十四 『変えられない過去』
代赭色の海に灯る赤橙色の明かりは、空の星よりも陸の蛍よりも明るい光を心に染み込ませている。
堤防に腰を掛けた結希は無言でその灯りを眺め、《鬼切国成》を抜刀しては納刀することを繰り返していた。
研ぎ澄まされた刀の音は浜辺に集った島民の談笑の中に消え、誰一人としてすぐ傍を徘徊する火車の大群には気がつかない。結希は険しい表情のまま、本来ならばあってはならないその光景を漆黒の瞳に焼きつけた。
「ユウ」
「……和夏さん」
視線を移すと、パーカーを羽織った和夏が微笑しながら結希を見上げていた。
「向こうに行かないの? すっごく楽しいよ、灯篭流し」
結希は無言で視線を上げ、灯篭流しに参加する姉妹と涙を視線で探す。六人は島民から受け取った灯篭に赤橙色の明かりを灯し、自らの手で海に流していた。
数えるのも億劫になるほど流された無数の灯篭は、ぼんやりとした明かりを身に纏って島の手から離れていく。
遠くへ、遠くへ──。死者の魂を弔って送るその炎は、今でも消えることなく燃えていた。
堤防を軽々と上った和夏は隣に座り、結希が見ていた景色を同じ視点から眺める。
茜色の空。消えかける黄昏時のそれは少しでも目を離すと夜に侵食されていく。
「へぇ〜。ここからでも綺麗に見えるんだね」
無邪気に笑い、和夏は正面から吹く肌寒い風を厭いもせずに受け入れた。
「特等席ですから」
「うん。よく見えるよ」
和夏は肯定し、言葉を交わすことを忘れたかのように見入ってしまう。結希は輝く瞳で世界を愛でる和夏に苦笑し、不意に表情を強ばらせた。
まだ、火車がいる。離島から離れないまま屋形車を引く化け猫は、鳴き声を上げるだけで誰かに危害を加えることはない。それは結希が知っている妖怪とは大きく異なっていた。
──妖怪は、本当に悪なのだろうか。
いつだって蠢く殺意を隠しもせず、陰陽師や半妖へと刃を向ける奴らが──本当に、悪なのだろうか。
たった二日しか町を離れていないが、そのたった二日間が結希の世界を蝕んでいる。壊されていく。跡形も残らないかもしれない。
吐き気を覚えた。咄嗟に口元を手で覆い、にゃおと一声鳴く和夏に視線を戻す。
「にゃお、にゃお、にゃあにゃあ」
「…………何してるんですか」
「ん〜?」
人の話を聞いているのかいないのか、和夏は堤防の下を見つめて鳴いていた。釣られて視線を落とすと、小さな三毛猫が顔を擦って寝そべっている。
「にゃあ〜」
「うわっ!?」
気配もなく和夏との間を通って堤防下に下りたのは、子猫よりも一回り大きな三毛猫だった。三毛猫は子猫を舌で舐め、首根っこを咥えて和夏を見やる。
「にゃ〜にゃ」
そう言って手を振った和夏に返事をするように、三毛猫はみゃおと鳴いて頭を下げた。このまま家に帰るのか、子猫を咥えたままとてとてと短い足で去っていく。
「今の子ね、ママとはぐれちゃってたんだって」
猫が姿を消した刹那、ぽつりと呟いた和夏は笑っていた。
「でも、一人でも平気なんだって」
「猫の言葉がわかるんですか?」
「うん。だってワタシも猫だもん」
結希は口を半開きにさせ、人ならざる者の声を聞く和夏を漆黒の瞳で捉える。
「だから、火車の声も?」
少しだけ声が震えた気がした。
「猫だから聞こえたのかもね〜」
彼女はそれを当然のものとして受け入れていた。
結希は眉間に皺を寄せ、親指で《鬼切国成》の鍔を押し上げる。
ならば、自分はなんなのだろう。
猫の声が聞こえる猫又の和夏と、妖怪の声が聞こえる陰陽師の自分。例え同じことでも意味に深い違いが生まれてしまう。
「ユウの気持ち、なんとなくわかるよ」
