七 『星を読む少年』
今さら疎遠になんてならない。何よりも大切な数少ない家族だから。
『俺は絶対にどこにも行かない。だから、母さんに会いたかった麻露さんの気持ちもちょっとだけでいいからわかってあげてくれよ』
結希がそう言ったのは、六月の頭のことだった。
『……わかんない。にぃの言うことでも、そんな身勝手な気持ちでにぃに危害を加えた奴のことなんて絶対にわかりたくないっ。それに、百妖と結城は昔からこう。絶対にわかり合えない正反対の政治家同士だもんっ』
そして、それに返答した紅葉の言葉を思い出す。
百妖家と結城家は、絶対にわかり合えない正反対の政治家同士だ。千年前からの常識が、今さら──偽りであっても家族になった程度で覆るはずがなかったのだ。
結希は息を零し、当時紅葉にそう言わせてしまった根本の出来事を辿る。視線を上げると、アリアが直したと思われる結城家の天井が視界に入った。
視線を下ろし、目の前にある麗夜から送られてきた解説書を読む。夏休み中に解いた問題集はほとんどが間違っていたらしく、小言を言うような麗夜の解説は面白おかしくもあり勉強にもなっていた。
「結希くん」
突然の呼びかけに振り返ると、障子の奥で影が動く。
「我の為に時間を少々作って欲しいのだが、良いだろうか」
そう尋ねた男性の声は、懐かしい声で。
「千秋さん?」
障子を開けた結希は、珍しくスーツを着用した千秋を見上げた。
「どうしてここにいるんですか? 黄昏時から家にいるなんて珍しいですね」
「涙くんに無理を言っての? この後の予定を潰してもらったのだ」
「何してるんですか町長」
「秘書が優秀だと上司は楽であるのぅ」
愉快そうに笑う千秋の意図がまったく読めない。
結希は唾を飲み込み、千秋を部屋の中へと招き入れた。
座布団に座った千秋は凛々しく、結希は血縁関係のない伯父を正面から見据える。
祖父による政略結婚で親戚となった結城家の現頭首は、迷いのない薄花色の瞳でまっすぐに結希を見据えていた。
「今年の四月に、涙くんがアメリカから帰国したことは覚えておるかの?」
「はい。熾夏さんの付き添いで涙がアメリカに行ってたんですよね?」
「うむ。そして、町外で最初に妖怪を発見したのも涙くんなのだ」
結希は眉間に皺を寄せ、千秋が語る事の引き金となった出来事に耳を傾けた。
熾夏と共に陽陰町へと戻る途中、涙は妖怪を見たと言う。千秋はそれを疑ったが、涙のことは決して疑わない。すぐに京子を町外へと向かわせ、その事実を確認したと言う。
それから間を開けずに全陰陽師を召集し、町外の調査を決行。結希は朝日の独断で結城家ではなく百妖家へと送られ、学園の結界が破られていることに気づく。
しかし、力のある陰陽師は皆町外に出払っていた。
「我らは……我は、油断しておった。常識を疑わず、不測の事態を予想できなかったのだ」
「俺たちは平和ボケし過ぎたんですよ。何かなんて起こるわけがないと決めつけて、思考することを放棄していた」
「うむ。それが我ら陰陽師の汚点であり、責められるべき点である」
千秋は素直にそれを認め、五月の件にも言及した。
「我の采配のせいで、五月も結希くんには迷惑をかけたのぅ」
「迷惑だとは思ってないです。俺も陰陽師の一員ですから」
「あれだけ責められて、それでも一員だと言ってくれるのかのぅ?」
「……あぁ」
結希は言葉を止め、狂った彼らの非難の声を嫌でも思い出す。
同類だと思いたくない。だが、本当の家族が、仲間が、陰陽師としての自分を必要としてくれているのなら──そう言い続けて前を向いていた。
「ここからいい方向に変わる努力をする。あの時、そう言ってくれたこと──我は陰陽師の王として深く感謝しておる。そして、千羽のことを思い出してくれたことも、痛いほどに」
いつの間にか伏せていた視線を上げる。
この胸の痛みは、まだ消えない。それは自分だけじゃない。そう思えるから前を向ける。
「今日からちょうど三ヵ月前、一体何が起こったか覚えておるかの?」
「亜紅里が逮捕された、それしか覚えていません」
喉に突っかかることなく吐き出された言葉は真実で、三ヵ月前の痛みも真実だ。
「それしかないのぅ」
千秋は頷き、自分を守るように腕を組んだ。
「まさか、頼くんが黒幕だったとは」
「やっぱり知り合い、ですよね?」
同じ《十八名家》の頭首として──
「同級生であるからな」
──いや、二人はそれよりも深いところで繋がっていた。
「我にはわからぬ。頼くんの思惑が、何一つ。頼くんの妖力を感じたあの日も、君の家が襲撃されたあの日も。何一つ我にはわからぬよ」
結希は頷き、恐らく同じ生徒会役員であったかつての頼と千秋を思い浮かべる。
次に生徒会室を訪れた時、彼女の顔を確認しなければ。
そもそも何故あの時確認しなかったのか後悔していると──
「して、本題はここからであっての?」
──千秋は長き前置きを締めて膝の前に手をついた。
「我らがわかっていることは、月に一度何かしらの行動を起こしてくることだけなのだ。何故月に一度なのか、今月は何があるのか。我らの方で調べていたが、それももう限界に来ているのである」
