十一 『一人も欠けずに集まれる日』
ゆるやかな坂の上に聳え立つ百妖家を見上げる。帰ってきてしまった、そう思って、先陣を切る愛果と合流した椿の後ろ姿を眺めた。
「結兄ー?」
「何してんの、早く帰るよ」
不意に、先を歩いていた二人が振り返った。首を傾げる椿と、機嫌が悪そうな表情をする愛果は、立ち止まって結希のことを待っている。
「あ、はい!」
驚きながらもそう答えた。あの愛果が「早く帰るよ」と言うなんて。どういう風の吹き回しだろう。
「あれ、愛姉と結兄仲直りしたんだ! 良かった〜!」
無邪気に笑う椿を見て、「違う」と答えようとした愛果は思わず口を噤む。そしてうぐぐと歯を食いしばり、ぷいっとそっぽを向いた。
なんだかんだで妹に弱い愛果は、顔を真っ赤にさせたまま家へと走る。そんな愛果の後を、椿は慌てて追いかけた。
残された結希は、後頭部を掻いてため息をつく。
顔を上げると、蒼穹がどこまでも高く広がっていた。そんななんでもないことが、結希には逆に非日常に思えた。
リビングに行くと、愛果と椿が長いソファに寝そべっていた。
二人とも動物番組に夢中で、結希の方を見ようともしない。その寝そべり方はあまりにも大胆で、二人の太腿のつけ根辺りが顕になるほどだった。
「ッ!?」
慌てて視線を逸らす。
幸いなことに誰も結希の目には気づいておらず、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間──逸らした先には、牛乳をこくこくと飲む心春がいた。
目が、合って。まばたきをして、目が合って。
ぷっと牛乳を吹き出した心春は、顔色を赤くさせたり青くさせたりを繰り返した。
「けほっ、けほっ!」
可愛らしく咳き込んで、息を整える。本当は背中を擦ってあげたかったが、踏み留まる。すると、心春の咳がハリネズミに夢中になっていた愛果と椿の耳に届いた。
「心春、大丈夫か?!」
「放っとけばすぐに止まるでしょ」
ただ、傍に行って背中を擦るほど二人は気配り上手ではなかった。
愛果の言う通りすぐに咳が止まった心春は、膝まである緋色のスカートを握り締める。そして、大きく息を吸い込んだ。
「おっ、おおおお!」
「心春ちゃん?!」
どこかの回線がショートしたのか。急に叫び出した心春はどこか焦っているようだ。
「とりあえず落ち着いて! ほら、深呼吸!」
こくんと頷いて、すぅーはぁーと素直に深呼吸をする心春は顔色を元に戻す。元々病的なほどに色白に見えていたから断言はできないが。
「どう?」
尋ねると、愛果は唇を尖らせて腕を組んだ。
「アンタ、なんかウチと態度違くない?」
「愛果さんは年上で心春ちゃんは年下ですからね」
面白くなさそうな表情の愛果を見もせずに答えると、心春は改めて結希を見上げ、恥ずかしそうに俯いた。
「……お」
そして透き通る声を鳴らす。心春の気持ちと今朝の出来事を考慮して、見守りながらも彼女の言葉を待つことにした。
愛果と同じように椿まで聞き耳をたてる頃
「…………ぉ……に……ぃ…………ごめんなさい」
しゅん、とした心春が頭を下げる。何が、と言わなくてもわかった。今朝の出来事だ。今にも泣きそうな心春は、ずっとそれを謝りたかったのだろう。
「心春ちゃん、顔を上げて」
できるだけ優しそうな声を出した。すると心春は、涙目になっている若草色の瞳を見せる。
不意に、昨夜の麻露の願いを思い出した。
迷う。本当に麻露の願いが正しいのだろうか。
「……お、お兄ちゃん」
耳を疑った結希は心春の桜色の髪を見て、すぐ下の若草色の瞳を見て。色白の心春の肌は、今度は真っ赤に染まっていた。
怖いはずなのに、自分のことを「お兄ちゃん」と呼んだ心春。そんな彼女の誠実さを受け止めて、それに応えなければならないのだと一瞬で思った。
「謝らなくていいよ」
一歩ずつ近づく。心春の顔が歪んだが、足を止めることはしない。
「俺の方こそごめん」
殴られてもいいから、妹への想いが詰まった麻露の願いを聞いてあげたい。
殴られてもいいから、心春を恐怖から助けてあげたい。結希が手を伸ばすと
「きゃぁあぁぁあぁ!」
容赦ない拳がみぞおちに入った。
「ぐぉ……?!」
朝食をとったテーブルから、愛果と椿が座っているソファの前まで吹き飛ばされる。溺れた人のように空気を肺へと送り、必死になって腹部を擦った。
「……アンタバカ?」
「結兄ぃぃ〜〜!」
「ごめんなさいっ、ごめんなさいぃぃぃぃ!」
金、赤、桜色の髪をした三人は、それぞれ床で悶えている結希を見下ろす。
「……だ、いじょ……ぶ」
なんとかそう声に出し、起き上がった結希は絶対に苦痛で顔を歪めることはしなかった。
ちょうど終わった動物番組のテーマ曲が空気も読まずにリビングに流れ、愛果は姿勢を正す。そのまま「で、さっきの話の続きなんだけど」と足と腕を組んだ。
結希は真顔で頷いて、あまり考えないようにしていた結界のことを考える。愛果と結希のただならぬ雰囲気に、椿と心春は顔を見合わせて表情を曇らせた。
「あー……のさ。よくわかんないけど、アタシら出ていった方がいい感じ?」
