四 『彼女への罪』
「依檻、歌七星。それと鈴歌に熾夏に朱亜だけでもいいから聞いてくれ」
妖怪退治や風呂場に行っている間に帰ってきた義姉の五人は、全員ソファに座っていた。麻露に視線を移して手を止めて、聞く姿勢になって言葉を待つ。
麻露はテーブルの一席に座っている紫苑を手で差し、「彼が例の末森紫苑だ」と紹介した。
「はいはい。話には聞いていたわよ〜?」
「よろしくお願いいたします、紫苑くん」
百妖家の甘口カレーに眉を顰めていた居候の紫苑は、そんな挨拶を聞いてびくっと方を震わせる。
「……あ。えっと、はい」
紫苑の隣に座っていた結希は、なんとなく七ヶ月前のあの日を思い出して笑みを零した。
自分も最初はそうだった。だから、紫苑の戸惑いは誰よりも理解できている。
仁壱は不服そうに紫苑を見、「……俺の時と態度が違う気がするんだけど?」と唇を尖らせて一人で愚痴った。「るせぇ!」と牙を向いた紫苑は、テーブルの下で仁壱の足を踏み続けた。
「…………よろしく」
「紫苑クンねぇ。ふんふんはいはい、なるほどなぁ〜」
「……何を視とるんじゃお主は」
熾夏の目に気づかない紫苑を止め、「熾夏さんには気をつけろ」と小声でしっかりと釘を刺す。
「はぁ? なんでだよ」
紫苑は反抗的に結希を睨み、「あの人は千里眼持ちだ」と答えた刹那に口を噤んだ。そして警戒心を高めて熾夏を見上げ、結希の方へと体を傾けた。
「弟クン、余計なコトは言わなくていいの〜」
「麻露さんの忠告をそのまま言っただけですよ〜」
相も変わらず適当に返すと、「あははっ!」と笑った依檻が体をくの字に曲げて腹を抱える。
「結希としいちゃん、もうすっかり仲良しさんね〜! 初対面の頃が嘘のよう! 私とももっと仲良くしてほしいわ〜!」
そんな依檻に、結希は強ばった声色で──
「嫌です」
──そう、答えることしかできなかった。
『──いお姉の寿命を奪った弟クンのことが嫌い』
それを教えてくれた熾夏の言葉が、胸の奥底から消えてくれたことはない。
今でもその言葉を、事実を、どう処理していいかがわからなかった。依檻とどう向き合えばいいのかがわからなかった。
そのせいか、初対面の頃よりも遠い距離にいるような感覚が結希と依檻の間にはあった。
結希が奪った、依檻の寿命の四分の一。そうして終わった百鬼夜行は、結希だけじゃなくて依檻の大切な命を犠牲にして救ったものだ。結希だけが起こした奇跡ではない。
「私にだけは反抗的な態度でもいいって言ったけれど、本当にいつまで経っても反抗的ねぇ〜? まぁいいけれど。弟ってこんなものだしね」
結希が抱えた罪悪感に気づきもしない依檻の表情は、心から不思議がっていた。それが演技だと言うのなら、依檻は世界一の道化師ということになる。
へらへらと笑った依檻の顔は、結希がいつも見ている顔だった。つまり、結希にいつも見せている顔だった。
どうして俺の前で笑えるんですか──疑問に思ったのに聞けるわけもないその言葉は、インターホンの音によって掻き消された。
「あら? 誰かしら」
持っている鍵で家の中に入ってくる家族じゃないとするのなら、こんな夜中にこの家に来るのは涙か紅葉辺りだろう。だが、画面に表示された人物は彼らではなかった。
「あら、麗夜? ……こんな時間になんの用かしら」
「あ、じゃあ開けてきますね」
腰を浮かせ、真っ先に一階へと下りた結希が玄関の扉を開ける。すると、麗夜の背中に泥酔した和夏が背負われているのが見えた。
「和夏さん?! ちょっ、どうしたんですか……!」
