十九 『《半妖切安光》』
「紫苑!? ッ、春! どうしたの!? 一体何があったの!?」
そんな二人を視界に入れたマギクは、盛大に慌てて二人に駆け寄った。紫苑はそんなマギクを一瞥し、顔を歪めて酷くがなる。
「何があったはこっちのセリフだバカ! つーか、呪詛を飛ばしてる他のバカはどこにいんだよ!」
紫苑が肩に担いでいる春と呼ばれた若者も、黒いマントを着用していた。紫苑とほとんど同じ大きさで、まったく暴れようともしない性別不明の春はマギクに尻を向けて息をしている。
結希が和夏たちに歩み寄ろうとしているように、マギクも紫苑たちに歩み寄ろうとしている。
何故かそれだけはわかってしまって苦しかった。
「ありがとう」
不意に声に出して、傍にいた和夏が不思議そうに振り返るのを愛おしそうに眺める。
風が吹く。
潮の匂いがする。
自分の中から二つの土地神の力を感じる。そして同時に、愛果が、歌七星が、心春が、朱亜が、鈴歌が、そして、和夏がいるような気がした。
もう、充分だ。
もう、充分に愛されている。
結希は深く息を吸いこんで、依檻の火の粉にむせ返った。
「ユウッ!」
支えようとする和夏を手で制し、結希は人差し指と中指を立てて九字を切る。
「──青龍・白虎・朱雀・玄武・空陳・南斗・北斗・三台・玉女」
多くの誰かから力を与えられた結希は術式を唱えて、百妖家全体に黄金色の結界を波打たせた。マギクが身を固めて振り返っても、もう遅い。
九字を切った結希は《半妖切安光》の切っ先を天に向けて構え、《半妖切安光》を中心として展開される黄金色の殻を眺めていた。花のように広がる波紋はやがて強固な結界となり、百妖家へと飛ばされていた呪詛が止まる。
「あれが…………芦屋、結希……」
《鬼切国成》を腰に下げ、今の今までマギクと言い争っていた紫苑は恍惚としたような表情で結希を見据えていた。
「なんっ……てことを!」
怒るマギクをカグラが羽交い締めにして止め、結希の真横から少女が二人駆けていく。
主の元へと駆けつけたのは、紫苑の式神のタマモと──
「ツクモ!」
──気配を感じたのか、紫苑の肩から身を捩った低い声の春は振り向いて──片割れの少女、ツクモを見下ろした。
「──ッ!」
息が止まる。
フードの下で光る紫苑色の瞳も、それを覆い隠すほどの黒い髪も、目鼻立ちが整った幼さが残る顔つきも、色っぽさを印象づける艶ほくろも──すべて、結希が知っている紫苑のままだ。
「……双子のどっちかが、裏切った」
声に出して確信する。そうだ。忘れていたが紫苑は双子なのだ。その片割れがいるのは当然で、今紫苑が担いでいるのがその片割れの春なのだ。
「離しなさい、カグラ!」
「なっ……マギク!」
筋肉質のカグラを主命で跳ね除け、駆け出したマギクは坂道を全速力で上っていく。
風が吹く。マギクのフードが外れる。
無造作に纏められた茶髪が靡き、風に吹かれて額を顕にする。そこには一筋の傷跡が刻まれており、陰と陽を内包するマギクは翡翠色の瞳を細めて顔を歪めた。
「このっ、裏切り者がぁぁぁぁ!」
吐き出された罵声は燃え盛る炎の中に消えた。
「マギクッ! 引け!」
突如現れた依檻の炎に焼かれるマギクは、死に物狂いで結希の方へと手を伸ばす。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
九字を切って、依檻の炎を弾き返して、痛々しい腕を伸ばしたマギクの表情は怒りで歪みきっていた。
結希は声も出せずにマギクを見下ろし、和夏に庇われて後方に飛ぶ。
「やめろババァ!」
「ッ、姉さんっ!」
怒声と、枯れるような声がした。
「タマモ! ババァを止めろ!」
「ツクモ! 姉さんの代わりにあいつを殺せ!」
夜空しか見えない代わりに声だけが鮮明になって聞こえてくる。百妖家を焼くように守護していた依檻の炎は消え、飛んでいた呪詛もない。
「結希!」
「お兄ちゃん!」
駆けつけてくる涙と彼の肩に乗った心春を見て安堵し、結希は一気に息を緩めた。
「えっ?! わ、わか姉、その姿って……!」
「話は後! 今はあのマギクをなんとかしないと!」
振り向きざまに鉤爪を伸ばした和夏は空高く舞ったツクモを視認する。
撫子色の長髪を振り乱し、顕にしている額にはいくつもの皺が刻み込まれている。青いつぶらな瞳を刮目し、タマモのそれと同型になっている躑躅色の着物が風に揺れる。
「死んでください! ですっ……!」
