序幕 『歯車の崩壊』
何度目かの嘔吐。それをした春の背中を何故か俺が擦る。
「……ごめん、紫苑」
「謝るくらいなら飲み込めよクソが」
舌打ちをして、外の水道で口を濯ぐ春の猫背を俺はただ眺めていた。
今でも目を閉じると、琴良兄さんが切腹をして血を撒き散らす様がありありと浮かんでくる。《グレン隊》にいたおかげで血に慣れていた俺とは違い、春にとってはよっぽど衝撃的だったらしく──三日経った今でもフラッシュバックに悩まされていた。
バカなことをした。俺も、琴良兄さんも。
俺は春に流されたし、琴良兄さんも春に流されていた。間宮結希も、春の言葉に少なからず動揺していた。すべてが根暗な春の引き金だったのに。
「紫苑に〜ちゃん、春に〜ちゃん具合悪いの?」
だだっ広い野原で遊んでいた多翼が俺のいる縁側まで来て問いかけるくらい、春は精神的に弱っていた。
「さぁな」
「ずっとあんな感じだぞ。兄さんたちは一体あの町で何をしていたんだ」
美歩でさえ心配するほどなのか。
少し意外に思いながら振り返ると、広大な居間にぽつんと置かれた卓袱台で勉強をしている美歩が手を止めて俺を見ている。
「……だいじょうぶ?」
決して俺に近づこうとはしないモモでさえ、今日も何かに怯えるような表情のまま空色の瞳を俺に留めていた。
「心配すんなよ」
これじゃあ本当に家族みたいじゃないか。
「……んなことより、ババァは?」
戻ってきた春は表情を強ばらせ、縁側に上がった多翼も、近づいてきた美歩も、美歩の影に隠れているモモも息を止める。
俺たちは六年前から、たった六人しかいない義姉弟だった。一人も欠けることのない義理の姉弟。数奇な運命が絡まって集まった孤児の集団。そんな俺たちの面倒を見ているのが、あのババァなのだ。
美歩だけがあの人の姪で、俺と春が双子である限り血縁がない者の集団と言い切ることは難しい。だが、ババァは誰とも血が繋がっていなくても──それでも長女として俺たちを愛してくれたバカな人なのだ。
だから余計に間宮結希を意識する。同い年で、何も知らないまま──すべてを忘れたまま、義理の姉妹に愛されて、笑って、幸せになっているあの男を恨んでも恨み切れない。
「回復するまで、まだ時間がかかるようだ」
ぽつりと美歩が呟いた。
「全身に火傷を負って、重症……。俺たちだけじゃ、どうすることもできない……」
春も声が掠れている。
俺はわざとらしくため息をつき、庭とも呼べない野原に放置したままのバイクの元へと向かった。
俺たちの家にはたいした金がなく、住んでいる家屋も立地の悪さと建物の古さが原因でだいぶ値下げされていたものを買ったらしい。おかげでかなり住みにくいが、陽陰町に住めない俺たちに文句を言う権利はなく。俺以外は現状に満足しているようで、文句らしい文句を自分の口以外から聞いたことがなかった。
同じく中古のバイクのシートを撫で、俺はその前の持ち主を思う。使わないから要らないと、金持ちらしくあっさりと譲ってくれた大切な人からの大切な贈り物だ。
「……炬さん」
《グレン隊》の大将だった、炎竜神家の分家の一人息子。誰よりも強く、誰よりも器が大きく、居場所でさえあっさりと俺たちにくれた偉大な人。
その人のことを解散した今でも忘れたことなんて一度もないし、他の連中もそうだと信じている。
高校に入ってバイトで金を稼ぐ前、不便だからと知らぬ間に炬さんが買ってくれたスマホを取り出す。履歴に連なる不在着信の量に嫌気が差しつつも、一縷の望みをかけて俺は最新のそれに指で触れた。
『もしもし? 紫苑?』
留守番電話に切り替わり、それでも伝えたい思いを伝えようとする女の柔らかな声が聞こえる。それだけで安堵し、許されたような気分になる。だから俺は不在着信の山の中からわざわざアリアを選んだのだ。
元《グレン隊》の最古参で、裏の幹部。綿之瀬家の分家の一人であり、陰陽師の俺だから気づけた人工半妖という決して明かしてはならない裏の顔を持つ女だ。一目見ただけではあいつのどこにそんな権力があるのかと疑問に思うが、生きる者の怪我を治し、壊れた物を直す力を持っている。それを知る者があいつを重宝するのは当然だろう。
『ついさっきね、末森副長が目を覚ましたの。だからそれを伝えようと思って』
だから《カラス隊》に目をつけられ、《グレン隊》が壊れる直前に引き抜かれてしまった。それを最初は恨みもしたが、今はそれで良かったのだと納得している。
『えっと、傷はちゃんと私が塞いだから。心配しないでね』
そうだと思っていた。
アリアの力はババァの火傷も一瞬で消せるほどに強い。
『それでね、副長とちょっと話したんだ』
アリアがすごいのは力だけではなく、その求心力と影響力だ。琴良兄さんと他愛もない話ができるのも、元《グレン隊》の中だとアリアだけだと思う。
『そしたら副長ね、紫苑たちの名前の由来を話してくれたんだよ。副長は紫苑のお母さんから聞いたらしいんだけど、紫苑たちは多分誰からも聞いてないよね?』
刹那、耳を疑い心臓が止まりかけた。
『──春紫苑、なんだって』
アリアの声が妙に心地いい。振り返ると、バイクに触れている俺を居間から眺めている春と目が合った。
