十八 『かあさん』
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
構えていた手で九字を切り、奴らの消滅を見届けた結希は走ってトンネルから距離を取る。
「結希!」
そうして、真下から高架橋へと飛び上がったヤクモとナナギ──そんな二人に抱えられた末森と本庄と合流した。
「急いで結界を補強しますよ!」
「今回は俺たちも共にやろう!」
隣に並んだ二人の存在は心強く、再び溢れ出す妖怪を迎え撃つ為に正面に並んだ三人の式神は頼もしい。
「オウリュウさん、お久しぶりでありんすなぁ」
「オウリュウ殿……。助太刀、感謝申し上げる」
「……誰だっけ?」
とてつもなく失礼なことを言い放ったオウリュウは、再び大太刀を抜刀して構えを取った。小さき体に不釣り合いな刀の切っ先を地獄のような赤さに染まった空へと傾け、小さき彼は高らかな宣戦布告をする。そんな姿に共鳴したヤクモとナナギは、互いの聖域を極限まで縮めて肩を並べ合った。
薙刀のヤクモ。太刀のナナギ。そんな二人は先陣を切った大太刀のオウリュウに追従して戦闘を始める。
結希は息を止め、並んだ末森と本庄と共に九尾の妖狐を目視した。
体を隙間に捩じ込んで、中へと入ろうと躍起になる妖狐。何故そこまで必死になっているのかはわからないが、構えを取った末森と本庄の声に結希は続いた。
「青龍・白虎・朱雀・玄武・空陳・南斗・北斗・三台・玉女……!」
一言一言言葉を紡ぎ、暴れ狂う妖狐から一度も目を逸らさずに迎撃できる機会を伺う。だが、時間が経てば経つほどに肌を刺す〝違和感〟に結希は気がついて口を閉ざした。
──何かが違う。あの妖狐は、何かが他の妖狐と異なっている。
他の妖怪との決定的な違いがわからず、首を痛めるほどに見上げ続けた。それでも、結界の力が強まる度に苦しみ藻掻く妖狐の異質さは何一つわからなかった。
できることなら、そのまま潰れてくれればいい。一瞬だけそう思ったが、脳裏を過ぎったとある妖怪を思って結希の胸は変に痛んだ。
『ユウキ、ユウキ』
名前を呼ばれて視線を落とすと、何故か目の前にタマ太郎がいた。思い浮かべていたタマ太郎の幻覚かと思ったが、発する瘴気は本物で。
「タマ太郎?!」
思わず叫び、末森と本庄が動揺する声もその耳でしかと受け止めた。
「へぇっ?! かっ、火車?!」
「何故ここまで来れたんだ?!」
あまりにも赤すぎる黄昏時だからだろうか。初めて出逢った時よりも巨体となったタマ太郎は、ゆっさゆっさと体を揺らして結希に甘えた声を上げる。
「たっ、タマ太郎は大丈夫です! 他の火車とは違うんで絶対に九字は切らないでください! おい、タマ太郎! お前なんで……」
他の火車とは違う火車。タマ太郎が他の火車と違うのは、名前という呪で結希がしっかりと縛っているからだ。
「……まさか」
そうして、結希は意地だけで中に侵入してきた妖狐に視線を移した。
タマ太郎と同じように、霞んだ場所などどこにもない完璧な実体を持ったボロボロの妖狐。巨大で、九尾で、銀色の毛並みという重大すぎる点だけを除けばただの狐と大差ない妖狐。
『──アグリ』
そんな妖狐が発した言葉は、聞き捨てならない言葉だった。
「……なんで、亜紅里のことを知ってる」
声が震えそうになるのを必死に抑え、妖狐に受け答えした結希は密かに背筋を凍らせる。
『オマエ、〝アシヤ〟カ』
