十五 『二匹の野狐』
時刻は午前一時を少し回った頃だった。
日付が変わった深夜に初めて陰陽師の仕事を行う結希は、緊張を消す為に深呼吸を繰り返す。自室からリビングに下りると、百妖姉妹が一斉に結希を見上げた。
「それ、一人で着替えたの?」
姉妹の中でもお喋りな依檻が、口元に手を当てながら尋ねた。
「はい」
「ふぅん。結希って器用だったっけ? 実験はずっと失敗してた気がするけど」
昨年度から化学の授業を受け持つ依檻は、その時のことを思い出しているのかにやにやと笑っている。
「それとこれとは話が別です」
成績の悪さをさりげなく暴露された結希は、不貞腐れながらそう答えた。依檻はくすっと口元に手を当て、結希の反応を楽しみ、この場に熾夏がいないことを残念に思った。
「白院家には事情を報告済だ。向こうが手出しをする前に方をつけるぞ」
「りょうか〜い」
麻露の指示で答えたのは、依檻だけだった。
逸らしていた視線を戻し、今いる姉妹を確認する。麻露と依檻、ソファに座っている鈴歌と朱亜、定位置の椅子に座っている和夏と愛果、そして椿。歌七星と熾夏は仕事で、椿よりも年下の三人は寝ているのだろう。どこにも姿が見えなかった。
「すみません、こんな夜遅くに」
今日がなんでもない一日だったら、夕飯が終わった辺りから巡回し、見つけた妖怪を退治して、日付が変わる前に帰っているのに。今日は、違う。
「仕方ないでしょ。いつもなら人気のない場所で戦うけど、今回はほぼほぼ住宅街。一般人に見られたらアウトなんだしさ」
愛果が金髪を撫でながら答えた。視線は、結希ではなく満月になりきれない欠けた月に向けられている。
「愛果の言う通りだ。化ける私たちを見た人の記憶を消すのも、容易ではないのだからな」
麻露はベランダに足を踏み入れ、深い青目で家族を呼ぶ。結希を先頭に愛果、和夏、鈴歌、朱亜と続いて
「何度も言っただろう、椿。キミはダメだ」
椿がベランダに出ようとした途端、麻露が目を吊り上げた。
「やだ! アタシも行きたい! 連れてってよシロ姉!」
「ダメだ」
驚きと共に振り返ると、椿が顔をくしゃくしゃにさせながら麻露に懇願していた。椿も一緒に行くものだと思っていたから、家の中から椿の肩を引き寄せる依檻に問うような視線を投げかける。
結希の視線に気づいた依檻は、「私と椿ちゃんはお留守番なの」と困ったようにただ笑った。
「どうしてダメなの?! アタシがまだ弱いから?!」
泣き叫ぶ椿に、首を振って否定する。彼女は、誰よりも妹のことを想っている。
「違う。よく考えてみろ、椿。私たち全員が家を空けたら、誰がここを守るんだ。普段もそうだろう?」
うくっと椿が口篭った。そして逡巡し、本当に渋々という風に頷く。顔を上げた椿は落涙しており、柔らかな唇を震わせていた。
「お願い……お願いだから、絶対に帰って来て!」
「当たり前だ」
麻露の呆れが混じった声と共に全員が頷く。頷いた大きさは違えども、心にあるものは皆同じだった。
「行くぞ鈴歌」
黒い髪を風に揺らす。麻露や和夏とは違い完全な黒き一反木綿と化した鈴歌は、少なくとも全長十メートルはあった。そんな鈴歌に、躊躇うことなく朱亜と和夏と麻露が乗り込む。
「結希も乗れ」
麻露に言われて、恐る恐る足を動かした。
「早くしなよ」
愛果に押されて乗り込んだ一反木綿の背中らしき部分は、意外にもしっかりとした感覚があった。上へと飛び立つ際もよろけることなく、離れていく椿と依檻の様子を伺う。
依檻はただ、じっと家族を見つめていた。椿はずっと、大きく手を振って涙を拭っていた。
和夏や愛果が手を振り返す中、先頭の麻露は学園がある方へと視線を向ける。鈴歌の瞳と朱亜の瞳だけが麻露の視線を追っていた。
「愛果さん」
「何?」