「大学のゼミで飲み会があったんだ。こいつ、自分の飲酒量を把握していなかったのか飲み過ぎたみたいで潰れてな」
「えぇっ?! この人誕生日来たの昨日なんですよ?!」
目を見開き、昨日──十月三十一日に二十歳の誕生日を迎えた和夏を見下ろす。耳まで真っ赤にさせた和夏は、麗夜の体にしがみついたまま酔い潰れていた。
「と、とりあえず中に入ります?」
「……あぁ、頼む。水を二杯くらい貰いたい」
疲弊した麗夜を中に入れ、麗夜に背負われたままの和夏を下から眺める。
二十歳になったばかりの和夏だったが、二十歳になったからと言って何かが特別変わるわけでもなく──二人の後を追いかけて、結希は明るいリビングに戻った。
「どうした和夏、何があったんだ!」
「酔い潰れたんです。……すみません、俺がついていながらこんなことになってしまって」
慌てた麻露の手に和夏が渡り、麗夜は椅子に腰をかける。そして隣を見、紫苑と目を合わせて仰け反った。
「うわっ?!」
「あ? んだよテメェ」
「し、紫苑……今日からだったのか」
戸惑いつつも納得した様子で結希が差し出す水を飲み、麗夜は深いため息をつく。飲み会場所からここまで運んできたのだから、麗夜の疲労は尋常じゃないだろう。
「…………麗夜?」
そこで麗夜の正体に気づいた様子の紫苑だったが、特に何も言葉を続けずにカレーを頬張った。
紫苑の隣に座り直した結希もカレーの残りを口内に入れ、麗夜に出したついでに出した水のペットボトルを中央に置く。それに真っ先に手を伸ばしたのは、仁壱だった。
「かっら! なんなんだこのカレーは! 激辛じゃないか!」
「はぁっ?! こんなんクソ甘じゃねぇか! 辛くねぇよバカ舌!」
「はうあっ?! ば、バカ舌はそっちだろう! 見えないのかこの汗が! 汗が!」
「ここのカレーは甘口って聞きましたけど?」
どうしても馬が合わず、度々口論になる二人の喧嘩を仲裁したのは麗夜だった。
そんなに深刻に捉えずにカレーを食べ続ける結希は甘口だと思っているが、月夜と幸茶羽に合わせているのだから文句はない。というか甘口の方が助かる。
「ところで、出した課題はもう終わったのか?」
「えっ」
何もないと思っていたが、思わぬところから投げられた言葉は結希の手を簡単に止めた。
「か、課題ですか……?」
「中学三年生の科学の部分を出したはずだが?」
「ちょちょちょちょちょっ〜……とだけやりました」
「なんだよテメェ。科学なんて覚えなくてもいいだろ」
思い切り視線を逸らし、紫苑に突っ込まれて話の矛先がすぐに変わる。
「なんだ紫苑。お前も勉強を軽んじるのか」
「実際なんの役にも立たねぇじゃねぇか」
「そんなことはない。できることが増えれば選択肢も増える。お前も百妖家に居候するのなら学力は絶対に身につけておけ」
「え」
「ちょうど大学で完成させたばかりなんだ。コピーして使ってくれ」
「え?」
「えっ、また課題ですか?! 今あるのだって先週できたばっ……」
「頼んできたのはそっちだろう? ペースはお前たちに合わせるが、俺にだって課題を作れる週と作れない週がある」
確かにそうだ。結希は口を閉ざして誤魔化すのを止め、大人しく麗夜からの課題を受け取る。
「ありがとうございます」
受け取ったプリントの枚数は二十枚程度だったが、全部問題用紙だった。今与えられている課題は図を使ってわかりやすく説明したもので、この問題用紙と対になっているのだろう。それは非常にありがたい。
「……まったく。何を飲んだらこんなに酔うんだ」
自分も酒に強くないくせに呆れ果てている麻露に麗夜が説明をする傍ら、結希の手に渡った問題用紙を紫苑も眺める。