『知ってる? 春紫苑って花があるんだけど、別名貧乏草って言われてて折ったり摘んだりすると貧乏になっちゃうんだって。だから絶対に傷つけたりしない。二人とも必ず守るんだっていうご両親の決意の現れらしいよ』
出逢った頃はバカ丸出しだったのに、あの人たちの死を乗り越えて《カラス隊》の班長にまで昇進したアリアが真面目な口調で俺に言う。
『でね、花言葉は追想の愛。それを聞いた時、紫苑みたいだなぁって私は思ったの』
そうだな、と俺もすぐにそう思った。
アリアは俺のことをわかっている。俺だけじゃなく、他の構成員のこともわかっている。
『紫苑は今でも、自分は《グレン隊》だって思ってる?』
解散すると決まったあの時、次々とあいつらは《カラス隊》へと転身していった。最年少で、俺と同じく入隊できなかったアイラでさえ俺を置いていった。
あの時、俺だけが《グレン隊》から抜けなかった。
『《グレン隊》だった過去を、愛してる?』
愛している。生まれて初めて俺が俺であれた場所を、俺は愛している。
『紫苑がここ最近の出来事の裏で暗躍してるって話が出た時、私たち一度話し合ったの。確かに先月《ハリボテの家》で見た時の紫苑の様子はおかしかったし、《カラス隊》と激突する時はいっつも後ろの方に隠れてたし、あの時の結界を解除してくれたのも紫苑だったんだってみんな納得してた。同時にやっぱり怒ってた。陰陽師だってこと、紫苑は私たちに言わなかったし……でも、言えなかったよね』
唇を噛んだ。わかり切っていたことだったが、それでもあいつらには知られたくなかった。
『私とアイラも、人工半妖だってことを言わなかったし言えなかった。愁晴も、陰陽師だってことを言わなかったし言えなかった。私と愁晴は人間じゃなくてクローンだってことを言わなかったし言えなかった。炬も、《十八名家》の秘密を言わなかったし言えなかった。当たり前だよね。何者でもない〝自分〟がありのままでいられる場所が《グレン隊》だったのに──言えるわけないよね』
あいつらが《カラス隊》に入隊しなければ、知られることはなかったのに。
『巻き込みたくなかったのに』
思い出のままで終われば良かったのに。
『みんなが真実を知りたがったから、みんなが私たちの世界に飛び込んじゃった。でも、ちょっとフェアじゃないよね? 冬馬も、宗太も、集も、穂澄も、大河も、自分たちのことは何も言わないのにね』
俺からしたら炬さんのことも愁晴さんのことも遥のことも朔那のこともアイラのこともアリアのこともわかっていないが、アリアは彼らだけはわかっているのだろう。不満げに言っているがそれもフェアじゃない。
『ねぇ紫苑。私たち、もっともっと話し合えば良かったね』
本当に、フェアじゃない。
あいつらにはあいつらがいて、俺には誰もいない。タマモ以外、誰も俺の味方をしない。琴良兄さんの言う味方は、味方じゃない。
『話し合ったら、今の紫苑の気持ちがわかるかもしれないのに』
ぽつりとアリアが呟いた。
アリアは俺を絶対に責めない。だからアリアの話なら聞こうと思えるし、俺自身の罪を一瞬でも忘れることができる。
『話し合った中には朔那とアイラもちゃんといてね? それで、みんなでおんなじ答えを出した』
びくっと思わず肩を上げ、聞きたくないその先をアリアは躊躇いもなく言い放った。
『私たちは紫苑のことを信じてる。紫苑は絶対に、妖怪の味方なんかしない。……私たちと同じように、恨んでるでしょ?』
確信を持った言い方だった。だが、それは間違いじゃない。
俺たちを傷つけないと誓った両親を殺して俺たちを傷つけ、家族よりも濃い絆を結んだ《グレン隊》を解散へと追い込んだ妖怪を俺は死んでも呪い続ける。
『今でも紫苑のこと、私たちは大好きだよ。仲間じゃなくなっても、見ている物はもの同じだって信じてる』
そこでアリアの残した言葉は終わっていた。
「……遅せぇよ、バカ」
あいつらが一斉に《カラス隊》に転身した時、見捨てられたと思っていた。あいつらは俺の事情を知らないから、俺がアイラと共に寮に住むと信じて疑わなかったようだった。
俺だって、同じものを見ていたい。妖怪を、殺したい──。
茜色に空が染まる。刹那に目の間に九尾の妖狐が出現する。妖狐は俺を睨むように見、牙を剥いて俺と同じく殺気を見せた。
「紫苑兄さん!」
事前に来るとわかっていたのだろう。猛スピードで駆けつけてくる美歩は妖狐を正面から抱き締めて奴を止める。
「落ち着け! あんたの娘はここにはいない!」
必死になって、棒立ちする俺を庇いながら美歩は妖狐を説得する。
「陽陰町だ! でも、陽陰町には結界が張ってあってあんたは中には入れない! 大丈夫だから! あたしらが陽陰町の結界を必ず壊すから! だからそれまで待ってて!」
「紫苑……!」
遅れて傍に来た春は、美歩と妖狐が揉みくちゃになる様を見て唾を飲み込んだ。
「……すごいね、芦屋家の血って」
俺はただ、「そうだな」と返答して晴れない表情をする春を見た。
「生きてるってよ、琴良兄さん」
「え、ほ、本当……?」
「だからもう殺すなよ」
唇を噛み締めて俯く春から視線を逸らす。
俺は、俺らしくありたい。
自分自身の憎しみを無視して、半ば惰性でこいつらという家族につき合っている自分が嫌になる。
やろうと思えば、俺はこの歯車を壊すことができるのだろうか──。