キン、と金属音がした。親指を鍔から離した因果で《鬼切国成》が納刀されている。
結希は息を吸い込み、なんとなく、多分和夏だったから言葉を漏らした。
「俺は、猫の妖怪だけじゃない。他の妖怪──すべての妖怪の声が聞こえるんです」
和夏に何がわかるのだろう。
種族が違う。流れる血が違う。和夏とは、違う。
同じように見えてこんなにも違うのに、陰陽師ではない和夏に何がわかるのだろう。
「そうなの?」
「うるさいですよ、毎日毎日。日に日に騒がしくなっていくんですから」
和夏は猫目を見開いて驚いていた。
わかり合えない。違いなんてないと思っていたかった結希は再び口を開き──
「凄いね」
──また、和夏に手放しで褒め称えられた。
「……は?」
「それって、すっごく凄いことだよね!」
何も考えずに身を乗り出し、瞳を輝かせて結希を見上げる。
凄いことだと考えたことは一度もなかった。なのに、和夏の全肯定が世界中の悪意を浄化していく。
「ユウはもしかしたら、人と妖怪を繋ぐ凄い人なのかもね」
そんなことを考えたことは今まで一度もなかった。和夏はそうやって、他人の凝り固まった思想を解していく。
こんなにもその身に悪意を宿していない彼女が、かつて無残に殺された。いや、殺されて破壊された人格から生まれた和夏が、痛みに抗いながら救いの手を差し伸ばしていた。
「…………」
結希は息を止め、誰にも理解されなかったこの感覚を静かに呼び覚ます。そして、長い時間をかけてようやく疎むことなく受け入れられたような──
「勘違いすんなよ」
──刹那、いとも容易く全否定された。
「──ッ」
込められた悪意が自分の首筋に切っ先を向けている。動いたらぐっさりと刺されるほど近くにそれがある。
止めていた息を吸い込むことさえ許されないまま、それでも懸命に振り向いた。
「……紫苑」
背後にいた少年は、紫苑色の瞳を尖らせて結希を見下ろしていた。《グレン隊》の構成員として暗躍していた紫苑は気配を悟られることなく結希の背後をとり、何故か不快そうに顔を歪めている。
《ハリボテの家》の前で見た金色の髪も、耳朶につけられた銀色のピアスも、目鼻立ちが整った幼さが残る顔つきも、色っぽさを印象づける艶ほくろも──すべて、結希が覚えている紫苑のままだ。
なのに、その表情だけが理解できない。
結希はまだ渇いている喉を少しでも潤そうとして、無理矢理唾を飲み込んだ。
「なんでお前がここにいる」
「いたらおかしいのかよ。お前、自分の立場わかってんのか?」
紫苑は鼻で笑い、無知な結希を小馬鹿にする。結希は反論することさえできず、見破られないよう慎重に《鬼切国成》の柄に触れた。
「バレバレだぞ、ド素人が」
「ッ!」
紫苑は眉間に皺を寄せ、流れるような動作で右手の人差し指と中指を立てる。
この動作は。知っている。いつも自分で切っている。
だから反応することができたはずなのに──
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前」
──横、縦、横、縦、横、縦、横、縦、横──そうやって九字を切った紫苑の行動の意味がまったく理解できなかった。
何故九字を切る? 敵対する紫苑が九字を切ったところでなんの意味がある? やはり紫苑は──。
結希は《鬼切国成》を抜きやすい位置に構え、紫苑の次の手を待った。
『アアアアアアアアアア!』
「なっ?!」
「……声?!」
久しぶりに耳にこべりついた断末魔で振り返ると、先ほどまで砂浜で遊んでいた無垢な火車が次々と姿を消滅させていた。一匹一匹、紫苑のいる位置に近ければ近いほど跡形もなく殺されていく。
