二十 『過去と今』
空高く上った依檻の業火は、町中から見えていたと言う。機会を伺って駆けつけた猫鷺家のレスキュー隊隊長──叶渚はそう言って、形だけの消火活動を行って帰っていった。
百妖家が襲撃されてから丸二日が経った八月十七日。
焼けたとされる百妖家に住むことは許されず、親戚の結城家に唯一身を寄せることになった結希は自室の畳に寝そべって約束していた写真を明日菜に送信する。
「後は……」
思考した刹那、握り締めていたスマホが震えた。
画面には風丸の名前が表示されており、結希は指をスライドさせて風丸からの電話に出る。
「もしもし?」
『なぁ結希! これからバイクの免許取らねぇ?』
「はぁ?」
急に何を言い出すのだろう。いつものことだが風丸の言うことはいちいち突飛すぎる。
『原付バイクのヤツの取ろうと思うんだけどさ、お前はどうかな〜って。一緒にやらね?』
結希は唇の端を歪め、一瞬脳裏を過ぎった紫苑のバイクを思い出した。
「取る」
『おっ、マジで?! よっしゃ〜! じゃあ明日からな! 向こうには俺が話つけておくからさ!』
風のように一瞬で通話を切った風丸に呆れつつ、結希は再び紫苑のバイクを脳裏に浮かべる。
一瞬だけ──本当に一瞬だけ、バイクに乗れる紫苑を羨んだ。幼い頃の記憶を持つ紫苑を羨んだ。〝家族〟に縛られている紫苑の背中を見送った。
だから、なんとしてでも紫苑を超えたい。紫苑にできることは自分もできるようになりたい。
──紫苑に羨ましいと思われるような人間になりたい。
結希は息を止め、いても立ってもいられずに起き上がってメッセージに気がついた。
『明日の午後六時半に図書館集合な! 二日くらいで取れるみてぇだから残りの夏休みは文化祭準備の方に行こうぜ〜!』
呑気な風丸に短文を送りつけ、机上に乗った和夏のマフラーを一瞥する。
二日前、《カラス隊》の寮に身を寄せることになった直後に託された黄緑色のマフラー。人の姿となりそれを外した和夏は、決して結希の知らない和夏ではなかった。
『ユウ』
蒸し暑い熱気が纒わりつくあの場所で。
『お願いしても、いいかな?』
差し出されたマフラーはボロボロで。
結希は無意識にそれを受け取り、駆けつけた《カラス隊》の専用車に乗り込む十三姉妹と亜紅里の後ろ姿を去ってしまった後になっても眺めていた。
「…………」
和夏さんと口内で呟いて、結希はマフラーを手に取る。伯母の朝羽に頼んで洗ってもらったマフラーは、端の方がやはり解れていた。
視線を移した先にある黄緑色の毛糸に指で触れ、結希は何度か呼吸をする。そしてその隣にわざとらしく置いた麗夜の問題集を一瞥し、ぱらりとページを捲った。
「結希」
「ッ! ……涙」
振り返ると、いつの間にか自室前にいた涙と目が合う。風を通す為に開けていた障子を全開にし、遠慮なく侵入してくる涙は結希の傍らに立って告げた。
「手入れの為に預けていた《半妖切安光》がただ今帰還です。受け取りの為、風の間に赴くことを要求します」
「……わかった」
涙は頷き、はらりと肩にかけてあった桑茶色の長髪を落とす。それを目で追った結希は眉間に皺を寄せ、六年前から一度も切られていないそれに胸が締めつけられるような痛みを覚えた。
「ところで結希、例の火車は?」
「あいつは……知らぬ間にうちの式神の家にいたよ。で、セイリュウとゲンブに頼み込んでそのまま置いてもらってる」
「なるほど。了解です」
「誰にも言うなよ?」
「むっ。当然です」
安堵し、和夏の匂いが洗ってもなお染みついているマフラーを元の位置に戻す。そして、不貞腐れたように自分に背を向けた涙の後を追った。
涙はそれ以外なんにも聞いてこなかった。
結希は押し黙り、スザクに呼ばれて駆けつけた式神の家にいたあの時の火車を思い起こす。
セイリュウとゲンブが向けていた敵意を一人で抑えていたビャッコを懐かしそうな目で眺め、結希の顔を見た途端に破顔した火車は結希に頬ずりをして親愛を示した。
『マタ、アエタ』
それは、火車にとってどれほどの奇跡だったのだろう。
敵対する立場にいながら愛さずにはいられない陰陽師との再会を、火車はどれほど待ち焦がれていたのだろう。
結希はそっと火車の頬を撫で、スザクほどの大きさを持つ顔を正面から見据える。そして、命を奪われる覚悟で〝タマ太郎〟と名づけた。
名前という一番短い呪で縛られた火車は、不思議そうな表情で結希を見下ろし──
『オイラ、オマエ、スキ』
──そう言って、何度も何度も愛の告白をする。
そんなタマ太郎を見上げていた結希は、霞んでいた部分が完全な猫となる様を陰陽師の瞳で見つめていた。
「にぃっ!」
「……紅葉、火影」
廊下の奥から駆け出してきた紅葉を片腕で抱き留め、途中で立ち止まった火影に微笑する。
百妖家に行くまでは、これが結希の日常だった。
片親であってもなくても、この家に頻繁に出入りしていた結希の日常の一部だった。
