十九 『そんな未来を』
妖目総合病院の売店付近を歩いていると、休憩所にいる熾夏が視界に入った。声をかけようと思って傍に行くと、傍らにいた明彦と冬乃が熾夏よりも先に結希に気づく。
「あらぁ! 結希ちゃん!」
「結希くん」
どちらも微笑み、明彦は片手を上げて冬乃は軽く腰を上げた。
「……明彦さん、小白鳥先生。お久しぶりです」
軽く頭を下げ、視界に入った淡い青色の入院服の裾を落ち着かない様子で握り締める。
「やだもぅ! アキちゃん〜とかお姉ちゃん〜って呼んでほしいのにぃ〜! 相変わらず反抗期なんだからぁ!」
「明彦先生? 身内じゃないんだから……。でも、私だけ未だに小白鳥先生っていうのは……ちょっとだけ寂しいかなぁ」
《十八名家》の現頭首となってしまった明彦と冬乃は、玉座に君臨しても結希に対する態度はまったくと言っていいほど変えなかった。
「アキさんと冬乃さん、でいいなら呼びますけど」
そんな不変の優しさを噛み締めて、顔を上げて、最大限の譲歩をする。すると、本当にそれでいいらしく二人は手を取り合って喜んだ。
そんな二人の間に座っていて、振り向いて、結希のことを正面から見上げたのは──今一番会いたかった熾夏だった。
「……なんで昨日の今日で仕事をしてるんですか」
「なんでもなにも、昨日で有給は終わったからねぇ」
「疲れたりしてないんですか?」
「それはみんなも同じでしょ? ていうか、点滴スタンドを持って歩き回っている君に言われたくないんだけどなぁ」
呆れたような視線を結希だけに向ける熾夏は、持っていた牛乳パックを口元に傾けて一気に飲み干す。
「結希ちゃんってとっても元気ねぇ。あぁん、若いわねぇ……! 若いってイイわねぇ……!」
「明彦先生? 明彦先生も、じゅーぶんに若いからね?」
息が乱れた明彦と、若さに反応した冬乃のことを背景にして、結希はストローを咥える熾夏だけにすべての意識を向ける。
「──でも、家族が無事で本当に良かったよ」
その言葉だけが、聞きたかった。
今朝方目が覚めた時、結希の傍にいたのは例のママとポチ子だけだった。陰陽師の力で保護者代わりの亜紅里を探すと、亜紅里は薄情にも学校に行っており──タマ太郎のように帰る場所もないママとポチ子は、亜紅里に言われて大人しくここで待っていたらしい。
『陰陽師が来たらどうするつもりだったんだよ』
と結希が問えば──
『オマエヲヒトジチニスルダケサ』
──ママはそう答えて丸まった。
タマ太郎と同じく、黄昏時ではないからか掌サイズまで小さくなったママ。そんなママの傍らには、親指ほどのサイズまで小さくなったポチ子が寄り添っている。
『キュー!』
ポチ子は、毛玉の中から覗くぱっちりと開いた瞳を結希だけに向けていた。
タマ太郎やママと目が合うように、ポチ子とも結希は目が合ってしまう。
ここにいる。生きている。
誰よりも幼く見えるポチ子の前に指を出すと、ベットの上に乗っていたポチ子はすぐに体を擦り寄せてきた。
『……あの後、どうなったんだ?』
『シラヌ』
『ママは亜紅里に会いに来たのか?』
『ヨハアグリノ〝カアサン〟ダ。トラレタモノヲ、トリカエシタダケダ』
他者への愛を持っている、タマ太郎とまったく同じ二匹の妖怪。
妖怪に違いなんてない。いつだってそう思っていたかった。──だが、タマ太郎を含む呪で縛られた妖怪は違う。
妖怪のことについて詳しく知っている人間なんて、この世にはどこにもいないのではないだろうか。結希は生唾を飲み込んで、綿之瀬家として妖怪の研究を進める風にこの事実を送信した。