一番近くにいた愛果に話しかけると、案の定尖った声が返ってきた。
アルバムの件を根に持っていたりするのだろうか。一瞬だけ懸念する。おっかなびっくり愛果の横顔を伺うと、その表情は微妙に怒っていた。
話しかける相手を間違えた気がするが、ここまで来て「なんでもない」と言うことはできない。そう判断して口を開いた。
「さっき麻露さんが『誰がここを守るんだ』って言ってましたけど、それってどういう意味なんですか?」
聞いてはいけないような気がした。と同時に、知っておかなければならない気もした。
愛果は自分たちが住んでいる家をもう一度見下ろし、一瞬だけ可憐な唇を噛む。
「あれは……。ウチらは妖怪に恨まれてるから、妖怪からの襲撃に備える為に言ったんだよ。この町にある半妖の家は、百妖だけだから」
目を凝らした。意識を集中させると、森の中にぽっかりと建っている百妖家を囲むようにして、巨大な結界が張ってあるのがわかる。
「……半妖も大変なんですね」
結界のことは言わなかった。
言ったとして愛果が知らない事実ならば、彼女のことを結希はもう一度傷つけてしまう。麻露たちに隠しごとをされていたと知った時の愛果の表情を、結希はもう二度と見たくなかった。
「だからさ、さっさと結界を張って帰ろう」
愛果は結希を見つめながら、にっと笑う。その笑みを見せてくれる人だとは思わなかった。心を、許してくれる人だとは思わなかった。
「俺もそう思ってました」
そんな愛果に笑い返す。出逢ってまだ二日の二人は、昨日よりも確実にその距離を縮めていた。
「そ」
素っ気なさの中に喜びを混じえて、愛果は小指を立てた右手を差し出す。
「約束」
不思議そうな結希を小突き、呟くように愛果は言った。
「わかりました」
同じように小指を立て、差し出した結希の右手と愛果の右手が距離を縮める。絡めて、そして、手の大きさの違いにどちらからともなく気づく。
星が瞬いている夜空の下、明かりが消えた住宅街が、箱の中に閉じ込められたちっぽけな世界のように見えた。出入口がたった一つしかない、妖怪に溢れた不浄な世界を結希はその目に焼きつける。
「綺麗ですね」
明かりがなくても月明かりが町を照らす。それがとてもこの町らしくて、結希は思わず口に出した。
「知ってる。ウチらが生まれるずっとずっと前から、この町は綺麗だ」
同意した愛果の表情を盗み見ると、愛果は悲しげな表情でこの町の全貌を見下ろしていた。
「見えてきたぞ」
麻露の呼びかけに身を引き締め、学園の姿を確認する。麻露の言う通り、結希の目には広大な学園が辛うじて見えた。
視力も常人のそれより良く、夜目が効く自分でさえ辛うじて見える程度なのにと麻露を見ると、彼女は既に雪女へと変化していた。
群青色の髪が風に靡き、緋色の瞳が学園を見据えている。目を凝らして結界を確認したが、破られているせいで欠片も見当たらなかった。
和夏も黄緑色のマフラーを揺らし、猫又に変化する。人間の時と変わらない茶髪から猫耳が生え、同色の尻尾が二本も丈の短い着物から覗く。
「妖怪、かなりの数だよ。最低でも二十体はいる」
琥珀色の目を細め、和夏がそう報告した。
「そんなにか?」
力強く頷く和夏。麻露は学園の方角に視線を戻し、思案したことを口に出す。
「まずは私と和夏、朱亜が妖怪を引きつける。鈴歌は上空で待機、愛果は結希についてサポートをしてやれ。異論はないな?」
そう尋ねつつも、麻露は異論を許さない雰囲気を作っていた。そんな雰囲気を作らなくても、誰も麻露の決めたことに異論はない。
朱亜は感慨深い表情で学園を捉え、俯いた。視線を逸らしたかったからではなく、覚悟を持ってのことだった。
