十四 『古ぼけたアルバム』
脱ぎっぱなしにしていた制服に手を伸ばす。スザクの瞳と同じ色をしたそれをハンガーにかけ、ダンボールだらけの部屋を見回す。
「……いい加減片づけないとな」
誰に聞かせるわけでもなく呟いた。
いつでもあの家に帰れるようにと、心のどこかで思っていたのかもしれない。だからか全然片づかなかった。
ダンボールの一つに手を伸ばす。独特の質感を指先で感じて逡巡すると、遠慮がちなノックがして扉の方に視線を向けた。
扉を開けると、低い位置で髪が煌めく。金髪の少女──愛果が結希を見上げて立っていた。
「どうしたんですか、愛果さん」
「ん……え、えっと」
珍しく言葉を詰まらせる愛果の碧眼が泳ぐ。そんな愛果の心中を察して、一歩身を引いた。
「どうぞ」
「なっ!? う、ウチに入れって言うのか?!」
「え、ここでいいんですか?」
「よ、良くないけどさ!」
顔を赤面させて手を振り回すと、まだ着替えていない制服のスカートが揺れた。口の開閉を繰り返して俯く愛果は
「……良くない、けどさ」
消えそうな音量で呟いた。
「けど?」
心底不思議そうに聞き返す結希に、愛果は何を察したのか手を止める。顔を上げ、唇を動かし、声にならない言葉を言う。
ば、
か。
結希はそう、読唇術で読み取った。陰陽師として教え込まれた技術がこんなところで役に立つとは。
それでも、何故自分がバカ呼ばわりされたのか理解できなかった。
「もういい」
肘で結希を押し退けて、数歩短い廊下を歩く。そして、その先に広がる結希の部屋を視界に入れた。
「何、これ」
ダンボールで埋め尽くされた部屋を視認し頬が引き攣る。
遅れて戻ってきた結希は、愛果の反応に冷や汗を掻いた。小刻みに肩を震わす愛果を静かに見つめ
「アンタは怠け者なの?! 片づけが苦手なの?!」
「え、えーっと……」
今度は結希が言葉を詰まらせる。
この家で暮らしたくないのか──そう言って怒られるのかと思ったが、そんなことはなかった。それもそうかとすぐに思い直す。愛果が結希を家族として見ていないのは、数時間前に本人から告げられたばかりなのだから。
「信じらんない!」
ぼふんっと音をたてて、愛果は結希のベッドに座った。この部屋の家具はベッドと机と棚、そして壁につけられたクローゼットだけしかない。座る椅子がない結希は、その場に立ったまま苦笑いでやり過ごした。
しばらくして、愛果の視線がダンボールに向いていることに気づく。見て、逸らして。そんな動作を何度も何度も繰り返していた。
「なんの用でここに来たんですか?」
愛果の肩が小さく上がる。
こほんとわざとらしく咳払いをした愛果は、緋色のスカートを整えながらベッドに座り直した。
「その、アンタの六年前の写真があれば見てみたいと思って」
「は? 写真?」
「ほ、ほら! アルバムとかあるんじゃないの?!」
ダンボールを指差して、愛果は一気に赤面する。その指先を追った結希は、しゃがみ込んでもう一度ダンボールに触れた。
息を呑んで、指先に集中する愛果の視線を感じながらガムテープを剥がす。中身は教科書だった。
落胆する愛果の気配を感じた結希は、別のダンボールに手を伸ばす。中身は本で、朝日から貰った陰陽師に関する本が大部分を占めていた。また別のダンボールを開ける。中身はまたしても本だった。
「……ないの?」
不安そうな声色だった。アルバムがないだけでどうして愛果が不安になるんだろうか。聞こうと思ったが、またバカだと言われるような気がしてやめた。
「ありますよ、多分」
もしかしたら朝日が持っていったのかもしれない。それが事実だとしたら、結希まで不安になってくる。
焦りを押し殺しながら最後のダンボールを開けた。その一番上、結希の数少ない私物の上に置かれていたのは、端がところどころ破れたアルバムだった。
「……あった」
「ほんと!?」
