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百鬼戦乱舞  作者: 朝日菜
第八章 業火の大罪
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五  『沈殿する偏見』

 逃れようと背を向けて逃れられるものではない。それは、どこにいても纒わりついてくる深い闇夜のようだった。


 知らなければ良かったのかもしれないが、知らなかったら依檻いおりが一人で背負っていたものになる。それはそれで結希ゆうきの良心が一切許さず、再び真綿で絞められたような感覚を味わった。

 熾夏しいかは、すべてを見透かした上で結希に真実を伝えるべきだと判断した。その判断をどう受け止めるべきなのか、結希は熾夏に尋ねなかった。尋ねるべきではないと判断して、依檻の授業を上の空で聞いていた。


「結希」


 顔を上げると、何故か依檻が目の前にいた。出席簿で凝り固まった肩を叩き、不満げな表情で自分のことを見下ろしている。


「えっ」


 授業はついさっき終わったはずなのに、何故自分に声をかけてきたのか。結希は辺りを見回して、誰にも助けてもらえないことを察し椅子を引いた。


「引かないの」


 教師としてではない。義姉あねとして依檻はそう言った。

 結希の机に片手を置き、前のめりになって唇を曲げる。その唇につけられたオレンジ色のリップグロスが妙に光り輝いており、結希は眉間に皺を寄せた。


 依檻が化粧に気合いを入れる日は、大抵〝何か〟がある日だった気がする。


 入学式や、三者面談や、文化祭の時だってそうだった。熾夏のガス抜きをする時も、妙に気合いを入れていたのを思い出す。

 それは多分、自分を鼓舞する為のものだった。


「人の顔じろじろと見て思い詰めた顔をしないの」


 そんな結希の後頭部を出席簿で叩き、依檻はわざとらしくため息をつく。


 昼休み。話し声が多く聞こえてくる時間帯でも依檻のため息ははっきりと聞こえた。

 依檻の声しか結希のガラクタな耳は捉えることができず、ブラウンの双眸から目を逸らせずに唾を飲み込む。


「来てくれる? 話がしたいの」


 そうだろうと思っていた。教室で、姉の教師と弟の生徒が話をする為に席を外す──。そんな様を傍から見たらどう思うだろうかと思い、瞬時に逃げ道を断たれたことを理解した。


「…………」


 渇いた喉を無理矢理潤わせ、結希は恐る恐る立ち上がる。

 現状に痺れを切らした依檻からの反撃があるとは思ってもみなかった。そのいつかがあるとしても、今日だとは一度も思わなかった。


「葬式に行くような人間の顔をしてるわね」


 物思いにふける時のような表情で渇いた笑みを浮かべ、依檻は結希を手招きする。それはお互い様じゃないだろうか。思ったことを素直に口には出さなかったが、何か喋らざるを得ないような沈黙が結希の心臓を深く深く鷲掴んだ。

 廊下に出て、依檻がしばらく先を歩く。時々振り返って結希を見、そこにいることに少しだけ驚いて前を向く。


 多くの生徒とすれ違い、人混みに飲まれても結希は依檻についていった。今離れ離れになってしまうと、後になったらなった分だけ苦しくなる。

 それは、すべての《十八名家じゅうはちめいか》から生まれた十三人義姉妹の現状が嫌というほど物語っていた。


「俎上の鯉みたいね」


「そじょうのこい、ですか?」


「うふふっ、わかってない」


 心から笑って、「あぁ、またやっちゃったわ」と独り言を言う依檻の背中をじっと眺める。何故か違和感を抱いたその背中を穴が開くほどに見つめ、結希は視線を上げてようやく気づいた。


「依檻さん、縮みましたね」


 わざとらしくその単語を使い、結希はいつの間にか追い抜かしていた依檻を見下ろす。ほんの少し前まで見上げていた依檻の目線は、自分の目線よりも低い位置にあることに今ようやく気づいたのだ。