「……なんだこれ」
そして絶望的な声を上げた。
「ふんっ。そんなこともできないようじゃ居候なんて認めないよ」
「うるせえよタコ。結希、てめぇ今持ってる課題全部貸せ。百点満点とってやるよ」
妙に紫苑がやる気になると、自分自身のやる気にも繋がる。
「貸さねぇよ。コピーな」
答え、亜紅里の分もコピーするべく結希は立ち上がった。
「結希くん? それは何かしら」
わざとらしく「くん」付けで呼び、にこにこ笑顔の依檻が結希の目の前に立ち塞がる。立ち止まり、しばらく思考を停止させて結希は悟った。
「あっ、なんでもないです」
「なんでもなくはないわよね? 明らかにそれプリントよね?」
「違います」
「違くないわね」
依檻に麗夜との関係を知られたら面倒だ。そう思って否定するが、この行為ほど無意味なものはない。
後ずさり、距離を詰められ、後ずさり、距離を詰められ、結希は札を貼る準備をする。
「…………」
そんな様子を依檻は無言で眺めていた。
「結希」
「なんですか」
「そんなに私に教わるのが嫌なの?」
言葉自体は胸に突き刺さるようなものだったが、肩紐を外して肩を丸出しにする依檻が真面目にそう言っているとは思えない。
真面目な雰囲気を与えないようにしているだけなのかもしれないが、それをしようと彼女が思っている限り、結希はまだ依檻に甘えることができていた。
「そういうところが嫌なんです」
視線を逸らし、亜紅里の気持ちも代弁するつもりで言葉を吐く。依檻はへらりとわかったような顔をして、「えぇそうね」と相槌を打った。
「依檻さん、愛果の方は大丈夫なんですか?」
思い出したように問う麗夜に、「大丈夫じゃないわよ〜」と返す依檻の意識はもうここにははい。
結希はリビングに置かれたコピー機のところまでゆっくりと歩き、コピーをとって紫苑に渡した。
「うぅひゅ〜、れ〜!」
「『れー』? ……それは俺のことか?」
ソファに寝そべる和夏に呼ばれて向かう麗夜は忙しなく動いている。仁壱は無言で麗夜を目で追い、水をガブ飲みして鬱憤を晴らした。
「なんとかなるだろ」
その意味を察していた結希は、仁壱に声をかけて紫苑に同意を求める。紫苑は鬱陶しそうに結希を見たが、「まぁ、大体のことはそうだよな」と肯定して腕を組んだ。
「ふん。君たちの勉強は『なんとかなる』ようなものじゃないけどね」
「うるせえ! それ以上言うなら手伝わねーぞ!」
「頼んでないよ部外者の君には」
「頼めよクソ!」
初めて会った時、紫苑と一番馬が合わないのは自分だと思っていた。だが、今では紫苑と上手くやっているような気がして微笑む。
「すっかり馴染んでるんですね、紫苑」
「仁壱だけに見えるけどな」
「れ〜! なんでふたりいるの〜? ふたごだったの〜?」
お酒って苦そうだよねなんてかつて言っていた和夏だったが、その日を超えるとどうなるかわからない。テーブルに置いた水を和夏にも渡すと──
「ゆ〜! これおさけぇ?」
──なんて言ってケラケラと笑った和夏に絡まれてしまった。
「水です」
「あららぁ。ここまで来ると明日が大変になっちゃうわねぇ」
「二日酔いですか?」
「二日酔いじゃなぁ。今のうちから嘔吐用の桶でも用意しておくかの」
「…………ワカナ、変わった」
「まぁまぁ。わかちゃんは元々野性味溢れるネコちゃんなんだし、こんなモンでしょ」
和夏の跳ねた髪を撫で、熾夏が笑う。結希は隣に依檻が来たことを横目で見て、すぐに彼女の傍から離れた。
離れて、自分が背負ってしまった依檻への罪から逃れたかった。