その証拠に、青色のツインテールが解かれて一つになる。肩を露出した青色の着物に、銀色のラインが入った帯の役割を果たすリボンが巻きつけられる。
麻露に負けないほどの緋色の瞳で、朱亜は近づく学園を見下ろした。腰まである長い青髪が例に漏れずに風に靡き、和夏と共に麻露からの合図を待つ。
「下りるぞ!」
瞬間、躊躇なく麻露が飛び下りた。その後を猫又の和夏が、なんの妖怪かは未だにわからない朱亜が続いた。
中庭に無傷で下り立った三人は、ぐるりと辺りを見回し警戒を強める。刹那に三人を捉えたのは、校舎に張りついていた垢嘗だった。
唇を噛むが、麻露と和夏の強さを充分に知っているからこそ、結希は信じて前を向く。
「鈴歌さん、学園の中央──校舎の屋上に行ってください!」
一反木綿がぬるりと動き出した。
金属音がして視線を戻すと、和夏の異常に伸びた鉤爪と八咫烏の三本足が火花を散らしながらぶつかりあっていた。
その奥では、日本刀を抜刀した朱亜が麻露の吹雪に守られている。吹雪が消えた瞬間に地面を蹴り、朱亜の全身は飛び出していく。
吹雪で全身を氷漬けにされた妖怪をその刃で切りつけると、妖怪は闇に溶けるように消滅した。
「シロ姉たちは大丈夫。そんなことよりも自分のことを心配したら?」
愛果に耳朶を引っ張られて無理矢理屋上に視線を向けると、そこには灰色にくすんだ野狐が二匹居座っていた。二匹とも、結希と愛果から片時も視線を離さない。
「あの様子だと、戦闘は避けられないみたいですね」
「ね。……野狐は嫌いなんだけど」
真上についた。屋上との距離は、最低でも十二メートルくらいあった。
「…………下りないの?」
「下りれないの! ウチらをシロ姉たちと一緒にしないで!」
顔を真っ赤にさせて怒る愛果を宥めると、ため息をついた鈴歌が下降する。二人が地面に下り立つと、二匹の野狐は腰を上げた。
愛果は眉を潜めつつも、自分の意思で豆狸に変化する。小さな体の豆狸は金色の毛を逆立てて、引く気配を見せない野狐を威嚇した。
「ウチが野狐を引きつける」
「わかりました」
短い言葉だけを残して愛果が四足で駆け出した。
結希は紙切れを取り出して、手のひらに乗せた。
「──馳せ参じたまえ、スザク!」
手のひらから離れた紙切れは結希の式神スザクとなり、桃色のツインテールが風に靡く。
「愛果さんの援護を!」
「承知いたしました!」
小さな手のひらに光を灯し、スザクは日本刀を出現させた。豆狸の愛果はつぶらな瞳を見開いて、斜め後ろを疾走するスザクを見上げた。
「足を引っ張んないでよね!」
「はい!」
瞬時に姿を分身させ、二匹の野狐を取り囲む愛果。その数およそ二十匹。敵意の瞳に愛果を映し、愛果が動く瞬間を見極めようと野狐は二匹とも目を凝らす。
「私もいますよ!」
地面を蹴り、スザクが一匹に切りかかった。そんなスザクに片方の野狐が反応し、身を上げる。
「とりゃあ!」
その隙を見逃さなかった愛果が、約十匹の豆狸と共に体をぶつけた。スザクに飛びかかろうとしていた野狐は転がっていき、もう一匹はスザクの一撃を上手く躱す。
「素早いっ!」
もう一度振る。それでも、当然のように野狐は躱す。
「スザク! 野狐に単調な攻撃はダメだ!」
結希はスザクに向かって叫んだ。
スザクは一度野狐から離れ、問うような視線で結希を見つめた。
「二匹いるのが厄介なのよ!」
結希の近くにいた豆狸が前足で地面を強く叩く。この豆狸が本物の愛果だと察した結希は、距離を詰める二匹の野狐を観察した。
「二人の連携が大事なんです。他にどんな攻撃が?」
「とっておきなら一応ある。スザクが上手くやれるなら二匹とも攻撃できるはずだから、アンタは野狐を誘導して。……できる?」
「勿論」
念を押すように尋ねた愛果に、結希は力強く頷いた。信じてほしい、そう思った。




