十三 『双と朝日』
翌日の十月二十日は、平日の木曜日だった。明日菜には頭を下げて学校を休んでもらうことにし、ヒナギクを通して学園長の白院・N・万緑には公欠扱いにしてもらう。
これで出席日数の問題は解決した。結希は腹を括り、結城家で陰陽師の力を駆使しながら襲撃場所の特定を急ぐ涙と千羽──そして共にいるはずの人工半妖、乾に向かって思いを託す。
三人とも、結希の家族のような人たちだった。今日戦う予定の人々の中には、そんな人たちが何人かいる。だから結希は、熾夏の儀式の成功を祈って早く彼らの元へと駆けつけたかった。
「はいっ、これで結希様の準備は完了でございます!」
「……ユー、おつかれ」
スザクが離れたのを気配で察し、いつもの狩衣ではなく直衣姿の自分を鏡で見る。スザクが手を加えたのかところどころが現代風になっているような気がするが、明日菜に見せるのならばこっちの方がいいような気がして結希は特に何も言わなかった。
「手伝ってくれてありがとな」
「いいえ! 私は結希様の式神でございますから!」
「……ますから」
「あぁっ、もう! オウリュウは何もしていないではありませんか〜! 遊ぶならあっちに行っててください!」
ぷんぷんと怒るスザクと、畳に寝そべりながら今日もせんべいを頬張るオウリュウ。オウリュウは陽縁が気を利かせて持ってきてくれたせんべいをすべて食べ尽くすような勢いで頬張っており、結希はそれを黙って阻止した。
生真面目なスザクと、自由なオウリュウ。どちらも自分と似ているような気がしてため息が出る。
「……お前ら、他所様の家なんだからもうちょっと落ち着け」
結希がそう言うとスザクはぴしっと背筋を伸ばすが、オウリュウは相変わらず畳に寝そべるだけだった。
早朝に風丸神社を訪れた結希は、学校に行く風丸に見つからないように小倉家で準備を進めていた。が、その準備も八時を回った頃には終わりを迎え、結希は外に出て本殿の前にいる二人に声をかける。
「雷雲さん、陽縁さん。こっちはもう終わったので何か手伝えることはありませんか?」
尋ねると、二人は振り返って結希を見た。
「そろそろ終わりますので大丈夫ですよ。それよりも、その格好では動きづらいでしょう。時間になるまで待機していた方がよろしいのでは?」
「すみません、なんだか落ち着かなくて」
「だったら熾夏さんの傍にいてあげてください。あの双さんも、儀式の前は不安がって朝日さんの傍にいたがっていましたから」
結希は顔を上げ、一緒に風丸神社に来ていた熾夏のことを頭に浮かべた。
今日のことはちゃんと姉妹全員に話しており、家を出る直前、見送りに出てきた麻露の表情が今でも結希の心から離れない。
「…………」
命を託すような表情だった。麻露の隣に立っていた依檻の表情は見ることさえできず、歌七星の優しい微笑みが張り詰めていた心を軽くさせる。そして、結希は最後に真璃絵を見た。
三人の後ろに置かれた車椅子。そこで今も眠り続ける真璃絵のことを思うと思わず背筋が伸びる。それは熾夏も同じだったようで、その瞬間、本当の意味で熾夏と心を通わせることができたような気がした。
「……そうですね。行ってきます」
二人に背を向け来た道を戻り、スザクとオウリュウに待機命令を出して熾夏の待機室となっている社務所へと向かう。
鍵をかけていない扉を開け、中に入ると──
「熾夏さん」
──白装束姿の熾夏が瞳を閉じながら座布団の上に座っていた。
「……弟クン。すっごい格好しているね」
「お互い様ですよ」
笑みを浮かべる熾夏の正面に座り、準備が滞りなく進んでいることを伝える。熾夏は頷き、さらさらと流れる藍色の髪を手で梳いた。
昨日までリボンがついていた髪には眼帯を留める紐しか存在せず、やけにすっきりとした熾夏は足を崩す。普段白衣で見慣れているからか熾夏の白装束姿はあまり新鮮ではなく、結希は窓の外に視線を移して腰を上げた。
「明日菜……」
「来たみたいだね」
「……と……風丸?!」
慌てて窓の傍まで駆け寄ると、迷惑そうな明日菜の傍らに風丸がいた。
二人とも陽陰学園の制服を着ており、学園でたったの六人しか着れない群青色の制服が目を焦がす。
「あ〜あ、途中で風丸クンと鉢合わせちゃったのかなぁ」
窓を開けると、明日菜と風丸が雷雲と会話を始めて結希の方を向いたところだった。雷雲に指を差された結希は声を出すのを躊躇い、「なんでお前がいるんだよ!」と咄嗟に吐き出す。
「それはこっちの台詞だっつーの! いるなら言えよな!」
「や、だって……」
「ゆう吉」
駆け寄ってきた明日菜は社務所の中にいる熾夏を見、戸惑い気味に顔を上げた。
「その格好、何?」
「直衣って言って、うちの家系の伝統衣装だ」
あらかじめ用意していた言葉で説明し、明日菜に入口の方から入るように指を差す。明日菜は黙ったまま結希を見上げていたが、やがてその場で靴を脱いで窓の淵に足をかけた。
「うっわ、お前って時々大胆だよなぁ」
同じく駆けつけてきた風丸の声をまったく聞かず、中に入ってきた明日菜は熾夏を一瞥して奥へ奥へと進んでいく。
「で? 結希。お前はこれから俺んちで何すんだよ」
明日菜を追っていた視線を戻すと、風丸が先ほどの明日菜と同じように結希を見上げながら立っていた。