タマモと同じく中学生くらいの容姿をしたツクモは、脇差と思われる刀を奮って落下する。が、距離感を見誤ったのか和夏の目の前に不時着した。
「きゃう!」
「ツクモ!」
暴れた春を押さえ込み、紫苑は顔を歪めてマギクを取り押さえたタマモを見つめる。
「ハナシテ……ハナシテタマモ!」
地面に爪を立て、狂ったように手を伸ばすマギクの腕は焼けただれていた。
結希は眉間に皺を寄せ、そうまでしてマギクから死を望まれている自分の運命を見つめ直す。
『死んでよ。貴方がいると、私たちは〝ホンモノ〟になれない』
『未登録とは厄介だね。この中に子を産める陰陽師はいるけれど、マギクの見た目年齢を考えると親の世代は……』
『いません。その世代は皆、六年前に最初に犠牲となった世代です。生き残ったのは、叔父のように化け物じみた強さを持つ者だけです』
『やめいやめい。我は化け物ではなく戦わせた側の人間。そのマギクとやらは、六年前の百鬼夜行で行方不明となり死亡届けを出された子供だろうな……』
『あたしが知ってるのはそれだけだよ。マギクの狙いも知らないけれど……マギクには仲間がいて、ゆうゆうを恨んでる。それだけは知ってる』
彼女に恨まれた、自分の奇っ怪な運命を。
「タマモ! ババァを連れて逃げろ!」
「承知いたしました、主君!」
「ツクモ! もういい! 下がって!」
結希は呆然と、動かないマギクを連れて逃げていくカグラとタマモ、そしてツクモと逃げていく春を見送る。
何かをする気にはなれなかった。酷い虚無感に襲われて、和夏の腕の中から立ち上がることさえままならない。
「おい」
視線を上げると、いつの間にか《鬼切国成》を腰に下げた紫苑が傍にいた。
「情けねぇ面なんか晒してんじゃねぇよ」
「……紫苑」
和夏の腕から離れ、自らの足で立った結希は《鬼切国成》を所持する紫苑と対面する。紫苑は興味深そうに結希を眺めていたが、やがて瞑目して首を横に振った。
「見栄とか張ってんじゃねぇよ。そう簡単に結界は張れるモンじゃねぇってことくらい俺だってわかってる」
「張ってない」
「意地っ張りかよメンドクセェ」
それでも紫苑は笑みを零し、金色の前髪を掻き上げた。
「ババァがあぁなっちまったから、俺たちはしばらくてめぇらには接触しない。そう誓う」
何故紫苑は、違う信念を持っている組織に所属しているのだろう。
どういう因果があって、ここにいる紫苑は妖怪の声に気づけた組織に巡り逢えたのだろう。
「ワリィな」
眉を下げて笑い、紫苑は顔を伏せて逃げていった。
決して振り返らない。振り返ることなんて彼にはできない。
結希は息を止め、〝家族〟に縛られた紫苑の背中をいつまでも眺めていた。
決めるとか決められないとかそういう次元の話ではない。紫苑は単純に、どれほど否定していても〝家族〟のことを裏切れないのだ。
紫苑が所属しているのは、結希と同じ〝家族〟という組織だけ。そのことに関してだけは、お互いになんの違いもなかった。
「……謝るなよ、紫苑」
自爆しようとする姉を全力で止めたがった紫苑に悪意はない。結希は瞑目し、隣に立った涙を見上げた。
「結希、それは──」
視線を辿り、涙の言うそれが《半妖切安光》であることに気づいた結希は刀を持ち上げる。まだ鞘に入れていない刀身は鈍く光っており、半妖の怨念が今の内に込められていた。
「──太刀、銘安光──名物《半妖切安光》です」
そっと《半妖切安光》の刀身を撫で、涙は言葉を続ける。
「八条国成と同時代を生き抜いた刀工因幡安光が打った名刀で、妖怪駆逐計画よりも後に使用された半妖を惨殺する為だけの刀です」
「ッ!」
「その悲劇の生まれ故に千年間町役場で保管していた妖刀ですが、五月の町役場襲撃の際に紛失です。行方不明です。悲劇に悲劇を重ねた妖刀です」
結希は体を強ばらせ、涙と同じく《半妖切安光》の刀身を撫でる。
「ですが、結希が所持することを許可です」
「……え?」
「家宝である《鬼切国成》と交換し、家族を守ろうとした結希に花丸です」
涙は空気中に花丸を描き、結希を無条件に褒め称える。
「理解を願います。その妖刀の、悲劇の歴史を」
「あぁ」
「結希なら平気です」
「あぁ」
やってやる。扱ってみせる。
結希は《半妖切安光》を握り締め、この日本刀の命運を自分が握っているのだと自覚した。
「ところで結希。離島に置いていった荷物を記憶してますか?」
「あ」
忘れてた。そう言う意味を込めて再び涙を見上げると、涙は無表情のまま首を傾げていた。




