十三 『無謀と期待』
水が跳ねる音がする。瞳を閉じながら、静かにその音を聞く。
温かい湯気が結希の体を包み込んだ。緊張が解れていく。結希はそんな風呂が好きだった。
目を開けると、銭湯並の広さを誇る百妖家の風呂場が視界に入る。茜色の夕日が小窓から鮮やかに降り注いでおり、本当に銭湯に入っているかのような感覚になった。
愛果と椿と家に帰り、そこにいた姉妹全員に結界のことを話したのは数時間前の出来事だ。その後、愛果に無理矢理風呂に入るように言われて今に至る。
長いため息をついた。吐息によって乱れる湯気を眺めることも、結希は結構好きだった。
どくん。不意に陰陽師の力が騒ぐ。同時に、浸かっていた浴槽の中に何かが現れた。
何かなんて、考えなくてもわかる。慌てて下半身を隠しながら、浴槽の中で溺れる少女を見下ろした。
「わっぷ! わぷっ! ゆ、結希様ぁ〜!」
「スザク!」
溺れるスザクを引き上げると、緋色の瞳が結希を捉える。そして、躊躇うことなく抱き締められた。
「ふ、ふぇ〜! 結希様ぁ〜! 怖かったです〜!」
「ス、スザク! やめろ!」
薄い菖蒲色が入った白い着物の下は、パニエでも入っているかのように膨らんでいる。その中には緋袴を履いているが、濡れたスザクの体にぴったりと張りついていた。そのせいで、普段なら誤魔化せているスザクの幼児体型が目に見えてわかるようになっていた。
「当たってる! 離れろ!」
いくら式神といえど、見た目は限りなく人間に近い。それは髪や肌の柔らかさも同じだ。
「うぇぇぇぇ〜!」
「とりあえず落ち着け!」
スザクは結希が裸でもお構いなしにいやいやと首を横に振った。桃色のツインテールはお湯に濡れて大人しかったが、その代わりにスザクのラベンダーのような匂いが鼻腔を擽る。
「頼むから離れろ!」
ぴたっとスザクの動きが止まった。それからはあっさりと離れていった。
式神のスザクは、結希の命令にはほとんど逆らえない。絶対ではないのは結希が陰陽師として半人前だからだ。
陰陽師として未熟ならば、式神は絶対に主の言うことを聞かない。例えそれがどんなに些細な命であってもだ。
逆を言えば、式神は主が一人前ならばどのような命でも必ず聞く。例えそれが、どんなに無謀な命であっても。
後ろ髪を引かれる思いをしながら脱衣場へと走る。タオルを引っ張り出して、その中の一枚を泣きじゃくるスザクに押しつけた。
「それで乾かせ。乾かしたら、今度から場所を確認してから来ること」
「わ、わかりました!」
タオルをぎゅうっと抱き締めて、スザクはようやく姿を消した。にも関わらず、周囲に気を配って無駄に神経をすり減らす。
誰もいないとわかった途端、小さなくしゃみが飛び出した。
*
濡れたままの黒髪をタオルで拭きながら、リビングの扉を開ける。
「あ、お兄ちゃん!」
無邪気なその声は腰の辺りから聞こえてきた。視線を移すと、軽い衝撃と共に月夜が結希を抱き締めて笑う。
「おかえり月夜ちゃん」
「うんっ、お兄ちゃんもおかえり!」
餅のように柔らかな頬とたんぽぽ色の髪を腰辺りにすりすりさせてくる月夜に戸惑いながら引きずるようにして前に進む。例に漏れず、鋭い視線が結希を刺した。
悲しいまでに馴染みのあるこの視線は
「さ、幸茶羽ちゃん」
月夜の双子の妹、幸茶羽のものだった。
「問答無用ッ!」
それ以上の言葉を発する前に、幸茶羽は遠慮なく脛を蹴り上げる。月夜を上手く避けて結希を蹴ったあんよは、とんっと床を跳ねて着地した。
「姉さん! 早くそのケダモノから離れて!」
「違うよささちゃん! お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ!」