ベッドから立ち上がって、ダンボールを避けながら愛果が近づいてくる。そして結希が手にとったアルバムをひったくり、表紙を捲った。
最初に貼られていた生まれたばかりの写真を飛ばし、次に貼られていた写真も飛ばし。愛果は一心不乱に六年前の写真だけを探し続ける。
途中で視界に入る写真の数々は、当然だがどれも記憶にないものばかりだった。朝日と一緒に写っている写真は、忘れてしまった父親が撮ってくれたのだろうか。心臓を刺されたような痛みが走る。
ぴたっと愛果の手が止まった。身を乗り出すと、《結希 十一歳》と書かれた紙の上に黒いランドセルを背負っている自分を見つけることができた。
「…………」
愛果は無言だった。
ランドセル同様に黒い髪をした結希は、カメラ目線でボロアパートの前に突っ立っている。恥ずかしくなるほどに無表情だったが、まだあどけなさを残していた。
思わず隣に視線を移すと、見知らぬ男性に抱きつかれている自分と明日菜が写っている。
結希も明日菜も、不機嫌そうな表情で男性を睨んでいた。それでも男性は歯を見せながら笑っていた。父親のような年齢に見える男性は、明日菜の父親ではない。だとしたら──。
「……茜色」
そう呟いたのは愛果だった。隣に愛果がいることを忘れ、穴が開くほど写真を見つめていた結希は我に返る。
「茜色?」
「ッ!」
振り向いた愛果は、限界まで目を見開いていた。愛果も我に返ったように見え、ならば何を考えていたのだろうと思う。
「な、なんでもない!」
アルバムへと視線を落として、愛果は指を差した。指された写真は結希が先ほどまで見ていた写真だった。
「こ、これ! この子誰? 友達?!」
下手な話の逸らし方だったが、追及することはせず、撮った記憶がない写真を再び目に映す。
愛果のミルク色の指で差された幼い明日菜は、今もあまり笑わなかった。
「幼馴染みの明日菜です」
「……へぇ。アンタ、幼馴染みいたんだ」
「いますよ幼馴染みくらい。愛果さんはいないんですか?」
「普通そんなのいないし」
アルバムを閉じた愛果は、礼を言ってそのまま押しつけるように返してきた。そしてすぐに部屋から出ようと扉を開ける。
「あのさ」
「はい?」
「狸に会ったことってある?」
半開きの扉で全身を隠したつもりでいる愛果の金髪が、尻尾のように揺れた。
「俺にビビった狸なら昨日会いましたけど」
「ち、違う! 昨日じゃなくて!」
愛果を揶揄うのは早々にやめて、結希は「ないです」と素直に答える。心なしか尻尾のような金髪ががっくりと落ち込んだように見える。
「……なら、いい。変なこと聞いてごめん」
扉を閉めた愛果の足音は、しばらくしても聞こえなかった。不審に思って、読唇術と共に朝日から教え込まれた忍び足で扉まで行く。
仄かに爽やかなフルーツの匂いがした。愛果はまだ、そこにいた。
『………約束したじゃん、ばか』
言葉が空気中に溶けていく。
とてとてと足音が遠ざかっていく。
──約束?
そんなものを愛果とした覚えはない。いや、自分が覚えていないだけなのかもしれない。もしくは、六年前のあの日に忘れてしまったものなのか。
扉を開けた。愛果はもういなかった。呆然と立っていると、奥の扉が開く音がする。
「あれ? 結兄、そんなとこで何してんの?」
燃えるような赤毛の持ち主、椿がきょとんとした表情で結希に尋ねた。
「別に何もしてないよ」
悟られてはいけない。微笑むと、椿はさらにきょとんとした表情になる。が、そう長くは続かなかった。
「椿ちゃんは?」
「そろそろ夕食の時間だから下りようと思って。シロ姉はいつも同じ時間に料理し終えるからさ!」
「麻露さんらしいな」
「結兄も一緒に行こうよ!」
廊下の端から端まで歩いてきた椿は、結希の手を握った。嬉しそうに笑う椿を眺めながら、脳内では愛果のことを考えていた。
愛果が、脳裏から離れなかった。