まだ何も知らない椿は、頑張って気を遣おうとしたのだろうか。律儀にコップを洗っていた心春もこくこくと頷く。
「ここにいて。全員にも知ってもらうことだからさ」
心春をソファに座るように促した愛果は、同じく座ろうとした結希を手で制した。
「アンタは待って。まだ上に鈴姉と朱亜姉がいると思うから、二人を呼んできて」
「って、あれ? 月夜と幸茶羽はどうしたんだよ」
「二人なら遊びに行くって。つば姉たちが帰ってくる前に出てったよ」
心春の言葉に頷いた愛果は、この中で一番の年上という自覚があるのか大人びた表情を見せていた。
「俺たちだけならまだわかりますけど、今いる全員にも話すんですか? 全員集まった時の方が……」
「ウチらが一人も欠けずに集まれる日なんて、ない」
愛果は結希の疑問を遮って、静かにそう呟いた。
椿も心春も、愛果の言葉に黙って頷いて俯いてしまう。彼女たちのその雰囲気を敏感に感じとって、結希はそれ以上聞くのをやめた。
「わかりました。じゃあ、二人を呼んできます」
「頼んだ。四階の一番奥の部屋が鈴姉の部屋で、その手前が朱亜姉の部屋だから」
結希は頷き、リビングから出て階段を上る。
『ウチらが一人も欠けずに集まれる日なんて、ない』
愛果の声が、愛果の言葉が、脳内で何度も再生されていた。
仕事で忙しい人もいる。妖怪から町を守る為に、夕方には何人かいなくなる。
それでも、あんなに苦しそうで辛そうな表情をするのだろうか。
十一歳までの記憶がなく、親は離婚し、自分を引き取った母親は仕事が忙しいという理由で結希は一人で家にいることが多かった。
結希にとって一人は当たり前。けれど、この家の姉妹たちにとってはそうじゃない。
それが違いだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
朱亜の部屋の前に来る。どの階にも部屋は五つあり、隣は熾夏の部屋だった。生まれた順で部屋が決まっているらしく、結希の部屋は幸茶羽の隣になっている。
「朱亜さん?」
ノックをしてみるが、反応はなかった。もう一度ノックをすると、しばらくして小さな物音がした。
「朱亜さん、どうしたんですか?」
『入っていいぞい』
扉の向こうから朱亜の声がして、結希はドアノブを回す。部屋の大きさはどの部屋も変わらないはずなのに、朱亜の部屋は壁一面本棚に囲まれていて異様に狭く感じた。
「こんなに本が……」
「本がどうしたのじゃ?」
正面を向くと、朱亜は折りたたみ机に乗ったパソコンの前でゲームをしていた。背中を結希に見せたまままったく振り返る気配はなく、画面に集中している。
「……たくさんあるんですね、本」
「わらわは本が好きなのじゃ。それに、小説家でもある。本がたくさんあるのは必然じゃな」
何冊かの本が本棚に入りきらずに床に置かれていた。その中の一冊を拾うと、それは使い古された古文の教科書だった。
「これ、うちの学校の教科書じゃないですか」
「そうじゃが?」
「まだ持ってるんですか?」
ページを捲っていると、いくつかの書き込みがあった。朱亜の筆跡は綺麗で、とても書き込み程度とは思えない。
「…………捨てられないだけじゃ」
ぼそっと朱亜は呟いて、キーボードの上で踊っていた手を止めた。結希は教科書の裏表紙に書かれたその名前、〝百妖朱亜〟を見つめる。
「……そうなんですか」
ただ捨てられなかっただけじゃない。
朱亜の声からそう思った。教科書を本棚に仕舞おうとしたが、やはりどこも本で溢れ返っており入りそうにない。
「床でいい」
朱亜はパソコンから結希に視線を向けていた。
「床でいいわけないでしょう」
「床でいいのじゃ」
やけに強い言い方だった。
結希は持ち主の、朱亜の意思に押されて渋々と床に戻す。
「で、なんの用なのじゃ?」
年上でも、幼さが残る顔からは想像できない横柄な態度で朱亜は結希に向き合った。
「大事な話があるんです」
「だ、大事な話じゃと?!」
そして何故か顔を赤らめて、両手で頬を触る。頭はだいぶ混乱しているようで、〝戦国時代のお転婆なお姫様〟から〝お転婆〟のみが抜かれたかのようだった。
「はい。リビングに来てください」
「リ、リビング? 何故じゃ、大事な話じゃろう?」
「え? 大事な話だからに決まってるじゃないですか」
結希はまばたきをして答えた。
朱亜は何か勘違いをしているような気がする。終いにはぶつぶつと呟いて勝手に話を進めていた。その想像力はさすが小説家と言うべきか、根本を見れば妄想癖が激しいと言うべきか。
「先に行っててください。俺は後で行きますから」
「ま、待て! いくらなんでも変じゃ! そんなこと……」
「……朱亜さん?」
「んむ! え、えっと、なんじゃ! うむ!」
「だから、先に行っててください。俺は後で行くので」
「り、了解した!」
朱亜は顔を真っ赤にさせたまま階段を下りていった。その背中を見届け、四階の奥の部屋──通称要塞に目を向ける。
(後は鈴歌さんだけか)
朱亜の時と同じように名前を呼びながらノックをしてみたが、鈴歌からの返事はなかった。
それどころか、人がいる気配さえ感じなかった。




