九 『その涙は紅葉の如く』
待っていた千羽は諸々の事情を察したような口調で追い返された結希を励ましていたが、結希は何一つ腑に落ちていなかった。
百妖火影の本名は、鴉貴火影である。
そう言われ、すぐさまそれを理解できるほど結希は物事を知っているわけではない。
火影が百妖の人間でないと言うのなら、彼女と百妖姉妹との血縁関係はいとも容易く途切れてしまう。そういう縁であることに気づくほど、結希は百妖姉妹と火影の言動にまったく違和感を感じなかった。
夜が更けて、帰宅した結希は千秋と朝羽、そして涙に千羽のことを話す。
彼らは帰宅が遅かった結希を咎めようとして、言葉を失い、すぐさま結城家を飛び出していった。
この家には今、眠りにつく紅葉と風呂を済ませて寝支度をする結希しかいない。
布団を被り、中で丸まり、結希は気がついた。
鴉貴家も半妖の一族なのだという、ごく当たり前の真実に。
『全部ではない。…………白院家と百妖家のみだ。貴様の親族の結城家は半妖ではないだろう』
それは、《十八名家》はすべて半妖の一族なのかと問うた結希に対するヒナギクの返事だった。そしてそれは亜紅里が半妖の裏切り者であると仮定した時に露見した嘘である。
『あぁ、確かに言ったな。だが、最初から阿狐家はないものとして考えていた。《十八名家》とは言うが、今では十七家で陽陰町を支えている。これは……二家と同じ力を持つ阿狐家の人間が表舞台に戻っていながら、半妖の可能性について考えようとしなかった私の思慮のなさが原因だ。すまなかったな、副会長』
そしてこの時も、ヒナギクは僅かではあるが言い淀んだ。
鴉貴家という可能性が出てきてから、ヒナギクの半妖についての発言が瓦解していく。
百妖家。白院家。阿狐家。そして、鴉貴家。
彼らが本来の半妖の一族であるとするのなら、ヒナギクは何故鴉貴家のことを黙っていたのだろう。
何故黙る必要があり、何故妹の──火影の命の恩人だと結希に言った蒼生と火影が離れ離れで暮らす必要があるのだろう。
疑問は尽きない。
眠る余裕もない。
刹那、ひたひたとした足音が結希の耳に届いた。足音は結希の部屋の前で止まり、遠慮がちに障子が開かれる。
「……にぃ」
それは紅葉だった。
「起きてる?」
「あぁ」
布団を剥いで体を僅かに起こすと、月明かりを背負った紅葉がそこに立っていた。
枕を抱き締め、パジャマ姿の紅葉は不安そうに結希を見下ろしている。
「どうした」
「…………」
紅葉は俯いたまま何も答えなかった。結希は体をきちんと起こし、紅葉が近づいてくるのを待つ。
「どうした?」
もう一度問うた。紅葉は口を閉ざしたまま答えない。
「火影のことか?」
こくりと、目の前に座った紅葉は頷いた。
結希は息を漏らし、肌寒い中一人でここまで来た紅葉に布団をかける。布団から顔を覗かせた紅葉はおずおずと結希を見上げ、その内の半分を結希にかけた。
「一緒に寝て、いい?」
断れなかった。
そんな状況を作ることが誰よりも得意な紅葉だが、今回のこれにはそのような意図がまったく感じられない。結希は頷き、紅葉が入るほどの空間を空けた。
紅葉と火影を百妖家で預かっていた六月のあの頃、あてがわれた部屋からこっそりと抜け出していた紅葉は結希の部屋を度々訪れていた。
そしてあの部屋で千羽との思い出話を聞かされて、結希はそこで、見ず知らずの千羽のことを紅葉から教わっていた。
「火影は見つかったの?」
「……いいや」
そう答えることしかできなかった。
結希は上から押さえつけるように自分に釘を刺した火影を若干恨み、それでも彼女の意思を尊重する為に首を横に振る。
「にぃ」
ぎゅっと、紅葉が布団の中で両手を握り締めた。
「火影はくぅのこと、嫌いになっちゃったのかな?」
その手が真っ赤に染まって、結希はそっと視線を逸らす。
「嫌いにはなっていないと思う」
火影を目にした時、紅葉を語る時の彼女の瞳は優しかった。強ばった表情であっても、目は口ほどに物を言う。
火影は紅葉を愛している。
誰が見ても明らかなほどに、その想いに偽りはない。
「本当に?」
「紅葉は火影が嫌いじゃないのか?」
紅葉は再び黙った。
結希と同じように視線を逸らし、唇を尖らせて思い切り引く。
「嫌いじゃ、ない」
「じゃあ」
「でも好きでもない」
紅葉は不貞腐れていてそっぽを向いた。
「あんなつまんない人間なんか、好きになんない」
火影をつまらない人間にさせた眩いほどに人を惹きつける能力を持つ紅葉は、今でも孤独と戦っている。
同じ布団に入って温もりを共有する結希は、紅葉の複雑な心境をわかろうとして理解することができなかった。
好きにはなれないが、嫌いにはなって欲しくない。
つまりはそういうことなのだろう。なんとも人間らしい思考回路だ。
「友達になりたいんじゃなかったのか?」
「今の火影とはなれないでしょ? にぃも見てたじゃん」
結希は一瞬だけ息を止め、「あぁ」と言葉を漏らした。
『火影は姫様の従者。姫様とは決して対等な関係になってはならない。……例えそれが、演技であっても』