ママとポチ子の話だけでは、あの後全員がどうなったのかまではわからなかった。
「《カラス隊》も無事だったんですか?」
「さぁ? あそこにはチートヒーラーがいるから詳しくは知らないんだけど、私が見る限りではみーんな無傷だったけどね」
「そう考えると、アリアさんって本当に凄い人なんですね…………あ」
アリアのことを思い浮かべて、彼女と同じ能力を持つ月夜と幸茶羽を思い出す。
「月夜ちゃんと幸茶羽ちゃん、あの後どうなりました?」
「弟クンはさっきからずっと質問ばっかりだねぇ。ん〜……月ちゃんとささちゃん、結構ショックだったみたいだよ? けど、あんまり表には出さないように必死になって閉じ込めちゃってる感じかなぁ」
「らしくないですね。幸茶羽ちゃんはともかく、月夜ちゃんは隠し事とかできなさそうですけど」
「実はそうでもないんだよねぇ。月ちゃん、あぁ見えて隠し事は全然下手くそぴっぴじゃないんだよ?」
双子は、結希が気づかなかっただけで熾夏には隠し事ができないらしい。いや、この世界に生まれた者は皆、熾夏に隠し事なんかできない。
「まぁ、あんまり気にかけなくてもいいんじゃない? 私たちが通った道を、あの子たちも進むだけなんだからさ」
万物を視ることができる熾夏は、双子を憐れむことなく淡々と語っていた。結希は頷き、僅かに視線を落とした。
多分、愛果よりも上の義姉は全員百鬼夜行をその目で見ている。例外として心春もあの地獄を見ているが、月夜と幸茶羽はそうではない。
本当の地獄を見ていないから、〝今〟がその地獄に見えてしまっている。
だが、その道は結希を含む義姉全員が通ってきた道だ。だから通らないという選択肢はない。通って当然という道でしかない。
迫り来る百鬼夜行よりも前に能力を発動させないといけない点では、月夜と幸茶羽は確実に憐れだ。それでも、「みんなが通った道だから」と言って双子を当然のように地獄に落とすのは違うような気がした。
「…………」
「…………」
結希の表情を見て察したのか、明彦と冬乃は黙ったまま互いに顔を見合わせる。
昨日が吉日だと知っていた。それでも、いつも通りの日常を過ごしていた。
駅前の爆発音が妖目総合病院まで聞こえてきて、赤くなったあの世界を見て、命を懸けて戦っているのだと実感した。どこか他人事のように感じていた〝死〟と〝戦争〟が、すぐ傍にあるような気がした。
すべての町民が生まれ、ほとんどの町民が死ぬこの病院にいてもなお他人事のように感じていたそれが真綿のように自分たちの首を絞めていた。
「勝ったんだよ、私たち」
誰が最初に視線を上げたのか、誰もわからなかった。それでも皆、熾夏を見ていた。
「勝者は勝者らしくしてなって」
戦って勝ったのは熾夏たちだと言いたかった。だが、それを言わせない満面の笑みを熾夏は心から浮かべていた。
「熾夏ちゃ〜ん!」
ぎゅむっと、明彦が熾夏のことを抱き締める。頬と頬がくっついて、本来ならば従兄妹同士である血が繋がった二人のことを冬乃は瞳を潤ませながら眺めていた。
「アナタ、すっごくいい子ねぇ〜! 肺の色はちょっとだけ汚いけれど、お姉ちゃんアナタのこと大好きよぉ〜!」
「明彦?! ちょっ、くーるーしーいー! 嫌いになりそう!」
「ふふっ。仲良しね、二人とも」
「全っ然仲良しじゃないんだけど?! 目ぇ腐ってるんじゃないの冬乃先生! 明彦と仲良くするくらいなら弟クンと仲良くなりた〜い!」
「それもそうねぇ。よし、結希ちゃん! ハグしてあげるわぁ〜! こっちにいらっしゃ〜い!」
「はっ?! ちょっ、行きませんから!」