笑っていない。なのに無表情というわけではなく、一度引きずり込まれたら戻ってこれないほど深い海の色をした瞳はじぃっと結希を捕らえて離さなかった。
唾を飲み込む。こんな風丸は今まで一度も見たことがない。
誤魔化せないとすぐに思った。風丸は馬鹿だが間抜けではない。
「儀式だ」
「熾夏さんの?」
「そうだ」
「……ふぅん」
目を細められた。
一言も嘘は言っていないし誤魔化してもいない。なのに何故そんな表情をするのか──
「で? 俺は何すればいい?」
「は?」
「親父じゃなくて俺がやる。俺でもできるんだろ? お前の役に立てるんだろ?」
「まぁ、そうだと思うけど……え? お前本気か?」
──風丸の思惑がわからずに聞き返すが、風丸の意志は結希の想像以上に固かった。
「本気に決まってんだろ」
「どうしたんだよ、急に」
あれほど跡取りであることを嫌がっていたのに、どういう心境の変化があればそんな固い意志を他でもない結希に言うことができるのだろう。今まで散々嫌だと結希に愚痴っていた風丸は、プリンになった髪を風に靡かせて──
「神様のお告げだよ」
──曇りなく、心の底からそう言った。
誰よりも人間らしい見た目をしているのに、雰囲気は何故かそう感じさせない。深海色の瞳は人ならざる〝何か〟に乗っ取られたかのようで結希は一瞬ぞっとする。
「正気か」
「正気だ」
「嫌じゃないのか」
「仲間外れの方がもっと嫌だ」
それは結希が知っている風丸が言いそうな台詞だった。たったそれだけなのに風丸がそこにいると素直に思えて、結希は「わかった」と答える。
「じゃあお前も着替えてこいよ」
「はいはいはいはい、わかってるよ」
明日菜と同じく窓の淵に足をかけて入ってきた風丸は、明日菜と同じ方向へと向かって姿を消した。
結希は、幼馴染み二人がこの場に集ったことに言いようのない胸の高鳴りを感じていた。何故だろう。あんなに嫌がって、守りたかったのに。一緒にやるとわかったら鼓動が激しくなる。
「弟クン、楽しそうだね」
「そうですか?」
「興奮してるでしょ」
「どうでしょう」
熾夏は微笑しただけだった。こんな状況でも笑える熾夏の強さに逆に支えられそうになって、自分自身でも笑みを浮かべる。
「不安じゃないんですか?」
あえて揶揄うように言うと、「まさか」と熾夏は膝を抱えた。
「怖いよ? びっくりするくらいにちゃんと怖い。弟クンがいるから絶対に大丈夫なはずなのに、膝が震える。何に対して怖がっているのかもよくわからないのに、怖いってなんだろね」
なのに熾夏は笑っている。熾夏にしては珍しい、向日葵のような笑顔だった。
「……俺がいるのと絶対に大丈夫はイコールじゃないですよ」
その向日葵の影にいるような気分だった。過信しすぎだと思うのに、いつまでもそう思っていてほしいとも思っている。
矛盾している自分に笑えてきたのに、熾夏が笑っている理由は自分が可笑しいというわけでも結希が可笑しいというわけでもない。結希を安心させたいから笑うのだ。
「熾夏さんって、根っからの〝姉さん〟なんですね」
「ふっふっふ、私のこともしい姉って呼んでいいんだよぉ〜?」
「えぇ〜、しい姉ですか?」
「ちょっと、なんでよ。朱亜姉っていっつもみんなの前で呼んでるじゃない」
「だって朱亜姉は朱亜姉じゃないですか。しい姉はちょっと違くないですか?」
「えぇ〜、何が違うのよ」
「親近感とかないんですもん」
「アリアリじゃない? 私、あの子のお姉ちゃんだよ?」
確かに熾夏は明日菜の姉だ。巫女服に着替え終わって顔を出した明日菜と並ぶと、絶対に誰もが姉妹と間違える。
「結希さん、熾夏さん。準備が終わりました」
「は〜い、待ってました」
「風丸の準備がまだ終わってませんよ?」
「……わかりました、アレは私が見てきます。御三方は先に陽縁の元に向かってください」
服に慣れている明日菜を先に行かせ、結希は熾夏の手を取った。
「別になくても歩けますけど?」
「ポンコツのくせに何言ってるんですか」
「ちょっと! うちのポンコツは弟クンと椿ちゃんだけで充分です〜!」
「はいはい。そこの段差気をつけてくださいね〜、危ないですよ〜」
わざとらしく老人扱いすると、熾夏は負けじと結希の腕を杖代わりにしてくる。重さで転倒させようとしているのが重力のかけ方で丸わかりだったが、その程度では転ばない。
「も〜! 弟クン可愛くない!」
「はいはい。俺が可愛かった時なんて一度もないですよ〜」
「幼少期に戻って〜! 縮め〜!」
「嫌で〜す」
義姉弟揃ってふざけたことをしていると、不意に明日菜からの視線を感じて結希は思わず背筋を伸ばした。
明日菜は幼馴染みとその義姉の変貌っぷりに度肝を抜いていたが、やがて「楽しい?」とどこか寂しそうに笑いながら二人に問いかける。
「明日菜ちゃんもおいでよ」
熾夏は、そう言って片手を広げた。だが、相手は人見知りであまり羽目を外さない明日菜だ。熾夏がいくら姉妹として距離を縮めたいと思っても、明日菜がそれに応じることはとてつもなく難しい。
そういう教育をたった一人で受けてきたのだ。
「遠慮します」
熾夏は自由な朝日の手で育てられてきた内の一人だった。そんな熾夏が明日菜の心の壁を壊すことは、ほとんど不可能に近いことだった。




