられた結希は強くなかった。
「チッ、旧頭首がお前を待ってる。さっさとウチに来て何か言え」
「あらあら、そんなことを急に言われてもねぇ……。嫌よ、密の口から聞かされない限り首を縦には触れないわ」
「なっ?! お前、そんな軽々しく組長の名を呼ぶな!」
「なら、軽々しく私のことを『お前』呼ばわりしないでくれるかしら。別に『姉様』扱いしろとは言わないけれど、それが礼儀ってものじゃない?」
恵を前にしても一切動じない依檻の強さはどこから来るのだろう。そう思って、なんとなく事態を把握する。
結希の考えた通りならば、今目の前にいる恵が数百倍も可愛く見えてくるようなこと。
「うるさい依檻! お前なんか大っ嫌いだ! 教師なんかやってる上に家にも帰ってこない親不孝者め!」
それは、恵が依檻の血の繋がった本当の家族だということだった。
「そうね」
淡々と答えた依檻は笑っていない。百妖義姉妹と一緒にいる時の方が数百倍も楽しそうに見える。
「でも、教師を止めるつもりもそっちに行くつもりもないわよ」
「ッ?!」
「依檻さん?!」
思わず声をかけ、結希は伸ばしかけた手を止める。
何故、自分は今依檻の発言に驚いたのだろう。自分の立場を考えると、依檻の言うことは泣いて喜ぶほどに嬉しいことのはずなのに。
「……邪魔だ、結希。お前に用はない」
名乗ってもいないのに自分が間宮結希であると知っていた恵は、結希を押しのけて依檻と相対する。依檻は無表情で恵を見下ろし、恵は牙を向いて依檻を見上げていた。
「何がなんでも、今日中にウチに来てもらうからな」
「あら、何故?」
「何故じゃねぇだろ! ウチのこと知ってんだろ!?」
「組員不足だって言うなら知らないわよ? いつまでも血縁にこだわってるから、《風神組》なんかに押され続けてるのよ。自業自得じゃない」
あからさまにため息をつき、恵を煽り続ける依檻は本当に恵を妹だと思っているのか。
結希は昼間に見た翔太と紫苑の激突を思い出し、翔太があっさりと手を引いたことに気づいて恵を見下ろした。
そういうことか。どちらかというと喧嘩っ早い翔太があんなにもあっさりと手を引いたのは、《グレン隊》が解散していることだけではなく《風神組》に追い風が来ているからなのか。
《紅炎組》との力関係が変わりつつあるのなら、裏社会を二つの家が監視している意味がなくなる。《風神組》が暴走しても、《紅炎組》は止められない。《紅炎組》の牽制が、《風神組》には効かなくなる。恵は、そして密はそれを危惧しているのか。
「なっ?! それがウチの伝統だ! 今さらそんなモン変えられるか!」
「伝統伝統って……そういうの、伝統って言わないんじゃない? どうせ《風神組》と区別化する為にやったんでしょ」
「うるさい! それは私の意見であって組長に聞いたら絶対答えが返ってくるんだ!」
「仮に返ってきたとして、それで私を納得させられるのかしらねぇ……。それに、今さら私一人が加入したところで風向きは変わらないんじゃない?」
「うるさい! お前はすごい力を持ってるんだろ? それで奴らをぶっ倒せよ!」
「半妖の力を宛にしたって無駄よ。だって、《風神組》には一般人も紛れてるもの。……あ、そのテの人間に一般人っていう言葉は当てはまらないわね」
「うるさいうるさい! お前、どうせ文句言うだけ言って加入しないつもりなんだろ!」
「そうよ? 今さら気づいたの?」
笑いもしない。いつものように相手を揶揄って楽しんでいるわけでもない。そんな依檻に結希はしばらく何も言えず、恵の怒りが増していく。
これが、依檻の本当の家族に対する態度だった。
「うるさいうるさいうるさい!」
「うるさいのはそっちでしょ。あまりにも酷すぎると通報されるわよ?」
「ッ!」
「それに、炎竜神家の品位が問われるわ。仮に私が戻ったとして、その地位が底辺にまで落ちていたら焼き殺すからね」
恵は言葉も出せずに口を開閉させていた。怒りこそあるものの、彼女が次期頭首であると思い直して怖気づいてしまっている。
「依檻さん、帰りましょう」
その隙に依檻の腕を引っ張った。これ以上自分が知らない依檻を見ていたくない。その一心で恵から距離を取る。
「結希……。えぇ、そうね。早く帰りましょう」
依檻が炎竜神家に戻る未来があるとして、それでも今は関係がない。今の依檻が帰る場所は百妖家で、今の依檻の家族は結希の方で。振り返り、姉の命が削られていることを知る由もない恵の俯いた姿を見つめる。
結希は、彼女が依檻と過ごせる家族としての時間を二度も奪った。その罪を自覚して、振り払う。
「……逃がさない」
だが、恵はここまで手を伸ばした。
「言っただろ。今日中にウチに来てもらうって」
瞬間、住宅街に黒塗りの車が侵入する。猛スピードのそれは結希と依檻の目の前で急停車し、中から様々な色をしたオレンジ色の髪を持つ男女が飛び出してきた。
「なっ?!」
「あら、このパターンは初めてね」
慌てる結希とは異なり、依檻は異様に冷静だった。そのまま彼女は両手を上げ、抵抗の意思がないことを示す。
「そこまでするのなら行ってやるわよ」
呟き、依檻は車の中に押し込められた。
「こいつもだ」
恵の命令を聞いた組員は、依檻に倣って抵抗の意思を表明しなかった結希を捕らえて車に押し込む。依檻とは別の車だったが、何故か結希は怖くなかった。