「こっちに来てもいいよ? 結希くん。明彦先生よりも私の方がつき合い長いし、六年前はずっとよしよししてあげてたもんね」
「こし……冬乃さん! なんで急に距離感縮めてくるんですか!? あとアキさんも! 俺別に貴方たちの弟じゃないんですけど!?」
「あららぁ? アタシはずっと弟だと思っていたわよぉ? 人類皆家族。特にアタシたちは、〝みーんな〟運命共同体なんだからぁ」
「弟っていうか……。さすがに六年も診続けていると情が移っちゃうんだよね。みんな結希くんのことすっごく可愛がってるし、私の方が先に出逢ってたんだよって妬けちゃう時もあるくらいなんだから」
明彦は結希に手を伸ばした。
冬乃は照れくさそうに笑っていた。
仕方なく一歩だけ近づくと、それを了承だと捉えたのか明彦が立ち上がってわざわざきつく抱き締めてきた。
姿は長身のモデルのような美しい芸術品なのに、抱き締められて改めて彼が男性なのだと思い知らせる。
「ちょっと明彦! うちの弟クンにセクハラしないでよ!」
「嫌よぉ。それに、結希ちゃんが〝熾夏ちゃんのオトウト〟ならば〝アタシの従弟〟にもなるんだから。それを言ったって無駄の無駄よぉ〜?」
無茶苦茶な理論を並べて結希の肩を組む明彦は、動作も匂いも女性そのものだった。多分、知り合いの中で上位に入るほど不可解な思考回路を持っている不思議な青年は従妹に対してぷりぷりと怒ったフリをしている。
「も〜! うちの弟クンはまだ絶不調なんだから散って! しっしっ!」
そんな風に感情を表に出す熾夏を、結希は今まで見たことがなかった。
隣で笑っている冬乃に対して、「精神科のおばちゃん」と言い放ったこともあった。
ここでは、家にいると絶対に見れない熾夏が見れる。同僚と話している時の熾夏は、家族と話している時の熾夏とは別の側面の熾夏が見れる。
そう思ったら笑みが零れた。家族の新しい一面が見れるのは、半年前よりも今の方が明らかに楽しい。
「ふふっ」
耐え切れなくなった冬乃が笑った。
「結希くん、四か月前と比べて随分と変わったね」
そんなことを、四か月前にも言われたような気がして結希は笑みで冬乃に応えた。
「表情が全然違う。眩しいよ」
眩しいと、精神科の元主治医に言われるほど幸福な言葉は多分ない。
『そんなに難しそうな顔をしないの。今傍にいてくれる人を無理に増やす必要はないんだから。今傍にいる人、一人一人を大事にしてあげて』
熾夏によって無理矢理引き剥がされた明彦は、「ちぇー」とわざとらしく唇を尖らせた。そんなおちゃらけたところが熾夏に似ていて、冬乃の笑顔は心春に似ていた。
「今が一番楽しいですから」
あの頃よりも、確実に傍にいる人は増えた。今腕に引っついている熾夏に言った、〝出逢えて良かった人たち〟を一人一人思い浮かべる。
《十八名家》だけじゃない。《カラス隊》や、千里や、紫苑でさえ出逢えて良かった。最近時々耳にする、愁晴に出逢ってみたかった。
ずっと避けていた〝出逢い〟がこんなにも眩しいものだなんて、結希は一度も思わなかった。だから、手放しちゃダメだよと言ったあの日の冬乃の言葉にも応える。
「熾夏さん、あの後紫苑はどうなったんですか?」
全員の無事を把握して、勝ったという結果を聞いて、あの後駅に残った紫苑のことを結希は誰からも聞いていない。
どうせまた逃げられたんだろう。紫苑はそういう少年だ。だが、どういう経緯で逃げたのかきちんと把握しなければ──
「捕まえたよ」
──その答えは、最初から結希の頭にはなかった。
「……え?」
それは正しいことなのに、そんな未来を一度も思い描かなかった。




