三 『〝スザク〟』
木々に隠された天は蒼穹だった。
結希は目を細め、バイクを押したままその土地に足を踏み入れる。スザクはバイクに乗り切らなかった荷物を一つだけ持ち、開けた土地に建つ式神の家へと結希を誘って無邪気に笑った。
「結希様! いらっしゃいませ!」
「あぁ」
結希も笑い、縁側へと駆けつけてきた千里に片腕を上げる。結希と同じく制服を着ている千里はいつも通りで、弾ける笑顔で結希に手を振り返した。
「百妖く〜ん!」
その声に応え、結希はバイクをその場に止める。
『ユウキ!』
刹那、日本家屋の裏側から小さな猫が飛び出した。
「タマ太郎!」
火車のタマ太郎は、昼時だからか結希の知っているサイズとは大きく異なっている。短い足を必死になって動かしているタマ太郎は愛らしく、結希は妖怪だということも忘れてタマ太郎を迎え入れた。
「あっ、タマ! ダメでございます! 結希様に飛びついてはいけません! 離れなさい!」
結希に飛びついたタマ太郎は、何度も何度も喉を鳴らして結希の肩にようやく落ち着く。その様を見ていたスザクはううぅと唸り、タマ太郎を取り上げようと何度も何度も跳躍した。
「スザク、タマ太郎だ」
「いいえ結希様、タマでございます!」
「ど、どうしてそこで張り合うんですか……?」
二人で家まで歩きながら口論をし、呆れた表情の千里に迎え入れられる。
結希はメットインスペースから取り出した荷物を軽く見せ、奥にある居間へと運んだ。
「神城さん、これ。頼まれてた物の確認を頼む」
「あ、はい。了解です。わざわざありがとうございます」
「足りない物があったら言ってくれ。すぐに買いに行って来るから」
結希はそのまま納屋へと足を向け──
「待ってください、百妖君。お釣りの方も預かります。領収書は発行していただきましたか?」
──千里に呼び止められて振り向いた。
学級委員長の仕事ではないのに予算の管理や材料の調達の指示を押しつけられた千里は、結希を見上げて少しだけ不安そうな表情をしていた。
「言われたことくらいできる。俺はそんなに子供じゃない」
不貞腐れ、娘のように思っている千里との関係のアンバランスさに嫌気が差す。
結希の方が誕生日も先だと言うのに、千里は結希のことを息子のように思っている節があった。
多分、十一歳以前の記憶がないことを誰かに聞かされているのだろう。
不貞腐れている時点で負けているような気もするが、結希は千里に封筒を差し出しゲンブを探しに行った。
『ユウキ、カナシイ?』
しばらく歩いた廊下の最中でタマ太郎に問われる。
「わからない」
結希は答え、この感情の正体を探ろうと密かに藻掻く。
『センリ、イイヤツ。ユウキモ、イイヤツ。オイラ、ドッチモスキ。ダイスキ』
「知ってるよ」
千里は優しい子だ。
生真面目で、心配性で、責任感が強くて、人一倍働き者だ。危なっかしいと思っているし、独りにできないこともわかっている。他人じゃないと思っている。
結希の式神となるはずだった先代スザクの娘だからだろうか。
心の奥底で、大事なところで、千里と繋がっているような気がしていた。
『ここにはいつでも百妖君がいた』
そう言って愛おしそうに自分の心臓に手を当てた千里を結希は覚えている。多分、結希と千里はそういう関係なのだ。
千里は、結希の内の内側なのだ。
だから壁なんて作ってもすぐに取り払われてしまうし、自分の未熟な部分も見せてしまう。その上、千里のなんでも抱え込んでしまう性格を怒りたいと思っても怒れなかった。
結希と千里は、根本がどうしようもなく似ていたから。
「タマ太郎」
『ナンダ?』
「俺はいい奴なんかじゃない」
自分の内側に向き合えず、未だに妖怪を殺しているような人間だ。
「いつかお前に連れ去られる」
『ツレサル? オイラガ?』
「それくらい悪い奴だ」
笑えなかった。
瞑目し、肩のタマ太郎の重みを感じる。
『シンダラ、ツレサッテイイ?』
タマ太郎が再度問いかけた。
「連れ去ってくれなきゃ困るよ」
他の誰とも一緒には行けない。
自分で自分が許せない。呪うことさえ許されない。地獄で罪を裁かれる以外で救われる手立てがない。
『シンデモ、イッショ?』
「一緒だ」
『ワカッタ。オイラ、ツレサル。ゼッタイ、サラウ』
結希の頬に頬ずりをして、タマ太郎は親愛を示す。火車にここまで慕われたのも、きっとそういう縁なのだろう。
死ぬ前から獲物と見なされた自分の人生がやはり可笑しい。
結希は頬を引き、目の前にゲンブの気配がして顔を上げた。柱に身を預けていたゲンブは結希を見据え、無言で眉根を寄せる。
「タマとなんの話をしてた」
そして腕を組み、結希の目の前に立ち塞がった。
「別に何も」
「嘘つくんじゃねぇよ。タマの声は聞こえなくてもお前の声は聞こえるんだ」
結希は押し黙り、ゲンブの凍てつく視線を正面から受け止める。
「──〝スザク〟を不幸にさせるな」
刹那、ゲンブの瞳が悲しみに曇った。そんなゲンブを見たのは初めてだった。
「スザクを、心配しているのか?」
それほど衝撃的だったのか、掠れた声しか出てこない。
眉根を寄せただけでは足りないのか、ゲンブはさらに顔を歪めて結希の胸倉を掴んだ。