「生意気な言い方ねぇ。弟を持つ姉ならば一度は経験することでしょう?」


 その言い方は、どう考えても依檻が以前からこのことについて気がついていたことを示唆していた。


「あぁでも、経験したのは私だけなのねぇ……? ラッキー、結希のハジメテをもらっちゃった」


 明らかに誤解を生むような言い方をしながら、ゆらゆらと一つに纏められた依檻の長い髪が揺れる。そうして今、依檻のことを今までちゃんと見ていなかったことを自覚した。

 初対面の頃からずっと抱いていた偏見が、今でも心の奥底に沈殿している。その原因を思い返し、結希は初めて依檻を見た。


 去年行われた結希の学年の入学式。春なのに夏物の服を着て、堂々と中庭で酒を飲んで青葉あおばに怒られていた忘れもしないあの日の出来事だ。

 ダメ教師。それが依檻に纏わりつく唯一の肩書きで、依檻が赴任した時からついていた不動のもの。アルコールを好むのは半妖はんようの性質のせいだと知っても、あの日あの時あの場所で飲んでいた理由にはならない。自堕落な教師というレッテルは何一つ間違っていないのに──結希はそのレッテルの下を一度も見ようとしなかった。


 どうして依檻だったんだろう。


 依檻のことについて考えれば考えるほどにそう思う。近づきたくないと思ったダメ教師が担任になって、姉になって、彼女の命を奪って救ったこの世界は今でも変わりなく続いている。

 依檻じゃなかったらもっと簡単な話だったかもしれない。麻露ましろだったら、勇気を振り絞れば尋ねられた。歌七星かなせだったら、二人きりになった時に尋ねることができた。鈴歌れいかも、熾夏も、朱亜しゅあも、和夏わかなも、愛果あいかも。触れようと思えば触れられるような人ではなく、背を背け続けた依檻だったからこそ踏み出せなかった。


「ねぇ。どうしてこんな爆弾発言に限って何も言ってこないのよ」


 いつもの調子を取り戻し、不貞腐れた依檻は腕を組む。十一月に入っても薄着の依檻は出した肩を軽く上げ、気まずそうに窓の外へと視線を移した。


「…………あら?」


 その、なんとも間の抜けた声に結希は返事をするタイミングを見失い、同じく窓の外に視線を移してその意味に気づく。

 中庭でうろうろと徘徊している金髪の少年は、誰がどう見ても紫苑しおんだった。何故か陽陰おういん学園の緋色のズボンを履いており、赤いパーカーまで羽織って悪目立ちをしている。


「ちょっ?!」


 慌てて窓枠に手を置いて、意味もなく歩く紫苑の行き先に見当をつける。


「依檻さん! 話は後で!」


 百妖ひゃくおう家で留守番しているはずの紫苑が何故ここにいるのだろう。鈴歌と朱亜が引き篭もりでなくなった以上、家には今真璃絵まりえしかいない。そんな紫苑を止めることは誰にもできなかった。


