十五 『蒼き火は影を生み』
鴉天狗の半妖である火影は、結希の指示に従って進行方向へと体を向ける。六月に一度だけ抱えられたことがあるが、一反木綿の鈴歌に慣れている結希にとってそれは相変わらず気恥しいものだった。
「場所は百妖家周辺にあるあの墓地だ。わかるか?」
「当然です」
短く答え、火影は険しい表情でその方角を睨みつける。目の下のくまに若干の涙の跡をつけ、これから舞台だというのに掻き乱される彼女の心に結希の方も心を痛めた。
二人の事情を考えると、どちらが善とも悪とも言い切れない。和解する為には二人がお互いにどこかで妥協する必要があるのだと結希は思う。
「火影」
愛果には口出しをしない方がいいと言われているが、どうしても気になることがあって結希は思わず口を開いた。
「紅葉には、自分の本名を告げないのか?」
告げていたら、少しは何かが変わるかもしれないのに。
お互いからお互いの悪口を聞いたことはあまりないが、敵対する結城家と百妖家の確執や、間宮家の呪いが関わっていることは間違いない。
敵対していたから主役に抜擢され、今回の確執が露見した。紅葉の中に流れる血が、〝何か〟──いや、〝鬼〟に呪われているから同じ〝鬼〟との仲を引き裂かれた。
結城紅葉と鴉貴火影であっても根本的な解決にはならないが、そうだったら何一つ露見しなかったのもまた事実で。結希は視線を火影に留め、微かに匂うラズベリー系の匂いに気がついた。前はベリー系だったのに、何故か紅葉のラズベリー系の匂いに似ているような気がして眉間に皺を寄せる。
「告げません。それが規則ですから」
本名を告げたことを悔いているのか、険しさの中に不快さを混ぜ込んで火影は吐き捨てた。
「規則を破ると秩序が乱れます。その日が来るまで誰も漏らしてはいけないことなんです」
「じゃあ、俺なんかに告げて良かったのか?」
「良いわけないじゃないですか。でも、本当のことを言わないといとこの人は帰ってくれなかった。違いますか?」
結希のことを知っているからこそ、火影は隠していた真実を告げたのだ。信じているからこそ告げたのだ。そのような旨のことを言って、火影は結希を抱える手に力を込める。
「でも、言わなければ良かった」
「俺は誰にも言わないよ」
「そういうことじゃないんです、いとこの人」
心外だ、そう思った直後に黒い羽根が地上に落ちた。
「……いとこの人が名前を変えずに、間宮のままでいてくれれば良かったのに」
ぽつりと、流れるように言葉も零れた。
「……は?」
火影はきつく唇を噛み締め、墓地一点にただただ向かっていく。九月中旬の上空は肌寒く、吐く息は白く。眼下に広がる陽陰町を見、結希は再び今にも泣きそうな火影を見た。
「なんで……」
なんで火影が、亜紅里とまったく同じことを言うのか。
「いつか必ず後悔しますよ。百妖家に関わってしまったこと、すべて」
間宮家の血が流れている結希と百妖姉妹にも、いつか紅葉と火影のような別離を味わう。それはわかるのに、火影の言うことはそれとはまったく関係のないようなことのように思えて。
「火影の本名は忘れてください、いとこの人。いとこの人は……どうか、優しい嘘の中で生きてください」
火影の、珍しく崩れた弱りきった微笑に力が抜けた。
ラズベリー系の匂いが風に運ばれて鼻腔を擽り、目を閉じれば紅葉がそこにいるような錯覚に陥る。火影が香水を変えたのはそういうことなのだろうか、そう強く思えるほど火影は紅葉に執着している。
優しい嘘。そして、偽りばかりが蔓延るこの世界で一体何を信じればいいのか。
一瞬にしてわからなくなって、結希は下降する火影に身を任せた。風が全身に冷たく強く当たり続け、同じく身を縮める火影は場所を選んで開けた森の中に着地する。
「忘れないよ」
火影から離れ、墓地の方に視線を向けた結希は告げた。漆黒の翼を綺麗に畳み、同じく墓地の方へと視線を向けて一歩も動けなくなった彼女は僅かに拳を握り締める。
「…………火傷しますよ」
そして、自ら撒いた種であることを自覚しながら忠告した。
「蒼生さんに初めて会った時、あの人俺になんて言ったと思う?」
「…………兄さんが?」
瞬間、意図しなかったが火影が蒼生を〝兄さん〟と呼んでいることを知って結希は僅かに眉を下げた。
「『何よりも結希君は、この世でたった一人しかいない俺の妹の命を救った恩人だから』って。六年以上も一緒に暮らしていない、名字だって違う火影のことをそういう風に思ってた。俺のことをそういう風に覚えていたんだ」
そして、火影の瞳の中にいる自分と同じような表情を火影がしたのを結希は見た。
「家族だってことを隠さなくちゃいけなかったのに、あの人隠しきれてなかったんだよ。俺には妹がいるんだって、俺に言って良かったのか? 俺だから言いたかったんだろ? 妹がいるって。その妹は俺の血の繋がった従妹の従者で、戸籍上の従妹だって、本当は最後まで言いたかったんだろ?」
その瞳が揺れる。