「違うのは姉さんの方! そのケダモノはケダモノ! 汚れてる!」
だんっだんっと地団駄を踏む幸茶羽は、小さな手を大きく振って反論する。
「幸茶羽、やめろ」
それを鎮める声はキッチンの方から聞こえてきた。
「し、シロ……」
予想通り、幸茶羽はそれだけ呟いて手足を下ろす。その仏頂面は金髪碧眼の誰かさんに酷似していた。
「アンタ、今なんか失礼なこと考えなかった?」
「いえ何も」
椅子に腰を下ろした愛果が仏頂面で睨んでくる。やはり姉妹だ。違うところを言う方が難しい。
「キミの入浴中に話は聞いた。他にも和夏、依檻……恐らく熾夏も把握しているだろう」
「わかりました。ありがとうございます」
料理をしながら報告した麻露に礼を言って、タオルを首にかけながらソファに座る。その後を追って月夜が、月夜を追って幸茶羽が腰を下ろした。
「月夜、幸茶羽。兄ができて喜ばしいのはわかるが、あまりこいつを困らせるなよ?」
「だいじょーぶ! お兄ちゃんは困らないもん!」
「ささは別に嬉しくない!」
ニヤッと口角を上げる麻露。無邪気に笑う月夜。腕を組んでそっぽを向く幸茶羽。
そんな長女と末っ子双子のやり取りを、話の張本人は微笑ましく眺めていた。一人っ子だからかわからなかったキョウダイの温かさは、今になって思えば結希の憧れだったのかもしれない。
どくん。休む暇さえ与えられず、本日三度目の感覚が体中を走った。そして、間髪入れずに全身を乾かしたスザクが現れる。
月夜や幸茶羽よりもほんの少し背があるスザクは、緋色の瞳を結希に見せる間もないままその場で土下座した。
「申し訳ございませんでした、結希様!」
「いや、さっきのことは仕方な……」
「違います! 違うんです……!」
スザクの謝罪の意味を悟った結希は、脳裏に最悪の結末を思い描いた。何も持っていないまま頭を下げるスザクを、呆然と見ていることしかできない。
「どうした。この子がキミの式神のスザクだろう?」
「……はい。スザク、顔を上げて説明してくれ」
急かされたスザクは、先ほどと同じく今にも泣き出しそうだった。
「結城様の家──本部に行き事情を説明したところ、『無理だ』と言われてしまいまして……」
「無理って、具体的に何が無理なんだ?」
沸き上がった小さな怒りを押し留めて尋ねる。
「狩衣や道具を持ってくることはできました。ですが、最後の命である『陰陽師の招集』がどうしても不可能だと。持って行っても意味はないと……結希様もご存知の通り、只今は朝日様を含むほとんどの陰陽師様が町を留守にしておられますので……」
「は? 陰陽師がいない? 町に残っている陰陽師は……」
「紅葉様と、他に数名いらっしゃいます。ですが、全員結希様よりも年下でございまして……千秋様も、結界を張る余裕はないと仰っていました」
結城千秋は陽陰町の町長であり、紅葉の実父だ。結希の伯母が千秋の妻で、紅葉は血の繋がった従妹になる。
「……全部計算通りだったんだ。全部行為にやられたんだ!」
椅子を思い切り蹴飛ばした愛果は、唇をキツく噛み締めた。碧眼に怒りを宿し、ここではないどこかを鋭く睨んでいる。
「愛果。抜け道があると気づいたのはいつだ」
それは、本当に冷静な声だった。
顔を上げた愛果は、最早料理なんてしていない麻露の問いかけを脳内で再生させる。
「……昨日。始業式の日、いろいろあって帰りが遅くなって、学校をうろうろしてた時だ」
ゆっくりと明かされた事実に無言で頷いて、今度は結希に尋ねる。
「朝日さんが町を出たのは?」