「待ちなさい結希! 私にも行く義務はあるわよ!」


 真後ろに貼りつく依檻と共に階段を駆け下りて、すれ違った明日菜あすな風丸かぜまるに驚かれる。だが、結希は立ち止まることもせずに依檻を連れて中庭に飛び出した。


「紫苑!」


 声を上げ、ちょうど渡り廊下に足を踏み入れた紫苑のパーカーを鷲掴む。遅れてきた依檻は胸を腕で支えて息を整え、出席簿で紫苑を小突いた。


「なんだよテメェら。騒がしいな」


「そっちは何をしてるんだよ……!」


 掴んだパーカーを前後に揺さぶり、迷惑そうな顔で結希を眺める紫苑に訴える。紫苑は人の話を聞いているのかいないのか微妙な表情で相槌を打ち、結希は仕方なく手を離した。


「ってそれ俺の制服だろ!」


 視線を落とした瞬間に見えた緋色のズボンの傷みに気づき、すぐに持ち主を割り出した結希は再び紫苑を前後に揺さぶる。


「いや、テメェの部屋にあんのこれだけだったし」


「群青色じゃなかっただけまだマシだけどお前の判断は色々とおかしい……! 何しにここに来たんだよ……!」


「……別に。テメェらが学校がどうとか言うし、どんなモンかと思っただけだ」


 確かに昨日、紫苑と麻露はリビングでそんな話をしていた。だが、それは柊命しゅうめい高校に行くか行かないかの話であって陽陰学園は関係ない。


「……もしかしてお前、転学とか考えてるのか?」


 紫苑は養父の経済的な事情で公立に行ったと叶渚かんなの調査で明らかになったが、百妖家にいて《十八名家》が後ろについている以上それは決して不可能ではない。

 本気で行こうと思えば紫苑はどこにだって進学できるし、亜紅里あぐりの時と同じように阿狐頼あぎつねよりの呪縛から解き放たれた子供たちへの援助を惜しんでいる頭首なんて一人もいない。あの仁壱じんいちでさえ、嫌がっているのは自分の家に絡んでくるだけであって他所で健やかに暮らせるのなら援助を惜しむ気など一切ないのだ。


「そうなの? 紫苑」


「……別に」


 紫苑は明言しなかったが、柊命高校に通う気がないのは明白だった。依檻もそのことを感じ取り、紫苑の肩に軽く手を置く。


「そういうことなら、思う存分見学しなさい。なんなら学園長に頼んで授業体験もさせてあげられるわよ?」


「そこまでは求めてねぇよ」


 紫苑は迷うように視線を落としながらも、依檻の提案にははっきりとした口調で断った。それは、結希と同じように依檻を避けているというわけではなく──単純に、高校に通うことの意味を考えているのだろう。

 叶渚やアリアから聞いたことだが、紫苑は小学校最後の年をほとんど《グレン隊》で過ごしていたらしい。義務教育でさえすっぽかすような紫苑が積極的に学校に通うとは到底思えず、結希は一言だけ「汚すなよ」と釘を刺した。


「なんでだよ。要らねぇだろ?」


「来年着るんだよ。生徒会が終わったら」


「あっそ。じゃあ気ぃつけてやるよ」


「自分の物でも気をつけろよ」


 自分の物ならば一切気をつけないとでも言いそうな紫苑の口調が気になって釘を刺すと、紫苑は気のない返事を繰り返してそっぽを向く。


「放課後校門前にもいろよ?」


 三回連続で釘を刺すと、紫苑は適当に片手を上げて返事をした。


「ところで結希。どうして私のことを避けるのかしら?」


 あまりにも自然に投げつけられたその問いは、依檻が最初に言っていた話の内容だった。結希は視線を移し、依檻を見、詰め寄られて数歩下がる。


「いや、それは……」


 ……言えるわけがない。結希はその問いに対する答えをまだ持ち合わせていなかった。


「あぁ、いた。百妖くん、ちょっと」


 思わず助け舟に縋りつくが、その舟はどう見ても助け舟ではない。結希は恐る恐る距離を取り、青葉の従姉にあたる貴美たかみを見下ろした。


「貴方、何度も言うけれど今回の期末は正念場よ。補習をしてあげるから放課後予定を開けておくように」


「あら。貴美さんがやるなら私もやろうかしら?」


「百妖先生もその話ではなかったの? 青葉先生も時間を開けているそうだから、阿狐さんにも伝えておくように」


 阿狐家の現頭首となった亜紅里は、戸籍を百妖家に置いたまま名字を阿狐に戻した。それは亜紅里自身の意思で、阿狐家の人間として自立する為だという。

 亜紅里が前に進んでいる一方で、隣にいる紫苑はまだどこにも進んでいない。進む方向さえわからないようで、結希は何かのきっかけになれればと紫苑も補習に巻き込んだ。

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