最早非日常と化した彼らとの暮らしを思い出すように、結希は紅葉に手を引かれながら風の間を目指す。だだっ広い結城家の一室──風の間に行ったことは何故か一度もなかったが、辿り着いて初めてその理由を知った。
「結希、彼が千羽です」
涙の従弟で、紅葉の兄で、結希の従兄だった結城千羽。そして、六年前の百鬼夜行で命を落としたかけがえのない家族の仏壇が風の間にはあった。
「……千羽」
結城家特有の桑茶色の髪をした少年が、結希を正面から見つめている。遺影の中にいる千羽は自分よりも幼く、自分の年齢がとっくのとうに従兄を追い抜かしていたことを嫌というほど思い知らせてくる。
八百万の神々が宿ったかのような慈愛の笑み。しかし、年相応に見えるあどけない風姿。人を惹きつける何かを内に秘めたその瞳の形は朝羽譲りで。その瞳の色は、千秋譲りの鮮やかな薄花色だった。
母親の朝羽と父親の千秋から一文字ずつとってつけられた名を持つ千羽。陰陽師の王子として、町長の息子として、町中から溺愛されていたであろう少年はもうこの世にはいない。
そんな少年を、結希は何一つとして覚えていない。
「……ごめんな」
どうして。……どうして、自分が謝るべき相手は全員この世を去っているのだろう。
眉間に皺を寄せ、それでも出てこない涙に怒って、自分を呪って、スザクの言葉を思い出して途中で止める。
それでも、こんなことがあるのだろうか。
涙も、紅葉も、朝羽も、千秋も──もっと言えば朝日や火影やスザクやビャッコだって。どうして全員何食わぬ顔で日々を過ごし、自分に何も悟らせなかったのだろう。
その優しさが痛い。苦しい。胸が軋む。
結希は一歩踏み出して、仏壇の目の前に置かれた《半妖切安光》を手に取った。《半妖切安光》は以前よりも重く、だらんと下げた結希の腕を下へ下へと引っ張っていく。
「結希」
「……にぃ」
振り返ると、今もなお生きている最愛の家族がそこにいた。
紅葉は言わずもがな、僅かな時間で惜しみない愛を降り注ぐ涙も、遠慮がちに後方で待機している火影だって間違いなく結希の家族だ。
結希はへらりと笑い、六年もかけてやっと千羽に線香を授けた。
*
《猫の家》を訪れた結希は、通された奥の個室で待っていた鈴歌と二日ぶりの再会を果たす。そして、後から訪れた叶渚を前にして唾を飲み込み、身を引き締めた。
「座って」
ソファに腰をかけ、目の前のソファに叶渚が座り、鈴歌は叶渚の後方で待機する。
叶渚はこほんと咳払いをし──
「頼まれていた調査が完了したから報告するね」
──と、結希を見据えた。
「鈴歌」
「…………かしこまり」
鈴歌は持っていた封筒を叶渚に手渡し、叶渚はその中から書類を取り出す。
「調査対象だった紫苑くんのことだけど、彼は今年の七月十四日で十六歳になった高校一年生だということがわかったの。家族構成は双子の兄と養父だけで、それ以外はいるのかいないのかもわからない」
その書類を結希の前に出し、叶渚はゆっくりと口を閉ざした。
結希は視線を落とし、一番上に記入されていた紫苑の本名に体を強ばらせる。
「……末森、紫苑?」
声に出して震えた。末森。その名字を結希は知っている。《カラス隊》の副長で、結希もかなり世話になった──末森琴良と同じ名字だ。
「私も、驚いたよ」
叶渚は言葉を震わせて、それでも毅然と結希を見つめる。
あぁ。どうして。どうして今気づいたのだろう。
──末森琴良の式神の名は、ヤクモだ。紫苑がタマモで、春はツクモ。
そんな式神の名前も。塗りたくられたような黒髪も。目鼻立ちが整った幼さが残る顔つきも。印象的な紫苑色の瞳も。艶ほくろはないがうさぎのような瞳の形だって──こんなにも姿形が酷似しているのに。
「……どうして」
どうして今、気づいたのだろう。
叶渚は首を左右に振り、重々しい口を開いて口元を覆った。
「紫苑くんは今から四年前に《グレン隊》に入隊して、以来ずっと《ハリボテの家》に住んでいたの。けど、二年前に《グレン隊》が解散してからは姿を消しちゃったみたいで、元隊員との交流もほとんど絶ってたんだって。けど、半年に一回ある大掃除の日になるとふらっと姿を現して、掃除をしてまたどこかに行っちゃう……すっごく義理堅い子なんだって」
「《カラス隊》との関係は……?」
「純粋にはないよ。けど、《グレン隊》だった隊員は未成年のアイラと紫苑くんを残してみんな《カラス隊》に入隊しちゃったから……」
徐々に。本当に徐々にだが、末森紫苑という人間が輪郭を持って結希の前に姿を現す。
「紫苑の高校は?」
「町内にある公立の柊命高校だよ。でも、今は停学中みたい」
が、届くと思っていた糸は意図も簡単に途切れてしまった。
誰も末森紫苑には手が届かない。紫苑の方から糸を切っている。
結希は強く強く拳を握り締め、年下だと明かされた紫苑の命乞いにも似たあの時の笑みを何度も何度も脳裏に刻んだ。