「昨日です。朝に会って……そうだ、あの時はまだ荷造りなんてされてませんでした」
「二つともほぼ同時に起こったんだろうな。他の陰陽師が出たのも昨日で間違いはないだろうし」
麻露は髪を耳にかけた。
愛果も月夜も幸茶羽もスザクも。そして結希も、事の重大さには気づいている。気づいているのに、手も足も出ない。
「スザク! アンタ、もう一度結城の家に行って説得してこい!」
「えとえと、それは……」
愛果の唐突な命令に、さすがのスザクも困惑を示した。泣いたりしたことは何度かあったが、スザクのそんな姿は今まで一度も見たことがなかった。
緋色の瞳で結希を捉え、桜色の唇を少し動かした刹那──どくん、またしても力が騒ぎ、スザクの隣に一人の青年が姿を現した。露草色の長髪を垂らし、輝くような菜の花色の瞳で結希を見据えるのは。
「セイリュウ!」
スザクに名を呼ばれ、長身のセイリュウはスザクを見つめながら微笑した。そして、結希に深々と頭を下げる。
慌てて立ち上がったスザクは、「ありがとうございます!」と何故かセイリュウに礼を言った。
「遅れて申し訳ありませんでした、スザク」
朝日の式神のセイリュウの、重くなっていた空気を祓うかのような澄んだ声がリビングに浸透する。
「いいえ、とんでもないです! 来てくださって本当にありがとうございます!」
誰かを元気つける明るいスザクの声で、結希はようやく口を開いた。
「どうしてセイリュウが……」
「事情はすべてスザクから聞きました。それを朝日様にお伝えしたところ、こちらを」
ぱんっ、と、たいして大きくもない音量でセイリュウが手を叩くと、綺麗に折り畳まれた狩衣と道具が出現する。
手を伸ばすと、空中に浮いていたそれらは結希の手中に収まった。よく見なくてもわかる。それは、紛れもなく自分の衣装と道具だった。
「これを、母さんが?」
「朝日様は結希様のお力を信じております。結希様ならば一人でも結界を張れる、と」
「俺が……一人で? 母さんは本当にそう思ってるのか?」
無謀だ。真っ先に思ったのはそんなことだった。
先ほどから疑問が溢れて止まらない。式神のスザクと同じように、結希もまた内心では困惑していた。
「結希様には、共に戦ってくださる仲間がいます。朝日様はこの為に結希様を百妖家に居候させたのではありませんか?」
朝日の言うことが正しいとでも言うかのような視線で周囲を見回す。そんなセイリュウに応えるかのように、麻露や愛果、月夜に幸茶羽までもが真剣な眼差しで彼のことを見つめ返す。
結希は、天真爛漫な母親を脳裏で描いてセイリュウの中にいる朝日を感じた。
一見正反対に見える朝日とセイリュウだったが、二人の瞳と表情がほとんど同じだということを結希は昔から知っている。陰陽師の間で伝承されている、式神は主に似るという話は真のようだ。
「そう、かもな」
昨日、麻露たちと共闘した時から薄々勘づいていた。自分が百妖家に来た理由は、古くから一族に伝わる運命にあり、偶然ではないと。
「スザク」
「はい!」
元から伸ばしていた背筋をさらに伸ばして、スザクはほとんどない胸を張る。
「……まだ半人前の俺だけど、力を貸してくれるか?」
そして、ぶんぶんと首を横に振った。
「そんなことはありません! 結希様は、〝六年以上前〟から立派な陰陽師様でございます!」
曖昧に笑う。スザクは、結希が半人前と口にする度にいつもそうやって反論してくる。
六年前なんて覚えていないし、それが陰陽師の術による代償のせいだということも知っているのに。未熟だったせいで代償を払ったと思っているのに
「そんな表情で笑わないでください! 結希様は本当に、齢十一歳にして神童と呼ばれた天才陰陽師様だったのですから!」
