六 『二家の諍い』
「は?! 補習?! 俺が?!」
逃がさないようにパーカーのフードを鷲掴み、結希は紫苑を盾にする。
「どっちにしろお前の成績だってやばいだろ」
「勝手に決めるな! テメェの判断も色々とおかしすぎるだろカス!」
結希と紫苑の言い合いを困ったようにしばらく眺め、頬に手をやった貴美は「……はぁ」とため息をついた。
「紫苑くん、高校は義務教育じゃないわ」
紫苑はびくっと両肩を上げ、淡々と話す貴美の熱のない視線から逃れようと視線を逸らす。
「やめたければやめるという道が許されているの。小学校や中学校は辛うじて卒業できても、高校には退学がある。それを理解した上で貴方は柊命高校を受験したんでしょう?」
貴美の言っていることは正論だ。生徒に親身になろうとする彼女は、そうやって生徒を追い詰めていく。
「例え偏差値が低くても、そうやって入った学校なのだから最低限の勉強はするべきよ。自分自身の為にもね」
そんな彼女が吐き出す言葉は、結希自身の体にも刺さった。
「じゃあ、また放課後に」
去っていく貴美の後ろ姿は、首御千家の人間らしく凛としており清く正しく美しい。不純物が入る隙間さえない物質で構成されている彼女が見えなくなった途端、今まで軽く黙っていた依檻が口を開いた。
「私も相当だと思っていたけれど、貴美さんも相当よねぇ……? まぁ、どうでもいいけれど」
その声の口調は、この話の終わりを告げている。結希は咄嗟に紫苑を引っ張り、「あっ、こら!」と静止する依檻に「紫苑を案内してきます!」と返して足早に逃げた。
今離れ離れになってしまうと、後になったらなった分だけ苦しくなる。だが、紫苑の隣でその話はしたくなかった。
陰陽師である紫苑は当然自分が何をしたのかを知っている。その光によって生じた闇を、紫苑のような光を信じている人間に知られるわけにはいかなかった。
「おい! ぐぇっ、テメェ! なにすん……」
「センパ〜イ!」
一年生の教室が並ぶ廊下に入った瞬間、いつものように甘えた声を上げる翔太に足止めをされてしまう。まるで、今この瞬間ここに来ることを予知していたかのような速さで抱きついた翔太は結希を羨望の眼差しで見上げ、その隣に視線を移してすぐに嫌悪感を顕にさせた。
「またセンパイに引っつく虫が増えた……!」
なんて小声で愚痴を言いながら、結希が紫苑のフードを離す気配がないのを察して紫苑を無視することを決め込んだ。
「ねぇねぇ、センパイ! 今月の二十九日って空いてます?!」
紫苑に結希を盗られまいとしてベタベタと触ってくる翔太の言っていることがいまいちよくわからない。
「いや……」
……その日は、最初に覚えた愛果の誕生日だ。夜中になれば誕生日会を開くはずだが──
「その日、ボクの誕生日なんです!」
──結希はその意味に気づくまで数秒の時間を要してしまった。
「何言ってんだよテメェ。空いてるわけねぇだろうが」
「はぁ? アンタにはひとっことも聞いてないけど?」
「うるせぇガキだな。おい、なんでこんな奴とも知り合いなんだよ」
「センパイッ! このクッソムカつくガキは誰なんですかぁ! センパイの可愛い後輩ポジなんてボク一人でじゅーぶんでしょう?!」
愛果とまったく同じ顔でそれを訴える小さな翔太は、確かに結希の後輩だ。だが、実年齢は愛果と同い年であり本来であれば先輩に当たる。愛果と同じ日に生まれた彼は、固まった結希の背中を軽く揺さぶり返事を求めるが、結希は開いた口を塞ぐことができなかった。
同じ顔でも、年が違うから他人の空似だと思っていた。
同い年でも、家が違うから他人の空似だと思っていた。
だが、徐々に百妖家の真相に近づいていく今の結希が導き出せる結論はそうじゃない。
相豆院家に生まれた人間が鬼一郎と翔太だけではないことくらい、先月の件でなんとなく理解していたはずなのに。何故か、愛果が彼の双子の片割れであると思った瞬間は初めて会った時だけだった。
初めて会った時の直感を当時の常識で否定して、以降無意識のうちに封じ込めていた真実。その重さに眩暈がして
『そのまんまだよ。翔太クンを私たちに近づけちゃダメ』
そう忠告していた熾夏の意図にようやく気がついた。
『そういうことにしとくよ』
百妖家の人間が人間じゃないからという理由ではない。もっと根本的にある、双子のキョウダイという近しい存在を引き裂かれた愛果と翔太の為だったのだ。
「……せ、センパイ? 大丈夫ですか?」
「ッ!」
視線を下ろすと、今にも泣きそうな表情をする翔太と目が合った。
「えっと、急にこんなこと言われても困りますよね……! ご、ごめんなさい……!」
拒絶したわけではないのにそうされたような表情で。急に離れて一二歩下がる翔太のことを慌てて引き止める。
「違う違うそうじゃない! そうじゃないからとりあえず待て!」
「なんだよてめぇ。こんな奴その辺にポイしておけばいいだろ」
「捨てられる?! ボク捨てられたの?! 正妻のポジションはボクだったのにぃ! こんなパツキン野郎のどこがいいんですかぁ!」
「せっ、正妻?! てめぇふざけんなよ! 誰がこんな……いやそもそも性別的におかしいだろ〜が死にやがれ!」
話が〝せいさい〟という方向に飛んでいるが、結希が言いたいことはそうではない。
「二十九日は夕方までなら空いてる! 空いてるから話を聞け!」
