十五 『半端者』
強く、強く唇を噛み締めた。
悔しかった。いつだって潜在的に感じていた、自分にはないものを持っている他人への羨望が嫉妬に変貌する。
「……何が失望させんなだよ、勝手なこと言うな」
掠れたような声が喉の奥から這い出てきた。燃えるように熱い気管は痛みを訴え、往復する空気を焦がしていく。
紫苑は瞳に込めた力を緩め、探るように結希を見つめた。
自分は何も知らなかった。知らないまま年をとったのか、忘れたまま年をとったのか──どちらにせよ、記憶にないことに相違はない。
「お前が一体何を待ってるって言うんだよ! 何を望んで何に失望した! それが伝わらない限り、俺はお前の期待には応えられない! お前の望むがままに応えたくもない!」
ありのままに叫んで、ありったけの感情を紫苑にぶつけた。
ほぼ同い年くらいのような彼の、生まれた時から蓄積されていた記憶に順従する生き様が羨ましい。なんの迷いもなく、自分自身を信じて疑わず、威風堂々と刃を抜く形貌が羨ましい。
そしてその刃が自分に向けられた刹那、その違いを嫌でも認めざるを得なかった。
これほどまでに自分の劣等感を燻る人間は、今まで結希に関わろうともしなかった。見えていないのか視線を合わせようともせず、自分を含めた全町民から好かれる風丸の付属品として背景化されていた。
「言えよ! 俺はお前とは違う!」
言わなきゃ何も伝わらない。人間が──自分がわかる言語を言葉にしないと、何もわからない。
そんな鈍感な自分がいつだってここにいる。
紫苑に酷似した明日菜は、そんな結希に寄り添っていた。夢に向かって研ぎ澄まされた彼女の刃が好きだった。
結希が心の底から友人だと呼べる同い年の二人は、そんな二人だった。
「だから言えよ! お前が一体何をしたいのか、俺に何をして欲しいのか! 洗い浚い全部吐けよ!」
明日菜のような信念の刃をその身に宿し、風丸のような人柄で結希の目の前に立ち塞がる紫苑は瞳を見開いて息を止めた。
やはり幼い。それでいて愚連隊の鋭利さを身に纏っている。なのに、正反対と言っても過言ではない自分の写し鏡のようにも見えた。
「敵だと思わねぇんだな」
呆れたように笑っていた。
「敵の守るべきものは、人じゃなくて妖怪だからな」
瞬間に笑顔が消え失せる。
「──殺せ」
ぽつりと言葉が零れ出した。
結希をその瞳に宿す紫苑は、瞳孔を開いたまま呟いていた。
「俺は、妖怪を一匹残らず殺してやる」
茜色の夕日が夜に消えるように、瞳の中の自分が消えた。闇よりも濃い憎悪に侵食され、紫苑は果てない悪意を《半妖切安光》に浸透させる。
「だからお前も殺し続けろ。虫けらに情けはいらねぇ、あいつらは家畜と同じだ」
紫苑の思想は、やはりマギクとは正反対だった。
今までの結希と同じで、今の姉妹と同じで、敵であって敵ではない。結希は息を止め、同じものを違う場所から見ていた紫苑の表情を細部まで眺めた。
垢抜けているのに若々しく、同時に瑞々しい。熟れていない果物のような苦味も固さも備わっているのに、彼にはマギクから垣間見えた本物の冷淡さが欠如している。
結希を見つめ返していた紫苑は、決して視線を逸らしたりはしなかった。その瞳に込められた曲げられぬ悪意の信念は、あまりにも強固で崩落を許さない。
「──ッ!」
徐々に徐々に、悪意が込めれた《半妖切安光》の妖力が膨張していった。均衡する二振りの妖刀は調和を崩し、《鬼切国成》が弾き返される。
「結希!」
殴るように叫んだのは、堤防から二振りの攻防を様子見していた涙だった。
「撤退を要求です! それ以上の戦闘は危険です!」
刹那、爆風が浜辺一帯を襲った。
空中で一糸乱れぬ攻防を繰り返すタマモとスザクの斬撃が、空を切り風を生み出している。
「ユウ……!」
振り返ると、倒れていた和夏が飛来してきた《鬼切国成》を杖にして立ち上がっていた。
「誰かにっ、負けないで……! 自分で自分をっ、殺さないでっ!」
それは、和夏だからこそ胸に響いた言葉だった。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
隙を伺っていた涙の九字が飛ぶ。
咄嗟に和夏の元へと駆け寄った結希が背中で感じた妖力の消失は、紫苑の敗北を意味していた。
「和夏さん!」
「……ッ」
よろめく和夏を抱き留め、退魔の札を貼られてもなお動く彼女の精神力の強さに圧倒する。そして、間近にいるとどうしようもなく匂ってしまうマスカットの香りは甘く──結希はとろけるように安堵した。
「おいテメェ!」
振り返ると、抜刀したままの紫苑が結希を睨みつけていた。
「まだ勝負はついてねぇぞ! つーか、これのどこがサシなんだよクソが!」
暴れ狂う紫苑の輪郭は薄暗さの中に紛れ、黄昏時の終焉を告げている。
結希は深く息を吸い込み、どうしようもなく対照的な紫苑を見据えた。
「悪い」
「はぁ?!」
確かに自分は半端者だ。