六年経った今でも、スザクは泣きそうな顔で主の結希を励ましていた。
「六年前……?」
ぽつりと麻露が呟いた。深い青目を見開いて、大切な何かを思い出すように、顎に手を添える。
「結希、六年前は──百鬼夜行が起きた年ではないか?」
そして、禁忌を破った。
それを口にする者はおらず、語らずに忘れることが陰陽師の世界では暗黙の了解となっていた。そうさせたいほどに、百鬼夜行は陽陰町に大きな爪痕を残している。
「……そうですね」
当時十一歳だった結希が百鬼夜行を退ける為に払った犠牲。その、十一歳には難しすぎる術を使った代償が、記憶だった。
「結希様は今でもこの町のヒーロー様です! 結希様が六年前の百鬼夜行を止めたんですから!」
再びない胸を張ったスザクに、普段の謙虚さはどこにもなかった。大切な自分の主の偉業がほとんどの人に知られていないやるせなさが、スザクを後押ししていたのかもしれない。
結希は反応しなかった。いや、できなかった。
一年に一度だけ陰陽師だけの集会があるが、その場所で何度同じようなことを言われても結希は何も答えなかった。次の年には行くことさえ止め、一人で誰もいない家で過ごしていたほど、結希にとってそれは禁句だったのだ。
「スザク、あまり結希様を困らせてはいけませんよ」
「……あ。も、申し訳ございません」
しゅんと落ち込むスザク。結希は今回もそんなスザクに言葉をかけようとはしなかった。
「……あの時の少年陰陽師は、キミだったのか?」
その声に普段の冷静さはなく、震える。
「シロ姉、それってどういうこと? シロ姉は六年前から結希のことを知ってたの?」
麻露はちゃんと覚えていた。当時幼かった双子は勿論、愛果でさえ記憶が曖昧だというのに。
結希を自身の双眸で見据えて、彼にとって触れられたくない出来事だと判断した麻露は
「いや、気のせいだ。忘れてくれ」
そう言うことで結希を守ったつもりになった。
麻露は何事もなかったかのように料理を再開させ、セイリュウは一礼して姿を消した。スザクは狩衣の上に置かれた結希の両手を握り締め、しゃがみ込む。
「結希様。私はこの先、何があっても貴方様の味方です。貴方様の為ならば、私はすべての力を使うことを惜しみません」
ごめんと言おうとして口を噤んだ。
今の結希がスザクにかけるべき言葉は、ごめんなんかじゃない。
「こんな俺だけど、スザクにそう言わせるほどの陰陽師になれるように努力するよ」
「何を言っているんですか。……もうとっくにそうでございますよ」
緋色の瞳を滲ませて、柔らかく微笑む。そして、自身の温もりを残すように姿を消した。そんなスザクのラベンダーの匂いが広がって、結希を包んで消えていく。
首にかけておいたタオルを取ると、心配そうに自分を見上げる月夜と目が合った。
「お、お兄ちゃ……」
こんな小さな子に心配された。安心させてあげたかった。だから、小さな頭を撫でた。
「……んにゃあ」
気持ち良さそうに目を細める。その様子を幸茶羽が羨むように眺める。結希はソファから立ち上がって、月夜の隣に座っていた幸茶羽の頭も優しく撫でた。
「……んみゃあ」
気持ち良さそうな表情で、幸茶羽は大人しく目を閉じる。そんな二人に結希は心から救われていた。
「ロリコン」
「ロリッ……?! ち、違いますよ愛果さん!」
「何が違うのよ、ヘンタイ」
言葉を吐き、そっぽを向いて茜色の夕日を見つめる。
そんな愛果に結希は反論できなかった。月夜と幸茶羽から手を離して、床に落としていたタオルを拾い、背負わされた役目の重さに一人で耐える為にリビングを出た。