呪で縛ったタマ太郎と同じく、妖狐の気は狂わなかった。そんな妖狐の返答は、結希の心を嫌というほどに揺さぶっていた。
「結希、この妖狐はなんなんですか……?」
「……おかしいぞこの火車。……妖狐もだ」
末森と本庄のことを完全に無視し、瞑目した妖狐は何度か首を横に振る。刹那、妖狐は高架橋から飛び下りた。
「なっ……!」
突飛な行動に驚愕し、異質な妖狐を慌てて目で追う。妖狐が傷ついてまでここに来た理由が、本当に亜紅里の中にあるのなら──……結希は、ここで指をくわえて見ているわけにはいかなかった。
「タマ太郎!」
殺せなかった。そんな妖狐が亜紅里を傷つけないように、結希はタマ太郎の屋形車に咄嗟に乗り込む。
「後を追ってくれ!」
『ワカッタ。オイラ、アト、オウ。オマエ、テツダウ』
答えたタマ太郎は、瞬時に離陸して空を駆けた。
テツダウ──そう言ったタマ太郎の心の無垢さに何故か泣きそうになってしまい、唇を結んだ結希は目元を拭う。そのまま前簾の隙間から下界を眺め、乱戦を繰り返す仲間と妖怪の戦況を隅々まで確認した。
誰も劣勢ではない。単独で動く悪意とは違い、団結を強みとした彼らが引けを取るわけがない。
結希は安堵し、町中の陰陽師たちが合流し始めるのを見て表情を強ばらせた。それは多分、無意識だった。
嫌なものはなるべく視界に入れないように。結希は無理矢理唾を飲み込み、建物の屋根を渡り続ける妖狐の目的地を悟る。
亜紅里の居場所は、結希の陰陽師の力を使えばすぐにわかるものだった。ヒナギクと共にこもっているのは、妖狐が目指している場所と断定しても差し支えのない百妖家だ。
『ユウキ、ユウキ』
「……なんだよ、タマ太郎」
やけに無邪気な声のせいで気が緩む。視界に入るタマ太郎は、何故だか誰よりも嬉しそうだった。
『オデカケ、タノシイナ』
誰よりも、人間のようだった。
「……そうだな」
寂しがり屋なタマ太郎の為に。幼馴染み二人と一緒に残してきてしまった熾夏の為に。こうしている間にも戦いを続けている全員の為に。今、自分にできることを──。
「タマ太郎、上がれ!」
『ワカッタ』
急上昇し、誰の視界にも入らないように最低限の努力をする。幸いなことに、妖怪の姿は確認できなかった。だが、同時にそれは駅前に集中しているということで──。
「紅葉、火影!」
事態を悟った二人が陽陰学園から出てくるのも、時間の問題だった。
「にぃ! くぅと火影も行くね!」
「ご武運を……! いとこの人!」
火影にしがみついた紅葉とすれ違い、結希は今もなお屋根の上を駆け続ける妖狐と少しでも話をしたくて声をかける。
妖狐は一度も結希を見なかった。亜紅里以外は何も見えない。それを行動で表現し、すべてを振り払って前へ前へと進んでいく。
「ッ!」
無防備に入れていた携帯をブレザーのポケットから手に取った。ヒナギクに短文を送りつけ、戦えない亜紅里の代わりに妖狐を足止めすることを頼む。
だが、それに意味はなかった。百妖家へと続く坂道に飛び出してきた亜紅里はぎょっと目を見開き、駆け出す妖狐を視界に入れて口を開く。
「──〝ママ〟ッ!」
亜紅里も駆け出した。後から来たヒナギクの静止も聞かず、亜紅里は妖狐を抱き締めた。
「まっ……ママ?!」
亜紅里は今、何を言ったのか。思わず前のめりになり、結希はタマ太郎に頼み込んで高度を下げる。
「ママ?! 貴様は一体何を言っているんだ!」
「ちっ、違うよヒーちゃん! ママは私の育ての親! 生みの親に捨てられた私のことを拾ってくれた大事なかあさんなの!」