そして軽く頭を下げ──
「結希くん、可能であるのなら──頼くんの星を読んでくれまいか?」
──甥の結希に懇願した。
「星……?」
聞いたことがある。確か、陰陽師が古来より行ってきたとされる占いの一つだったはずだ。
が、結希が知っているのはそれだけだ。
「我らの方でも手は尽くしたのだ。多くの文献を読み漁り、町外に出ている陰陽師にも連絡を取ってなんとか再現しようとしたのである。しかし、それは捨て去られた技術なのだ。それができたのは、千羽と──結希くんだけだったのだ」
それだけだった。
「そんなの、もう……覚えてないですよ」
声が震える。
「それでも、頼めないだろうか」
それを知っていた千羽は死んだ。
それを知っていた結希は代償としてすべての記憶を失った。
「む、無理ですよ。千秋さんたちが調べて無理だったんですよね? じゃあ俺がやったって答えは同じです。俺はあの頃ほど術を覚えているわけじゃないんです」
実際、この六年間陰陽師の術を調べていてわかったことがある。
百鬼夜行を止める術など、どこにも存在していないということに。
結希は気づいて、見なかったことにしたのだ。
「頼くんは、陰陽師を味方にしているのだ。頼くんの吉日と凶日がわかれば、今後の事件を未然に防げる──百鬼夜行も未然に防げるはずなのだ」
心臓がびくりと怯えた。
百鬼夜行。防がなければならない地獄絵図。百鬼夜行から人々を守る為に、《十八名家》が命を懸けなければならない因習の根源。
「……わかり、ました」
そこまで言われて断れるほど、結希は恩知らずでも人でなしでもない。
愛故に、六年前に亡くしたものを取り戻す。
それさえも使命だと言うのなら、目を逸らさずにやるべきなのだろう。六年前の自分に向き合う時がようやく来たのだと思おう。
「じゃあ資料を……」
そこまで言葉にして、慌ただしい足音を聞いた。
「にぃ! ッ、お父さん?!」
一瞬驚き、紅葉は息を吸い込む。
「ねぇどうしよう! 火影が家出しちゃったの!」
そして、雪崩込んで結希と千秋の間に入った。
「家出?」
紅葉は目の前に置き手紙を差し出し、ぎゅっと両手を握り締めて震え出す。視線を落とした手紙には確かに、火影が家出をするという旨の内容が書かれていた。
「これは、一体どういうことなのかの?」
「く、くぅが……くぅが火影をクビにしちゃったから……?」
「それ以外考えられないな」
火影にとって、紅葉の言葉はそれほどまでに絶対的な言葉なのだ。
それはつまり、紅葉はビャッコという式神と火影という半妖を意のままにすることができるということだった。
「探さなきゃ……!」
「待て紅葉。如何なる事情があろうとも、この時間帯での闇雲な捜索は我が許さぬぞ」
「でもお父さん、くぅのせいなの! くぅが火影に言っちゃいけないことを言ったのっ!」
取り戻さないと──。消えるように呟かれた紅葉のその言葉が、今の自分と重なった。
「俺が行く」
深く考える暇もないままに宣言し、立ち上がった結希は部屋を飛び出す。
「にぃっ?!」
「やめい紅葉! 行ってはならぬ!」
叫び出しそうな声で倒れた紅葉は遠く、千秋の張り詰めた空気がここまで伝わってくる。
どこからか秋風が吹いた。
ひらひらと、羽根のように落下している紅葉が中庭を彩っていく。その中にカラスの羽根が混じったような気がして視線を止めるが、そこにはやはり紅葉しか存在していなかった。
瞑目し、結希は火影の妖力を探す。
半妖の妖力はこの身をもって覚えている。刻み込まれた縁や土地神の風がこの町を駆け巡り──
「見つけた」
──結希はその場所へと駆けつける為、バイクに跨った。
走り出したバイクは軽やかで、紅葉の季節を迎えた陽陰町を隅々まで駆け巡る。茜色の空は紅葉をさらに紅く染め上げて、眩しさに少しだけ目を細める。
また、ひらひらと緋色が落ちた。
火影がいる場所は結城家から遠く離れた町の辺境にあり、咲き乱れるリンドウの紫色が目に優しい。何もない森に囲まれた道だが見通しは良く、どこかに植えてあるのか金木犀の匂いが香ってくる。
結希は息を吸い込み、やがてブレーキをかけた。
この辺りだ。この辺りに火影の妖力が充満している。
バイクに鍵をかけて歩き出すと、再び緋色が落ちた。ひらひらと、ひらひらと──風に乗ったそれを視線で辿って不意に止める。
「誰だ」
人影が見えた。
紅葉に隠された奥の空間に、誰かが立って結希を見据えている。
風の悪戯に流された紅葉は風の気のままに息を止め、隠していた人物を顕にし──結希は、静かに息を止めた。
「…………千羽?」
そこにいる少年は、年相応にあどけない風姿で。目の当たりにして初めて、清らかな神のような存在感に惹きつけられる。逸らしたくても逸らせない薄花色の瞳は結希が知っているそれであり、少しだけ呆けたような表情でさえ八百万の神々が宿っているように見える。
「結希くん」
声変わりしていない声は戸惑いを帯び、結希は喉に声を詰まらせた。
目の前にいる彼は、間違いなく数日前に遺影で確認したばかりの──結希の従兄、結城千羽その人だった。




