十六 『紅葉とロミオ』
「姫様?!」
喉が張り裂けるほどの絶叫。一瞬にして低く飛翔する鴉天狗。結希はそれらを視界に入れ、少しだけ強ばっていた体を緩めた。
千羽が、優しい顔をして妹を見守っている。
それだけで無事なのだと知るが、火影にはそれを知る術がなかった。
大きな翼を広げて滑るように着地をした彼女はその場で崩れ落ち、紅葉の小さな肩に怖々と触れて数度揺さぶる。
「姫様っ……姫様ぁ……!」
訴えかけるように、ただただ切なく、火影は泣きながら紅葉の名を呼ぶ。
結希は紅葉の反応を黙して待ったが、千羽の表情に反して一向に起き上がってくる気配がなかった。
火影を弄んでいるのか、千羽の表情が間違っているのか。
結希は眉間に皺を寄せ、自らも墓地の中央に向かう。何も言わないまま千羽を見上げるが、千羽は人差し指を口の前に持っていくだけで他には何もしなかった。
「嫌です、姫様……! 本当に、本当に……? 嫌っ、逝かないでくださいっ!」
黒翼に隠した紅葉の柔らかな頬を撫で、火影は年相応に泣き喚く。林檎のように赤かった紅葉の頬は青白く、唇も病的なほどに真っ青で。
「お願いです、姫様…………火影を一人にしないで…………」
震える声で涙を流し、火影は紅葉に覆い被さるように抱き締めた。
結希の目から紅葉は見えず、密着したまま地べたに埋もれる二人は墓場と同化したようだった。
「火影」
思わず声をかける。そのまま遠くに行ってしまいそうで、届かない場所まで飛び去ってしまいそうで──咄嗟に繋ぎ止めようとして、結希は彼女の名前を呼んだ。
火影はぴくりと体を強ばらせ、ゆっくりと顔を上げて結希を視認する。縋るようなその視線は結希にねっとりと絡みつき、雁字搦めにする前に何かに気づいたような顔をした。
「…………」
何かを思い出しているのか、火影は結希を見ているようで見ていない。ぽつりぽつりと声にならない言葉を漏らし、やがて視線を滑らかに落とした。
「姫様」
そして、動かない紅葉に向かって僅かに笑った。
「貴方が死ぬのなら、火影も死にます。貴方がいないこの世界で、生きている意味なんてどこにもありません」
赤子に言い聞かせるように、一言一言に重みを乗せて火影は吐露する。微睡む少女にとっては子守唄になりそうなほどの優しさと温かさで、火影は創り上げた絵本を読む。
「薬屋から買った毒薬を飲み干して、貴方と共に地獄へと向かいます。そこで幸せになりましょう。火影たちに優しくない、因習だらけで偽りばかりで嘘しかないこの悪しき世界から抜け出して……〝鬼〟だらけの世界に行って……共に在りましょう。火影は必ず誓います」
この世界の話じゃないと信じたかった。ここではない創作された世界の話だと思いたかった。
「まだ毒薬は持っていませんが、少しだけ待っていてください。いとこの人に必ず用意させますから」
だが、結希に視線を向けた火影の視線は本気だった。
「結希くん、そこに彼岸花が咲いているでしょう?」
辺りを見回すと、墓地を囲むようにして彼岸花が咲き乱れている。毒々しい紅さを纏って風に揺れ、見頃を迎えたそれらはこの世界に似つかわしく。
「気をつけて摘んでね。危険だから」
なんでもなさそうに促す千羽は悪魔のようだった。
「……本気か?」
「本気です」
千羽に問うたのにそう返した火影は相も変わらず狂気じみていた。ただ、完全に狂っているわけではない。正気のままに狂って頼んでいる。
「──だって火影は、〝ロミオ〟だから」
刹那、火影の意思を尊重するように風がぶわりとこの地に吹いた。風を司る土地神が祝福しているのか、強風によって舞った彼岸花の花弁が恐ろしいくらいに美しく落下してくる。
紅き欠片に触れれば呆気なく命を奪われそうで、結希は一歩身を引いた。そんな中でも動じない火影の表情はやはり晴れやかで、確固たる意思を持っている。今まで見てきた絡繰人形のようにはまったく見えず、墓地に君臨する鴉天狗の女王のように火影はただただそこに在った。
そして、亡者のように動く手がある。
「今の、最高のロミオだった」
その青白い手は火影の頬に触れ、黒翼の間から垣間見える紅葉が笑った。
「……姫様」
「その調子で舞台もよろしくね、火影」
むくりと起き上がり、悪戯っ子のような表情で千羽を見上げる紅葉は小悪魔だ。そして、それを祝福する千羽も悪魔だった。
「なんなんだよ二人とも……」
「ごめんね結希くん。巻き込んじゃって」
舞い降りた千羽はニコニコと笑い、起き上がる紅葉を見守る火影へと視線を向ける。
「今朝方紅葉ちゃんがどうしてもやりたいんだって言い出しちゃって。上手くいって良かったよ」
「紅葉が?」
「そう。このままじゃ舞台なんてできないって。きっちりけじめをつけるんだって張り切っちゃって」
「だからって、こんな茶番をやる必要があったのか?」
「うん。これ、《ロミオとジュリエット》のクライマックスなんだ。これができたら怖いものなんてもう何もないんだよ」
「クライマックス……ってことはネタバレ?!」
慌てて千羽を見やると、千羽は「えっ? ご、ごめんね?」とおろおろ動く。結希は開けっ放しになっていた口を閉ざし、創り上げられた絵本であることにやがて安堵した。