「聞きます〜!」
即座に戻ってきた翔太にタックルされるが、病弱な翔太のそれに力なんて一切なかった。
半妖として強力な力を持って生まれ出た愛果とはあまりにも対照的で、翔太の生命力を吸って生まれ出たと考えてもおかしくはない愛果の生命力の強さを脳裏に思い浮かべる。
「夕方までしか空いてないんですね? じゃあ、夕方にボクの家で誕生日会をやるので是非来てください!」
「あぁ、わかった」
なんとか最後まで話ができた。翔太は破顔したまま両頬を抑え、嬉しさを隠しきれないまま「ありがとうございます〜!」と声を弾けさせる。
生まれてきてくれてありがとう。
そんな言葉を言うのが誕生日会だと思っているが、翔太に、そして愛果にそれを言わなきゃいけないのは誰よりもお互いなのではないだろうか。
馬が合わず、今でも顔を合わせたら喧嘩ばかりしている二人のことを双子だと認識しているのは数少ない人間だけだ。二人の兄に当たる鬼一郎のことはまったく知らないが、彼は二十歳を超えた大人である。大人になり切れていない二十歳そこらの義兄姉や知人のことをたくさん知っているが、鬼一郎はどんな人間で何を思い一体何を背負って生きているのだろう。
いまいち全貌を把握できていない相豆院家に思いを馳せ、結希は暴力団の家に行かなければならない事実に気づいて肝を冷やした。
「あっ、アニキ〜! 大アニキをお誘いできたっすか〜?!」
「下僕〜! できたできた〜! 夕方までなら空いてるって〜!」
「えっ? でもアニキ、誕生日会は深夜からだって……」
「それ以上何か言ったら縊り殺すから」
すぐに黙ったいつものチンピラリーダーは、チンピラリーダーとは言えないほどに翔太の子分キャラに馴染んでいた。
愛果の誕生日会というずらせない用事が原因で翔太の誕生日会をずらすことになるのは申し訳ないが、二人一緒にはできないのだから仕方がない。
「へへっ! でも、お誘いできて良かったっすね!」
「うん! ボクもう今年の誕生日で死んでもいい〜!」
「死ぬな」
「死ねよ」
このやり取りを聞いていると、翔太自身も子分に対する態度が軟化しているように見える。
入院生活が長く、学校にも行けていなかった彼に友達と呼べる存在なんてほとんどいなかったのだろう。そんな彼が踏み出した初めての一歩が好転しているような気がして、結希は友人と呼んでも過言ではなさそうな二人を黙って見守っていた。
「あぁん?! おいテメェ、アニキに向かってふざけたこと…………あっ! まさかテメェ、《グレン隊》の紫苑か?!」
そうして、あまりにも自然に発せられた紫苑の言葉の不適切さに気づく。
紫苑が炎竜神家の分家が束ねていた《グレン隊》の隊員であったこと。そして翔太が相豆院家の若頭的な存在であることをイコールで結べなかった結希は、対立する二家の諍いが生み出す棘の抜き方を知らなかった。
「……だったらなんだよ」
明らかに声のトーンを落とし、紫苑はなくなってしまったかつての組織の名前を言う子分を睨む。
「えっ? 何? アンタも野良犬風情の腰巾着なの……?」
「アニキ! コイツ《グレン隊》の〝ひぞうっこ〟っすよ! 四年くらい前に俺らの元アニキを全員少年院送りにした俺らのタメっす!」
「ふぅ〜……ん。その服、ウチの生徒になるってこと?」
翔太も翔太で声のトーンをだいぶ落とし、若頭に相応しい冷酷な視線で紫苑を見上げる。二人の間にあるものは確実に確執であり、結希はそれを止めようとして自分が何者でもないことに気がついた。
「…………さぁな」
視線を逸らし、結希の義弟に近しい存在である紫苑が呟く。
「…………ふぅん。なら、いいんじゃない?」
興味なさそうに、結希を大アニキ呼びさせている翔太が答えた。
「いいって……いいんすか?!」
「だってもう《グレン隊》ないし。ほとんどが《カラス隊》に転身してるんだから秘蔵っ子とか関係ないし? 下僕の今のアニキは他でもないボクでしょ?」
「いや、そうっすけど!」
「少年院ならすぐに出れるし? 《グレン隊》の唯一の残党をどうこうするほど《風神組》は暇じゃないんだよねぇ」
胡桃色の髪を耳にかけ、翔太は子分を淡々と諌める。一方の紫苑は《グレン隊》の残党呼ばわりされて明らかに機嫌を損ねていたが、結希に宥められて渋々と引き下がった。
「でも、センパイのことを独占するのは腹立つなぁ……? ボクの子分になったら考えてやるけど、どうする?」
「寝言は寝て言え」
「あっそ。じゃ、交渉決裂ってことで……」
何をするのかと思った刹那、翔太は結希に再び抱きつく。
「……センパイ、昼休みはボクたちと一緒に過ごしましょ!」
明らかに猫を被った口調で甘え、紫苑の傍らに立つ結希を紫苑から引き剥がした。
「うわっ?!」
「なんでこんなとこにいるのかは知らないけど、アンタだけは今でも誰かの腰巾着なんだね」
あまり健康的な色をしていない舌を出し、紫苑を挑発した翔太に連れ去らる。振り返ったが、紫苑は結希を見ていなかった。
「おいっ、紫苑!」
俯き、フードを被って表情を隠す紫苑に声をかける。
「放課後になったらそこにいろよ!」
最後の最後になっても念を押し続けたが、紫苑の心がそれを受け止めてくれるのかはわからなかった。
今でも足踏みを続けている紫苑の未来は、翔太のような一歩を踏み出せていなかった。