「これ以上〝スザク〟を受け継いだ者の悲劇を見たくねぇだけだ。……胸クソ悪くなるんだよ、あいつらの泣き顔は」
怒りと共に吐き捨てて、ゲンブは結希を壁へと突き飛ばす。
寸でのところでタマ太郎が守ったが、結希の体はまったく動かなかった。
ゲンブの言うスザクはスザクであってスザクではない。
先代スザクであり、当代スザクであり、千里のことだ。ゲンブは多分、全員の泣いた顔を間近で見てきたのだろう。
「ゲンブ! 何をしているのですか!」
振り返ると、セイリュウが駆けつけて来る最中だった。
「別に」
「『別に』ではないでしょう! 結希様に何をしたのですか!」
「いいよセイリュウ。俺が悪かった」
「ですが結希様……」
表情を曇らせる結希を見下ろしたセイリュウは、唇を噛んで再びゲンブに向き直る。
「いい加減にしなさい! 貴方はいつまで人を傷つけ続けるのですか!」
「知らねぇよ」
両肩を掴むセイリュウを振り払おうとするが、セイリュウは頑としてゲンブを離そうとはしない。
「貴方の想いは美しく尊いものだった! それを憎しみに転換することは愚か者のすることです! そんなことをしても先代スザクは帰ってきません! 当代スザクの迷惑にもなりますし、千里は必ず自分を責めて苦しみます! 貴方はそれでいいんですか?! そんなに自分を許せませんか?!」
心の臓を突き刺された。
そんな顔を結希だけがしていた。
ゲンブは憎しみという表現が一番適している憎悪の表情で拳を握り締め、セイリュウを、いや、セイリュウではない何かを睨みつける。
「……許せねぇよ。俺自身の消えない想いも、先代を殺した千里の親父も、幾つになっても当代を悲しませる考えなしのバカ主も、千里の存在を真っ向から否定するこの世界も、俺は何一つ許せねぇよ!」
目の前にいるゲンブは結希だった。
結希は息を呑み、自分自身を憎むゲンブの垂れ流された赤黒い血を見つめる。その憎悪は自分自身にも向けられており、結希は黙ってセイリュウの傍らに立った。
「ありがとな」
「あ?!」
「お前はお前のままでいいよ」
「はぁ?!」
今にも噛みつきそうなゲンブに臆しもせず、結希はいつも通りのゲンブに向き合う。
「俺は、スザクが誇れるような陰陽師になる。忘れかけていたものを思い出させてくれてありがとな」
揺らぎの元凶であるタマ太郎の顎を撫で、結希はセイリュウに目配せをした。
「行こうセイリュウ。今日は時間が短いんだ」
「えっ? あ、はい。そうですね」
度肝を抜いたセイリュウはゲンブの肩を離し、納屋へと向かう結希の後を追う。
「ッ、おい! 結希! お前また木刀使う気かよ! いい加減《半妖切安光》を使えっての! つーか持ち歩けよ! 間宮家の《鬼切国成》を手放したくせによぉ!」
一瞬惚けていたゲンブは我に返り、自分の予想外の言動を常にする結希を追及する。
「持ち歩けるわけないだろ。持ち歩いたら秒で逮捕される」
「ですが結希様、そろそろ真剣に慣れなければ実戦で使い物になりませんよ。貴方の場合は切り替えができているからまだ良いものの……」
「あ〜……じゃあ持ってくる」
「バカか時間かかるだろ! 俺が行く! 結城家だよな?!」
結希が返事をする暇もなく姿を消したゲンブは、残り香さえ残さなかった。結希は呆気に取られ、セイリュウを問うような視線で見上げる。
「そのままですよ」
セイリュウは答えた。
「ゲンブは先代スザクを慕っていた。先代スザクは人間を慕っていた。千里は自分が生まれたことにより母親が死んだと思っている。当代スザクは……生まれた時から面倒を見ていた貴方の記憶喪失により、心身共に傷ついた。たったそれだけの悲劇ですよ」
踵を返し、セイリュウは外へと向かう。
結希はセイリュウの後を追い、《半妖切安光》を差して戻ってきたゲンブに改めて礼を言った。
「礼を言われるようなことはしてねぇよ。つーかお前、さっきの言葉忘れるなよ」
「忘れないよ」
『ユウキ、ヤクソク、ワスレナイ』
タマ太郎が結希の肩を下りてゲンブの脛を噛む。
「痛っっ?!」
「俺は約束を忘れないって怒ってる」
「はぁ?! うるせぇタマ! それを決めんのはお前じゃね〜よ!」
「ゲンブ、タマ太郎だ」
「うるせぇ結希! お前のネーミングセンスは最底辺なんだよ! 普通にタマでいいだろ!」
暴れて脛を噛むタマ太郎を引き離そうとする。が、タマ太郎は決して離れなかった。
「あ、百妖君! ゲンブ! ちょっと待ってください!」
居間に来た刹那に呼び止めた千里を一瞥し、ゲンブは何を思うのか鼻の下を指で拭う。
「全部完璧でしたっ! ありがとうございます!」
先ほどの結希の態度になんの疑問も持たなかったのか、千里は丁寧に頭を下げた。
「これは私が学校に持って行くので、百妖君は稽古頑張ってくださいね!」
「えっ、いやそれ重いよ?」
「大丈夫です。ゲンブに頼みますから」
「はぁ?!」
だからゲンブを呼び止めたのか。
納得し、結希は千里を無言で見下ろす。
「あの、それで百妖君……」
「ごめん」
「……え?」
「さっきはごめん」
スザクが誇れるような陰陽師になる。そして、結希は千里が誇れるような陰陽師にもならなくてはいけないのだと強く思った。




