七 『強さ』
貴美の英語の補習で始まり、青葉の古典の補習へと続き、最後に待っていたのは依檻の化学の補習だった。
結希は左右に座った亜紅里と紫苑を見、二人とも撃沈していることに気づいて慌てて起こす。何度揺さぶっても生ぬるい返事しかしない二人は、頭が完全に考えることを放棄していた。
「結希は大丈夫なの?」
そんな二人を一瞥し、依檻が興味深そうに尋ねる。
「できることなら今すぐ終わってほしいです」
「正直ねぇ」
呆れ、依檻は出席簿で二人の頭を立て続けに叩いた。
「あいたっ!」
「ッうぅ!?」
「ほらほら起きなさい。私は貴美さんや青葉さんよりも甘いけれど、授業中に寝られるのだけは勘弁よ」
腕を組み、出席簿の代わりにチョークを摘む。そうして横一列に並んだ三人を見回し、妖艶な笑みを彼女は浮かべた。
「結希と亜紅里は教科書の復習をしましょうか。範囲はもちろん、わかっているわよね?」
あえて区切り、異様な圧をかけてくる依檻は教師モードへと移行している。結希と亜紅里は慌ててノートのページを捲り、書き殴っていた期末の範囲を読み上げた。
「よろしい。紫苑は一年生の教科書を持ってきてあげたからこれを使いなさい。けど、五月から行ってないんだから基礎から始めてあげないとダメよねぇ? 物質の三態のところからやりましょうか」
「あぁ〜ん! い〜なぁ〜、物質の三態! 超簡単じゃん!」
「……今思えばあれが一番楽だったな」
「はぁっ?!」
声を上げたが、紫苑は机に突っ伏す二人を見て過度に驚きはしなかった。それでも教科書を捲る速さは並ではなく、何一つ理解していないことが見て取れる。
「ふふっ。貴方たち二人が本気でそう思っているのなら、貴方たちにはちゃんと学力がついているということよ」
自分の為にした努力は、貴方たちの味方ということね。そんなことを呟いて、教科書を紫苑に手渡した依檻は結希たち三人に背中を向けた。
ゆらりゆらりと揺れる尻尾のような一房の白髪は、依檻の動きと同化している。四限の授業の時にも見たそれに変化という変化はなく、昼休みの時の出来事なんかなかったかのように振る舞う彼女の心の強さがありありとそこに表れていた。
視線を上げると、素早く板書する依檻の後頭部が視界に入る。表情はまったく見えないが、板書しながら別の話を続ける依檻は多分器用だった。
不器用ではない。器用であるからこそ埋もれていく依檻の本心が見えてこない。結希は板書をノートに書き写しながら、知らぬ間に依檻の心に変化が起きていないことを祈った。
依檻の削れてしまった命の灯火は、今でもその中心部で輝いている。熾夏を見る限り六年前の依檻と今の依檻にたいした変化はないようだが、命が削れて平気でいられる人間なんてどこにもいない。
結希は頭を掻き、六年で歪に壊れてしまった依檻という人間の身を案じた。彼女が鈍感人間ではないと勝手に決めつけ、シャーペンの持ち手を握り締めた。
*
「じゃ、今日はここまでね」
付箋だらけの教科書を閉じ、依檻は雪崩る三人を見下ろす。
「まったく。仕方がないとはいえ学問に対する耐性がなさすぎるんじゃない? 紫苑の場合は自業自得だと思うけどねぇ」
紫苑は呻き声で反論したが、依檻はそれを受け入れなかった。
確かに紫苑は自分の意思で学校に行っていなかったが、その最たる遠因を作ったのは結希だった。結希は紫苑を一瞥し、彼が寝そべりながらも教科書を見ていることに気づく。勉強が本当に嫌いな人間は、そんなことは絶対にしないはずだ。
「もう復習か?」
「うっせ!」
そう思って話しかけただけなのに、何故か反抗されて結希は短くため息をつく。
「反抗的な義弟を持つと大変でしょう?」
そんな反応を面白がって、依檻は結希の傍にしゃがみ込んだ。
「うわっ」
反射的に起き上がり、ちょっぴり傷ついたような表情で不貞腐れる依檻を見下ろす。長い睫毛に隠されたブラウンの瞳は結希の体を追うことはせず、ここではないどこかを見て膝に頬杖をついていた。
「依檻ちゃ〜ん、もう帰ってい〜?」
「勿論いいわよ。ただし、他の教科もちゃんと勉強しておくように」
教師そのものの台詞を吐き、のろのろと立ち上がる紫苑と荷物を纏める亜紅里が教室を出るのを待つ。
そうして二人きりにされた時、依檻と考えていることが一致したように結希は感じた。
「よっこいしょ」
今の今まで亜紅里が座っていた席につき、依檻は体を結希の方に向けたまま再び怠そうに頬杖をつく。一瞬の沈黙。視線は交わっているのに何故か言葉が出てこない。
窓から差し込むオレンジ色の夕日が逆光となって目を細め、とっくのとうに黄昏時になっていたことに気がついて姉妹を想う。その中の一人である依檻は何も言わなかった。この時を楽しんでいるのかいないのか、夕日を身に纏った炎の化身である依檻はただただ沈黙を続けている。
暮れなずむ空は結希と依檻を待っていた。依檻は結希から視線を外し、先ほどの結希と同じように短くため息をついて微笑する。
「私がしいちゃんだったら、結希が何を考えているかすぐにわかるのに」
恐ろしい願望を口に出し、その恐ろしい願望に同調してしまった結希は頷くことで依檻に答える。
「もう一度、聞くわね」
ゆっくりと依檻が言葉に出した。珍しく背中を丸め、膝の上に乗せた自分の手を見て言葉を探す。
「どうして私のことを避けるのかしら」
