三 『カレーの味は家族の愛』
「でっ、か……」
百妖家の風呂場に初めて足を踏み入れた紫苑は、それの広さに度肝を抜かれる。結希は「わかる」と相槌を打ち、真後ろの仁壱は「これでもだいぶ狭い方だよ」と深いため息を一人でついた。
「うるせぇよ坊っちゃん。風呂に沈めっぞ」
「はうあっ?! な、なんでここに住みつく野郎どもは揃いも揃って野蛮なんだ! 父様に言いつけてやる!」
「……言いつけて何になるんだよ」
「二十歳なら親離れしとけカス」
結希は、朝日と仁の契約によってこの家にきた。紫苑は結希に呼ばれたようなものだが、背後にはすべての《十八名家》がついている。それは頭首になった仁壱がよく知っているはずだったが、未だに旧頭首の存在が絶対なのか仁壱は父親離れできていなかった。
「はうあっ?! このくそっ、ここまでコケにされたのは生まれて初めてだ!」
「温室育ちの坊っちゃんはヤワすぎなんだよ」
「現頭首なんだからもっとしっかりしてくれよ」
「はうあっ?! そ、そんなことは言われなくてもわかってるよ!」
三台もあるシャワーの前にそれぞれ置かれた風呂椅子に座り、体についた汚れを落とす。半妖姉妹の体に汚れは滅多につかないが、そのままの姿で走り回った三人は違った。違うのは、三人だけだった。
シャワーの音だけが風呂場に響き、無言の時間がしばらく流れる。その音に紛れて、仁壱が小さな声で呟いた。
「……一応言っておくけれど、俺は紫苑の居候なんて認めてないんだからね」
真ん中に座っていた結希も、地獄耳の紫苑も、聞き逃すはずのない言葉。それは決して流れることなく、排水溝の詰まりのように耳に残る。
「そもそも、結希や亜紅里の時だって俺は反対してたんだ。……これ以上、余計な責任は負いたくないんだよ」
今までは仁が負っていたもの。それが今、結希とたったの四歳しか離れていない仁壱の肩に重く深くのしかかっている。
唇を結び、重さに耐えられなくなって項垂れた仁壱を結希は横目で見つめていた。
二十歳を過ぎたら、大人になれると思っていた。生きていたら同い年だったはずの千羽は充分大人に見えたが、同じく同い年となる和穂はそうは見えなくて。
同じ二十歳でも同じ人間ではないと再認識し、結希はシャワーを止めてゆっくりと口を開いた。
「その時はまだ頭首じゃなかったんだから、仕方ないだろ。紫苑のことなら俺も責任を取る」
「おい。何もう俺がやらかしたみたいなトーンで喋ってんだよ。まだ何もやってねぇよクソ」
視線は紫苑に向けていた。その意図を汲み取った紫苑は即座に突っ込み、ジト目で年上二人に抗議をしてシャワーを止める。
「……それでも、俺は何も認めてないよ」
仁壱が流すシャワーの音だけが風呂場に響いていた。その中で発せられた息苦しそうな声に結希と紫苑は気づいていた。
頭では理解していても、急に負わされた莫大な責任を伴う環境に仁壱はまだ順応していない。身長は結希や紫苑と大差ないが、仁壱の背中は三人の中の誰よりも小さかった。
「……一個下の麗夜さんは周りに助けられてるし、仁壱は麗夜さんと違って一人ってわけじゃないだろ」
麗夜には、アイラ以外の家族がいない。骸路成家にさえ関わっていない彼女が麗夜を支えられるわけもなく、麗夜を今日まで支えていたのはすべての《十八名家》の頭首なのだ。
だが、仁壱には一応〝家族〟がいる。戸籍上だが、一応〝家族〟だ。
「仁壱が困っていたら、俺や他の姉さんたちが助けてやるし。一応、戸籍上の、家族なんだから、助けない理由なんてどこにもないだろ」
仁壱が姉妹に対して苦手意識を抱いていることも、百妖家を解体させたがっていることも、知らぬ間に父親の再婚相手の息子としてこの家にやってきた自分のことをよく思っていないことも知っている。
ただ、クソみたいにどうでもいいことを長々と喋ってくるのは戸籍上の弟であるからだろう。初めての同性で、年下だからこそなんの遠慮もなくストレスの捌け口として使われているのだ。
そのことを充分に理解していた結希だから、〝一応〟と、〝戸籍上〟と、〝家族〟を区切って強調させた。
「君たちに助けられるのは……屈辱だね」
「使えるものは使ってもいいと思うけど」
仁壱の性格をなんとなく理解していた結希は、百妖家の現頭首となった仁壱に潰れてほしくなくて手を伸ばす。その手を仁壱が掴まなくても、掴めなくても、潰れられたら麻露が築いてきた楽園はどの道瓦解してしまう。
結希はそれを避けたかった。だから、仁壱の傍から離れようとは思わなかった。どんなに自分たちを傷つける刃を内包していたとしても、仁壱の立場を考慮すれば多少は理解を示すことができる。だから、完全に嫌いにはなれなかった。
「……わかったよ」
最後のシャワーの音が止まる。ほんの少しだけ高くなった声が風呂場に響いて、見ると仁壱は髪を絞って表情を隠していた。
「使えるのなら、君の姉さんとやらを死ぬまでこき使ってやる」
肩まで伸びている髪を無造作に垂らしたまま、浴場から一番遠い位置にいる仁壱が湯船に沈む。その後を追いかけた結希と紫苑は、なんとなく等間隔に腰を下ろして仁壱の心境の変化を感じた。
「ただ、妖怪を退治してくれていることには感謝する。……君たち二人だけだけどね」