「急ごう。そろそろ準備の時間だよ」
「えっ? あっ、ちょっと! バカ火影! なんでもっと早くに迎えに来てくれなかったのよぉ!」
「えっ? 公演までまだ時間はあるだろ?」
「いいえ、いとこの人。公演時間よりも前に着替え等の準備をしなければなりません」
「えっ?!」
「火影! さっさと飛びなさいよぉ!」
わたわたと火影に飛びつく紅葉は暴れ、火影は勢い良く黒翼を広げる。紅葉と共にいる千羽は近くを飛び、結希は微妙に状況を察した。
「えーっと……」
「ごめんにぃ! 歩いて来て!」
「いとこの人、わかっていると思いますがそろそろ黄昏時です。スザクを連れていてください」
刹那、世界が茜色に染まる。いつもの黄昏時がこの地にも訪れ、結希は見上げた空にぽつぽつと点在する黒い点を注視した。
「ッ!? 火影! まだ飛ぶな!」
「ッ!?」
本物の鴉天狗が急降下し、紅葉を下ろした火影が飛ぶ。咄嗟にスザクを呼び出した結希はその姿を刮目し、彼女の金剛杖と鴉天狗の金剛杖が激突する様を目に焼きつけた。
「なっ……?!」
驚きの声を上げたのは結希だけではなく、紅葉、そして千羽も息を漏らす。
「火影っ、あんたいつの間に……!」
三ヶ月前まで飛ぶことしかできなかった火影はもうどこにもいない。勇ましい声を上げ、空中戦は自分のものだと言わんばかりに奮闘する。
「結希様、地上は私にお任せくださいませ!」
「──馳せ参じたまえ、ビャッコ!」
そして、肌で感じた妖力通りに様々な妖怪が墓地に出没していた。スザクとビャッコが次々と妖怪を殲滅していく中、千羽は上空から事態を静観している。紅葉は辺りを見回してたどたどしく九字を切っている。
結希は火影からまったく視線を逸らさず、自分以上の体格を持つ鴉天狗に攻撃を仕掛けていく彼女の勇姿を認め続けた。
「はぁあっ!」
金剛杖で鴉天狗の脳天を殴り、そのまま地上へと突き落とす。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
結希は火影に合わせて九字を切り、生まれて初めて火影から受け取ったバトンにじんわりと胸が熱くなるのを感じた。だが、そうしているのも束の間火影は上空から落下する。気力を振り絞って墜落は免れたが体力を大幅に削られたようだった。
「火影!」
百妖姉妹と違って戦闘に不慣れなはずの火影は何度か深呼吸を繰り返す。地面に膝をつく彼女の背中を軽く擦り、不慣れながらもスザクとビャッコの連携によってなんとか凌いでいる紅葉に視線を送った。
「火影のことはいいから、姫様を……」
「本当に危なくなったらなんとかするよ」
だから今は、火影の傍にいる。
火影は疑わしそうに結希を見、まったく緊張感のない表情に安堵したのかその場に横たわった。視線を落とすと、強ばった体を緩めて楽な態勢をとる火影の寝顔が視界に入る。
急いでいるのはわかっているが、このままでは飛べないだろう。舞台のことも考えると違う手段で戻った方がいい。
「千羽!」
近づいてくる千羽に相談し、「タクシーでいいんじゃない?」と返した彼に従ってすぐさま電話をかけ。なんとか妖怪を倒して戻ってくる紅葉の凍った表情を見て首を傾げた。
「火影ちゃんは無事だよ。疲れたみたいだからタクシーで向かおうね」
「ほ、本当に……?」
「僕は嘘をつかないよ」
千羽の言葉にようやく安堵し、紅葉は表情を緩ませる。
嘘つきばかりが蔓延るこの世界で唯一信じられる正直者の千羽は笑い、ビャッコに火影を預けた。
「火影を頼む、ビャッコ」
「任せて結希!」
軽々と火影を抱き寄せるビャッコは、紅葉を連れて山を下りる。
「結希くんは行かないの? タクシーなら一緒に戻れるよ?」
「いや……」
「わかった。じゃあ先に戻ってるね」
千羽は唯一の出入り口がある方角を見、去っていく前にこう告げた。
「久しぶりに妖怪との戦闘を見たけれど、紅葉ちゃんも結希くんも、ビャッコもスザクも……とってもとっても強くなったね。いい連携だったよ」
黙しながら小さくなっていく千羽の後ろ姿を見送り、結希は「結希様?」と様子を伺うスザクを連れて紅葉が倒れていた墓石の前に移動する。
そして《結城家之墓》と彫られた墓石を見、その側面に彫られた千羽の名前を見てすべてを察した。
これは、千羽の墓だ。
「どうかなされたのですか?」
「いや、別に。少し気になっただけだから」
戻ろう。走れば公演の時間には間に合う。
そう思って足を向け、結希はある妖力が自分の領域に入ったことを察知する。これは、この妖力は──。
「……来る」
「来る?」
きょとんとしているスザクには気づきようがない陰陽師の妖力が、次第にこの墓地へと侵入してくる。
『副長の家族? 両親は百鬼夜行で亡くしていて、一人っ子だって聞いてるけど?』
『他には何か聞いていませんか?』
『今聞いてみたけど叔父夫婦も従弟もみんな百鬼夜行で亡くなっちゃったんだって。祖父母はご健在みたいだけど』
なんで本人に聞いたんだとメッセージに向かって怒りそうになったが、結希はアリアに礼を言ったのを思い出す。
知りたいことは知れた。けれど何もわからない。
そんなままに、結希は末森と対面した。