「そうまでして伝えたかったことを忘れるなんて絶対無理だし、火影も蒼生さんを〝兄さん〟って呼んじゃってるだろ。二人とも〝家族〟だってこんなにも言いたがってるのに、何が規則だからだよ。そんなのもう破っちゃえよ」
紫色の宝石はただただ悲しそうで、そんな顔を火影がすることは滅多になくて。やがて火影は首を左右に振り、頑なに規則を破ることを拒んだ。
「火傷をしてもいいのなら、火影から言うことは何もありません。ただ、じゃあ……絶対に後悔だけはしないでください。約束してください、二人だけの秘密にしてください。墓場まで持っていってください」
「持ってくよ、墓場まで」
遠くに位置する墓地を指を差すと、火影は怒ったように眉を吊り上げる。そして、冗談だと謝って墓地へと歩を進めた結希を引き止めた。
「姫様は……無事ですか?」
「妖力だけじゃなんとも言えないな」
ただ、千羽がすぐ傍にいることを信じているから焦りはない。ますます青白くなる火影の顔色を見て安心させるように慰めるが、火影は「気休めはいらない」と突っ撥ねて結希に先に行くよう促した。
「行かないのか?」
公演の準備までまだ時間があることは確認済みで、そういう意味でもまったく焦っていない結希は首を傾げる。
「姫様は……火影のことがきっと嫌いなので」
だがすぐに彼女の葛藤に理解を示し、紅葉との会話を思い出した。
『火影はくぅのこと、嫌いになっちゃったのかな?』
痛々しく問うた紅葉にそんなことはないと答え、逆に火影が嫌いなのかと問うた結希に紅葉は不貞腐れながら──
『嫌いじゃ、ない』
──そう答え。
『でも好きでもない』
直後にこう言った。
似たようなことを気にする二人は実は仲良しなのではとも思うが、感情のままにぶつかる紅葉と何を言われても感情を顕にさせない火影が本音をぶつけ合ったことはなく。
『あんなつまんない人間なんか、好きになんない』
紅葉という強烈な光を前に自らの思考を放棄してしまった火影という影を見下ろし、結希は黙って頬を掻いた。
「時々忘れるんだけどさ、俺、スザクが誇れるような陰陽師になりたいんだよ」
「……は?」
ぽかんと、虚をつかれたような表情で火影は結希を見やる。
「火影は紅葉が誇れるような従者だったか?」
何を言っているのか。一瞬だけ怪訝そうに顔を顰め、火影は唾を飲み込んだ。
「奴隷を連れて、紅葉は周りに誇れるのか? 〝誇り〟を忘れた人間を連れて、紅葉は周りに誇れるのか? そんな従者を傍らに連れて、紅葉は千羽よりも立派な後継ぎになれるのか?」
紅葉の望みとは少し違うが、火影の望みは間違っている気がする。ずっと感じていた二人への違和感は、なんとなく口にした自分自身の望みに近いものがあった。
「別に紅葉は火影のことを嫌ってないよ。けど、自分の背中を倒れないように支えたり、身の回りの世話をするだけの従者は紅葉にはもう要らないと思う。これからの紅葉に必要なのは、心が折れそうな時に励まし合ったり、困難に出会った時に一緒に立ち向かったり……そんな、誰かだと思う」
「……それが、姫様が胸を張って誇れる従者の姿ですか?」
「少なくとも前者よりは」
確実に面白い人間になれると思う。
余計なことを言わないように言葉を飲み込み、結希は火影の反応を待った。
「一番の悲劇は、意思疎通ができないまま物語が進むこと」
俯き加減に呟かれた、誰の受け売りかまったくわからない内容に今度は結希が虚をつかれる。
「姫様はもう、火影が知ってる姫様じゃないんですね」
そして、すとんと何かが腑に落ちた。
自分の記憶にない少女が夜な夜な独りで啜り泣いている。そんな彼女の幸福を願い、守りたいと本気で思わせた最初の人間が紅葉なのだ。
哀れな少女に寄り添うだけの時代は終わり、かつての千羽と同い年になった紅葉は再起を図っている。そんな紅葉の変化にようやく気づき、結希は一人息を漏らした。
「いとこの人に守ってもらって、いとこの人が傷つかないように守る決意をして、いつの間にかまた守られるようになったように──姫様も、火影も、貴方がかつて間近で見せてくれた成長をする時なんですね」
ほぅっと温かな息を吐き、顔を上げた火影の表情は晴れやかで。紅葉が本当に望む関係にはなれずとも、それに近しいものになれるようにと後は祈るだけだった。
「……いとこの人って」
瞑目し密かに手を合わせて祈っていると、困ったような感情を込めた火影の声が近くから聞こえる。
「基本的には奇行しかしませんけど、本当にかっこ悪い姿は見せないですよね」
瞳を開けると、いつの間に寄ってきたのか間近で結希の顔を見上げる火影と目が合った。
「き、きこう……?」
「それはちょっとかっこ悪いですよ」
小馬鹿にしたように笑って、意を決したのか火影は墓地の方へと歩いていく。校舎で火影と出逢ってからまだ二十分も経っていないのに、妙に長かったような気がして結希は駆け足気味に追いかけた。
あえて小道を避けたのか、本当に森の中に着地した火影と共に普段ならありえない場所から墓地に出る。
森の中とはいえ端が見えないほど広大な墓地の中央に浮く千羽を見つけた結希は視線を落とし、墓石の前で倒れている紅葉を視認した。