そんな残滓がまだあるにも関わらず、仁壱の選ぶ言葉は尽きる気配を感じさせない。
結希は自分たちと姉妹たちの間にあるあからさまな差に疑問を抱き、思わず眉間に皺を寄せた。
「姉さんたちは?」
半妖のことをよく思っていないのは知っている。だが、仁壱の中にいる結希と紫苑、そして半妖姉妹との間にはどうしようもなく深い溝が存在していた。
「アレは生まれてきちゃいけなかった半妖の末裔だ。妖怪を退治して我らに貢献するのは当然だろう?」
すべての半妖を監視する為に作られた一族の末裔──仁壱は、自分の運命を縛った半妖のことを快く思っていない。作られたという言葉の意味はわからなかったが、半妖がいなければという考え方が幼少期から続く仁壱の心の声だった。
「それ、あの人たちの前でも言えるのかよ」
半妖ではなく、ただの人間としてあの姉妹と出逢えた結希は再び眉間に皺を寄せる。仁壱は、そんな結希にこう答えた。
「でも、誰よりも〝力〟を持っている。それは──世界を簡単に滅ぼせる力なんだよ」
そんなものを生まれながらにして持ってしまった、十四姉妹とヒナギクと火影。そして、まだ誰にも知られていない千里という式神の半妖。
彼女たちにそんな〝力〟があることはなんとなく感じていたことだったが、言葉にされて初めてその現実に直面した。
「〝力〟を持ってしまった奴が、〝力〟を使うのは当然だろーが」
両手で湯船の中のお湯を掬い、零れないように隙間を埋める。そんな紫苑の〝力〟に対する考え方は、愚連隊の中にいたが故のものに聞こえた。
*
風呂上がりの二人を連れ、結希はリビングではなく三階に通す。五部屋の中から真ん中にある部屋を選び、結希はその扉を遠慮なく開けた。その部屋だけが、唯一勝手に開けていい義姉の部屋だった。
中に入り、足を止めていた二人を呼ぶ。どこに向かうのかと今の今まで理解していなかった二人は、医療機器に繋がれた真璃絵という存在を認識して動揺していた。
三階にある真ん中の部屋は、古くから真璃絵だけの部屋だった。六年の間ずっともぬけの殻だったが、使用されるようになったのはつい最近だ。
帰ってきた彼女が簡単に意識を取り戻すはずもなく、やれることもほとんどなく、時折車椅子に乗せて外出することしかしてやれない。できることは、十五人ですべてやり尽くした。
「紫苑、この人が三女の真璃絵さんだ」
今家にいる姉妹の中で、唯一紹介していない彼女のことを紹介する。紫苑は言葉にならない声を漏らして頷き、恐る恐る入室した。
「六年前の百鬼夜行で、死にかけていた真璃絵さんを俺がこの状態にしたらしい」
「てめぇが……!? てめぇは百鬼夜行を止めたんだろ、この女を救えるほどの力なんて残ってるわけねぇだろうが……!」
「どっちも俺がやったらしい」
「…………」
紫苑は結希に視線を移していた。その視線には戸惑いと驚愕が秘められており、紫苑は真璃絵に視線を落とす。
「生まれてきちゃいけない半妖の末裔だとしても、死んでいい理由にはならないと思う」
それが結希の答えだった。どんなに強力な力を持っている半妖でも、不死身である本物のバケモノなんかは存在しない。当たり前のように、みんなが平等に命を落とす。
だから、彼女たちだけにすべてを背負わせるわけにはいかなかった。
「……けど、これが真璃絵さんにとっての幸せなのかはわからない」
「……テメェにも、わかんねぇことがあるんだな」
意外そうに言葉を漏らした紫苑は、わずかに安堵する。そして顔を上げ、未だに部屋の中に入ってこない仁壱を見据えた。
「テメェの〝今の家族〟のことはこれっぽっちも知らねぇけど、アリアとアイラは、誰よりも生きようと藻掻いていたぜ」
《グレン隊》に所属していた紫苑だからこそ、五人いる人工半妖のうちの二人のことを知っている。
結希は紫苑の横顔に刻み込まれた覚悟を見、それを噛み締めて二人を想う紫苑の優しさを掬い上げた。
「テメェみたいな奴らに認めてもらう為に、命をかけて戦っていた」
あのアリアが、誰かに認めてほしくて命をかけて戦う様を。あのアイラが、誰かに認めてほしくて命をかけて戦う様を。結希は、まったくと言っていいほど想像なんてできなかった。
想像さえできないものを、紫苑はかつてその目に焼きつけていた。
「この世界は、歪だね」
仁壱は、視線を伏せて二人に答える。
「真璃絵はまだ目を覚ましていない。だから、この家を解体して元の家に帰してあげても──すべてが無意味ということだね」
歪に捻じ曲がったこの世界で、誰もが必死になって生きている。真璃絵もまだ、生きようとして藻掻いている。
「……戻ろう。そろそろ誰かが帰ってくる頃だろう?」
微笑した仁壱は、心から笑っているように見えた。すぐに部屋を出る紫苑の後を追い、結希は二階へと下りていく仁壱と紫苑の背中を眺める。
まだ、藻掻いている道の途中だ。
変わりゆく二人の背中の大きさを見つめながら、そう思う。リビングの扉を開けた仁壱は、そこに集まっていた戸籍上の家族を視界に入れて生まれて初めて優しい表情を結希に見せた。
「来てたの、仁壱」
「何しに来たのですか?」
依檻も、歌七星も、出している雰囲気は刺々しくない。仁壱はそのことに驚きつつも、紫苑を巻き込んだ麻露にカレーを出されて大人しく座った。