同時に紫苑も半端者だ。
「俺はまだ何も決められない。でも、お前だって何も決めてない。そうだろ?」
外の世界に出るまで、どうして何にも気がつかなかったのだろう。
何故紫苑は、違う信念を持っている組織に所属しているのだろう。
どういう運命の糸があって、同じ信念を持った百妖の一族に巡り逢えたのだろう。
どういう因果があって、ここにいる紫苑はそれに気づけた組織に巡り逢えたのだろう。
百妖結希と紫苑には、決定的に違うものがある。
運命がひたすらに違うのだと、この僅かな時間で交わした言葉が物語っていた。
紫苑は一言も喋らないまま微動だにせず、結希もこれ以上に交わす言葉を持たない。いや、一つだけ──たった一つだけ、言える言葉があった。
「これから先、俺はどう妖怪と向き合えばいいのかわからない」
微かに紫苑が鼻で笑った。
小さな音だったが、陰陽師は決して聞き逃さない。
「でも、それは人を守らないってことじゃないからな」
音がした。
夜目が利く結希の視界の端で、《半妖切安光》が地面に転がっている。紫苑の手から滑り落ちた日本刀は、先ほどの猛りはどこへ行ったのか異常なほどに静かだった。
「テメェは……」
──ドクンッ
力が騒ぐ。結希と紫苑、そして涙は表情を強ばらせ、彼らの中心点に顕現する式神に視線を寄せる。
「ビャッコ!」
銀色の短髪を振り乱して、慌てて結希に視線を向けた彼は焦っていた。
「結希! あと涙も!」
二人の従妹──紅葉の式神のビャッコはよろめいて片膝をつき、奥歯を噛み締めて口を開ける。
「町に戻って! 百妖家が……」
肝心な部分で噎せ、呼吸を整えるビャッコは牙を向いた。
「……百妖家が襲撃されてるんだ!」
伝わる言葉は耳の奥で残響し、呼吸を止めて嗤っている。
「なんじゃと?!」
「…………どうして!」
「仕掛けは……先月不発だった仕掛けはどうなったのですか! 二度目の使用不能ですか?!」
振り返ったビャッコは堤防を登り切っていた姉妹と涙をオッドアイの瞳に映し、頭を振って否定した。
「意味がないんだよ! だって、相手は妖怪じゃなくて陰陽師だもん!」
「はぁ?!」
そう叫んだのは、他でもない紫苑だった。
「ビャッコ、詳細を要求です!」
「襲撃って? 襲撃ってどういうこと?!」
「姉さんっ! 待って!」
駆け出した月夜を呼び止める幸茶羽は顔を歪め、今にも泣き出しそうな姉の後を追う。そんな双子を視界の端で捉えた紫苑でさえ顔を歪め、真っ先にビャッコの胸ぐらを掴んだ。
「紫苑!」
「さっさと言えよこのノロマ! 誰がこいつらの家を襲ってるっつーんだ! 殺すぞ!」
結希の静止を振り切って怒鳴る紫苑は、誰のことも視界に入っていなかった。必死に、必死になってビャッコの中から真実を探している。
そんな異変に気づいたタマモとスザクは空中での攻防を止め、日本刀を携えながら事の成り行きを黙って見守った。
「そ、そんなのわからないよ!」
「性別は! 女か?!」
ビャッコは不信そうな目で紫苑を見上げ、迷うように視線をさ迷わせた直後に頷く。
「女……うん、女の子だったよ!」
「クソッ!」
答え合わせをした紫苑はすぐさま悪態をつき、ビャッコの胸ぐらを離して舌打ちを繰り返した。
「主君! いかがいたしますか!」
「…………ユウキ、帰ろう!」
タマモと鈴歌の声が聞こえる。
気づけば集っていた自分の家族は、涙を除いた全員が不安で顔を曇らせていた。
「間に合うの?」
いや、たった一人だけが真顔だった。
冷静に問いかけた和夏は全員を見回し、最後に唯一飛行できる鈴歌を見て呼吸を止める。
日は完全に沈み、堤防の向こう側で今もなお燃え続けている灯篭だけがすべての頼りで。そんな灯篭となった和夏は鈴歌だけを見据えて頼っていた。
「ビャッコ、現状は!」
「分が悪いよ! 妖怪を退治した直後に出てきて、どうすることもできなかったんだから!」
鈴歌は唇を噛み締め、僅かに表情を曇らせて首を横に振った。
「…………ここから町まではすごく遠い。でも、それでもボクは全力で飛ぶ」
朱亜が息を呑む。
「…………だから、ついてきて」
五女として、この場にいる姉妹の最年長者として決断を下した鈴歌はすぐさま半妖へと姿を変えた。
「鈴姉! ぼくも全力でサポートするよ!」
「…………頼りにしてる」
言霊使いの心春も、轆轤首の朱亜も、月夜と幸茶羽も姿を変えて一気に行動に移す。鈴歌は肩に乗せた小型の一反木綿の大きさを妖力で拡大し──刹那に出現した目の前の火車に息を止めた。
「全員下がって!」
「鈴歌、朱亜! 子供たちを死守です!」
半妖の姉妹を守るように前に出た結希と涙は、遠目から見ただけではまったくわからなかった火車の大きさに密かに戦く。
火車は月夜と幸茶羽の背丈と変わらない大きさの顔を近づけ、舌なめずりをして結希と涙を見下ろし──
『オマエ、イイヤツ』
──はっきりと言葉にして、にっこりと笑った。