そう言った火影とは、どれだけ紅葉が望んだとしても〝本物〟にはなれないのだ。
どのような星の下に生まれれば、そのような価値観の相違が生まれるのだろう。
どのような生き方をすれば、そのように大きな亀裂が生まれてしまうのだろう。
痛ましいくらいにすれ違う。
紅葉が結城家で火影が百妖家である限り、それは永久に続いていくのだろう。──本来であれば、火影は鴉貴家の眷属なのに。
それが結希にとって死ぬほど歯がゆく、同時に死ぬほど悔しくもあった。
「年が近い心春となら、友達になれるんじゃないか?」
だが、友人関係は火影以外とでも結べる。
六年分の記憶しかないが、年上として──そして、千羽や涙の代わりとなる兄として、結希は些細なアドバイスをする。
心春も百妖家だが、彼女は心優しい子だ。決して火影が心優しくないとは言わないが、心春とならば上手くやっていけるだろう。
そう思ったが、紅葉は結希の思いとは裏腹に首を横に振った。
「嫌。くぅは心春のことが世界で一番嫌いなの。にぃだってわかるでしょ?」
「わかるって?」
少しだけ声色が低くなった。
心春は結希の大切な義妹だ。そんな彼女を、何故紅葉は世界で一番嫌うのだろう。
「……あの日心春が誘拐されたから、涙は〝にぃ〟を助けられなかった」
ぽつりと漏らされたその言葉は、よくよく考えれば何も間違ってなどいない事実だった。結希は不意に、誘拐された心春を全力で捜索していたという涙の悲劇を思い知る。
涙の悲劇はそれだけではない。なのに今、さらなる悲劇が重なって涙を苦しめている。
「涙は、心春を助ける為に……生徒会として町中を移動していたの。〝にぃ〟とくぅの傍には、いてくれなかったの」
手探りに伸ばされた手が結希の手を掴む。
「〝にぃ〟が目の前で死んじゃって、にぃが来てくれて、くぅを助けてくれた。にぃはくぅを閉じ込めてどっかに行っちゃって、そうして百鬼夜行は終わったの」
きゅっと、縋るように握り締められた。柔らかくて、小さくて、弱々しい少女の手だった。
「涙だけが、何もしなかった。家族の為に何もしてくれなかった。〝にぃ〟たちを涙は助けてくれなかった。くぅを助けてくれなかった。その原因を作ったのは、心春でしょう?」
違う。
「心春だって、誘拐されたくてされたわけじゃない」
「そんなのはくぅだってちゃんとわかってる。心春も怖かったってことくらいちゃんと想像できる。……でも、くぅたち家族を壊したも同然のことをしたのは、心春だもん」
だから許せない。
結城家と百妖家の確執は、こんなところにも及んでいた。
「心春のせいじゃない」
「心春を肯定しないで」
「心春がいなくても、涙は生徒会として俺たちの傍にいることはできなかったはずだ」
「そんなもしもの話をしたって仕方ないでしょ。くぅは、あったことを言ってるだけ」
結希は乾いた喉に唾を流し込んだ。闇夜に小さく、「にぃ」と呼ぶ声がする。
「……お願いだから、にぃだけはくぅの味方でいて」
百妖家の味方をしないで。くぅの知っているにぃでいて。優しい人にならなくていい。温かい人でいて。
たったその一言で、それだけの情報量の願いを突きつけられたような気がした。
「紅葉」
持ってきた自身の枕に突っ伏していた紅葉が自分の方を向く。
彼女はやはりと言うべきか泣いていた。その涙はとめどなく流れ、紅葉の頬を伝い、何もかもを濡らしていく。それは、紅葉が流した血も同然だった。
「俺は、紅葉だけの味方にはなれない」
そんな紅葉にこのことを突きつけるのは残酷だった。
「あの人たちの苦しみを知ってしまったら、もう元には戻れない」
愛果の弱さも。
歌七星の願いも。
心春の痛みも。
鈴歌の自己犠牲精神も。
朱亜の涙も。
和夏の孤独も。
結希はもう、後戻りできない程度に知ってしまっている。
それはきっと、麻露も、依檻も、真璃絵も、熾夏も、椿も、月夜も、幸茶羽も抱えているものだ。
「この現世は俺たちだけの世界じゃない。色んな人がいて成り立つ世界なんだ。そんな自分本位な考え方じゃ、この国の王には決してなれない」
紅葉の唯一であり絶対的に未熟な部分。それが今、目の前に剥き出しになって捧げられている。
「──人を愛せ」
それが今、紅葉にとって必要なことだと結希は信じていた。
紅葉は泣きながら首を横に振って、唇を噛み締める。
彼女は他人の幸せを心から願えない。自分の幸せを欲することは決して罪深いことではないが、それだけに目を奪われている。
「こんなの、くぅの知っているにぃじゃない……」
「そう思うなら、それが答えだ」
百妖姉妹に出逢って、結希は変わったのだ。
紅葉と火影の決別は、起こるべくして起きた出来事なのだろう。
「俺のようになれとは言わないし思ってないけど、今のままじゃ火影との関係は平行線を辿る一方だぞ」
そう思うから結希は伝える。
にぃと、ずっと紅葉に呼ばれていた。だが、兄らしいことは何一つして来なかった。
今夜の出来事で兄らしいことが言えたなら、それは多分、千羽に出逢えたからだ。
「紅葉」
「……何」
「千羽に会いたいか?」
だから結希はそう問うた。