その避けるは、去年から依檻にしていたものではない。
「……熾夏さんに、刺されたんです」
先月から依檻にしていた、漠然とした拒絶だった。
「刺された? しいちゃんに?」
前のめりになった依檻を手で制し、首を横に振って比喩であることを無言で告げる。
「何も知らない俺のことがずっと嫌いだったんですって。真実でできた刃で刺して、それでも俺が立っていられるかどうかを試したんです」
「その……しいちゃんに刺されて痛かったことはわかったから、そのことと私のことの間にどんな繋がりがあるのかを……」
「真実でできた刃なんです」
「真実でできた刃?」
依檻は、心底理解できないとでも言いたげな表情を浮かべていた。
自分の寿命のことを忘れているのかそうではないのか。熾夏が知っているはずがないと高を括っているのか、知られても問題のないものとでも思っているのか。依檻は困惑し尽くして、結希の言葉をただ待った。
「俺が依檻さんの寿命の四分の一を奪ったっていう真実です」
百年生きることができるなら、七十五歳までしか依檻は生きることができない。八十年生きることができるなら、六十歳までしか依檻は生きることができない。それくらい、その罪は重い。
依檻は口を閉ざした結希を呆然と見つめていた。口を開き、どこかの人形のように固まってきつく結ぶ。その沈黙はやはり重く、依檻が六年も心の中に封じ込めていたそれの邪悪さが際立っていた。
「……そうなの。貴方が気にすることじゃないのに」
依檻は笑わなかった。悲しむわけでも怒るわけでもなく、無表情のまま指先をいじる。
笑いのツボの浅さは関係なく、常に笑って常に家族を笑顔にさせていた彼女が一切笑っていない。熾夏が吐いた嘘であってほしいとも思ったが、現実はそう甘くはなかった。
「あの時、何があったんですか?」
「本当に知りたいの?」
即答した依檻は、明らかにあの日の出来事を覚えている。結希は彼女に悟られないように頷き、「嘘つき」とすぐに見破られた。
「別に怖い話じゃないわよ」
視線を上げた彼女の微笑みは母のようで、結希は麻露と同じくらいの時を実母と生きた依檻を見据える。
「貴方は私の、世界で一番可愛い弟」
『その頃から、弟クンは私たちにとって〝なんとなく弟クン〟だった』
「そんな弟を守りたいって思うのは当然でしょう?」
『朝日さんは、弟クンを産む直前まで私たちのお母さんだったの。だから、シロ姉やいお姉、まり姉やかな姉、鈴歌と朱亜と私の七人でずっと君のことを待っていた。朝日さんのお腹を撫でて、『いつ産まれるの』って、『早く会いたいなぁ』って話してたこと……弟クンは知らないでしょ?』
だから怖い話じゃない。依檻と熾夏の話が交わり、溶けていって胸中に収まる。
「私はね、あの日あの戦場で君のことを見かけたの。そんな私の目の前で貴方は術を行使したけれど、貴方自身の力だけでは足りなかったみたい。貴方は土地神の力を借りて、自分の記憶を犠牲にして、それでもこの町と──まりちゃんのことを救えないと悟ってしまった。そんな貴方に勝手に命を差し出したのが私よ」
あの日の地獄のような風景も、あの日味わったであろう痛みも、依檻は一切話さなかった。事実だけを話してなるべく結希から痛みを遠ざけ、大切にされているのだとここに来てようやく実感する。
「だからね、結希が気に病むことなんて何一つないのよ」
そんな依檻の優しさに、結希は随分と前から包まれていた。
「……なわけないでしょう」
「あるわよ」
「あるんです」
「ないのよ」
埒が明かない。依檻はどこまでも結希を守ろうとし、結希はそれを拒絶する。
「逆に聞くけれど」
次の言葉を考えあぐねている間にも、依檻は言葉をやめようとはしなかった。教師だからこそ間を作らない彼女は眉間に皺を寄せ、静かにこう問うた。
「結希がすべての代償を払ったらそれで良かったの?」
「そうですよ」
「そんなわけないでしょう!」
勢い良く立ち上がった。逆光が依檻の全身に隠されて、結希は依檻の表情の本質を見つめる。
「貴方は一人なんかじゃないの! 貴方のことを本気で弟だと思っている私の気持ちを無視しないで!」
心臓に巡る血が騒いだ。どくんどくんと、依檻の言葉がポンプの役割を果たして結希の心に命を送る。
「…………」
前に、明日菜も似たようなことを言っていた。そのことを思い出して結希は思わず頷いた。
依檻はだいぶ怒っている。そんな依檻を見たのは初めてで、この時ようやく自覚した。
──依檻は、何があっても自分のことを嫌いにならない。
そのことを確信して甘えていたからこそ、依檻が自分のことを叱ったことがあまりにも衝撃的だった。
依檻は結希のことを弟と言うが、結希は依檻のことを姉だと思ったことは一度もない。姉ではなく、ずっと母のようだと思っていたことに気づいてしまった。
今も、こうして結希のことを叱る様は姉ではなく母のようで。六年前のあの日、結希のことを守ろうと命を差し出せた強さは完全に母のそれだった。
「……すみません、でした」
思わず謝り、視線を落とすと暗闇が広がる。それは、黄昏時の終わりを告げていた。
「帰りなさい」
「……はい」
「私のこと、もう避けないでね」
「…………はい」
依檻は「ふふっ」と笑みを零した。やはりそれは、朝日に似ていた。