ママ。それが、あの妖狐を縛る唯一の呪の名。
タマ太郎よりも思いの詰まったその名前は結希とヒナギクに衝撃を与え、ママと呼ばれた妖狐は愛おしそうに亜紅里の首筋を幾度も舐める。
『アグリ。アグリ。ゲンキダッタカ?』
間違いない。ママは、亜紅里の唯一の育ての親だ。
いつだったか、結希が風邪を引いた時に亜紅里は結希の首筋に触れた。その時、間違いなく亜紅里は「かあさん」と言ったのだ。
実母である阿狐頼に対しては、一度も使ったことのないその呼び名を。
地面に足をつけた結希は、呆然と親子の再会を眺めていた。阿狐頼以外に母がいた亜紅里。今の亜紅里を作ったママ。
そんな異質すぎる関係性に目眩がしたが、自分の頬を舐めたタマ太郎との関係性も傍から見れば絶対に異質だ。結希は力なく笑い、手足から力が抜けていくのを感じた。
『キュキュッ』
そんな中、聞こえてくるもう一つの声。
「亜紅里、その、ママというのは妖怪だろう?」
「そうだけど、かあさんはいい妖怪なの! 私のことをここまで育ててくれたんだよ?! それでも殺すって言うなら私ごと殺して! 死ぬ覚悟はできてるから!」
『キュキュッ?』
「……なぁ、ママ。中に何を隠してる」
どう呼べばいいのかわからずにママと呼んだが、ママで間違いはないようだ。振り向いたママの毛の中から、小さな毛玉が勢い良く飛び出してくる。
『キュー!』
「うわっ、ほんとだ! どうしたのかあさん! この子めちゃくちゃ可愛いんだけど!」
『ソイツハオサキギツネ。サイキンヒロッタ』
「かあさ〜ん! かあさんの拾い癖には感謝してるけど、なんでもかんでも拾ってきちゃダメだってば〜!」
御先狐──。だが、幼体と言っても過言ではないほどに亜紅里の掌の上にいる妖怪は未成熟だ。例えるのなら、その辺にいる子犬のようだ。
「……ポチ子」
「あっ! ゆうゆう! 適当な名前をつけないでよ!」
「愚か者! そもそも妖怪に名をつけるな!」
だが、結希が名を縛ったポチ子はただの毛玉ではなく毛玉に耳が生えた小動物になった。こんな幼体でも実体を持つのか──いや、そもそも妖怪に幼体があるのか。考えても疑問は尽きず、何一つ纏まらずに膝を折る。
「あっ……」
亜紅里の驚いたような声が聞こえてきた。だが、その前に何者かに手を引かれて仰向けのまま抱き上げられた。
「……まったく。どうしていっつも、こんなに無茶ばかりしちゃうかなぁ」
赤き空が見える。呆れたような声は何故だか何よりも懐かしく、薄れる視界の中に大きく入った女性は何故だか何よりも美しかった。
肩までしかない銀色の髪。ぴょこんと生えた狐の耳。翡翠色と琥珀色のオッドアイ。前髪に隠れた額の眼球と、首筋に咲いた眼球と、胸元に咲いた眼球と──見えないだけで百個もの眼球を咲かせた化物の肢体が弱った結希を支えている。赤い薔薇は耳を飾り、黒いスカート状の布も留めており──それだけで、彼女がいつもの彼女ではないと察することが結希にはできた。
「しいか、さん……?」
「休んでて、弟クン。私のことを助けてくれて、あんなに大きな結界を補強してくれて……。本当だったら君は倒れていてもおかしくないくらいとっても疲れちゃってるんだから」
微笑みながら言った熾夏の声が耳に優しい。結希は唇を閉じ、自分の欲望に逆らえずに目を閉ざす。
『後は私たちが頑張るから。待っててね』
その言葉を最後に結希は意識を手放した。