そんな死にかけの火車の中で日本刀を振り回していたのは、例の緑と黄緑を基調とした和服を着た式神だった。
顔を隠していない女子中学生くらいの容姿の式神は、主の為と奮起しているのか妖怪の大群に逃げ場を絶たれてもまったく怯んでいない。
それどころか、嬉々として奴らを殺している。
「お前……!」
瞬時に込み上げてきた感情。今まで感じたことのない種類の起伏。
紫苑はそんな結希を再び嘲笑い、こてんと首を傾げた。
「なんで怒る? これが、お前らが千年もかけてやってきたことだろ」
その後に続く言葉を説教で彩ろうとしていた結希は、絶句することしかできなかった。真実はどうしようもないくらい紫苑の言う通りで、歴史を覆すことは神への冒涜にも等しい。
紫苑は結希の表情を不快そうに眺め、ずっと腰に下げていた日本刀に手をかけた。
「ッ、ユウ!」
腹部に腕を回されて担がれた結希は、あっという間に紫苑を飛び越えて道路へと下り立つ。堤防の上に立っていた紫苑はそれを目で追い、僅かに口角を上げた。
「来いっ、タマモ!」
「──馳せ参じたまえ、スザク!」
刀と刀の衝突音がした。
呼ばれて馳せ参じたタマモの一太刀をスザクが刃で受け止めている。
「せりゃぁぁぁぁっ!」
「ッ!」
弾き返されたタマモは後方に大きく飛んで距離を取った。そのまま腰を下ろしてスザクを見据え、彼女の動きを細部まで観察している。
カグラほどではないが、タマモもスザクより身長が高かった。刀の種類は互いに打刀のようだが、スザクよりもタマモの方が背丈に合っている。
「行け、スザク!」
「承知いたしました!」
それでも結希はスザクを信じた。そして、自分の力を信じた。
「和夏さん!」
「離さないよユウ!」
半妖姿の和夏は吠え、抜刀する紫苑を威嚇する。暴れ狂う結希を死んでも離すまいと担ぎ直して真横に飛び、鉤爪を研ぎ澄ませて迎撃体制をとった。
「邪魔すんなよ」
必死に首を回すと、先ほどまで和夏がいた場所に紫苑がいた。
「離せよ和夏さん!」
彼女を傷つけることはできない。それでも結希は抗い続け、半妖の力に抑え込まれた。
「離さない! ワタシは、ユウを守る! これ以上アナタを傷つけさせたりはしないから! だから……!」
「お前の理由なんざどうでもいいんだよ。寄越せ」
「嫌!」
紫苑は砂浜を一瞥し、舌打ちをして刀を構える。
「あいつらも止めさせろ。俺は他人に興味はねぇ。お前とサシでやり合いてぇんだよ」
その切っ先を向けられて、結希は唇を噛み締めた。探らなくても、六人が騒ぎに気づいて駆け出していることくらいわかっている。
「早くしろ。さもないとこの刀──《半妖切安光》が暴れ出すぞ」
結希は懐から札を取り出し、和夏に張りつけた。
「ぁっ……?」
がくんと力が抜けた和夏は手を緩め、離れていく結希の背中を呆然と眺める。
「ダメッ! ユウ!」
焦りを滲ませたのは一瞬だった。
堤防を飛び越えた心春は顔を歪め、「お兄ちゃん!」と抜刀する結希に声をかける。次々と駆けつけた姉妹と涙は驚愕で足を止めたが、意識を緩めることはなかった。
「──ッ?! 心春、停止です! 鈴歌も、朱亜も!」
「何故じゃ!」
「…………ルイ先輩!」
「あれは、《半妖切安光》! 数多の半妖を殺害した妖刀です! 半妖が触れれば死は確実、突撃は危険です!」
堤防に足をかけていた涙は心春の手を引き、真下にいた鈴歌と朱亜に向かって突き落とす。
「きゃあっ?!」
「心春!」
「…………待って、先輩ッ!」
涙は目を細め、《鬼切国成》と《半妖切安光》の怒号にその身を震わせた。
結希の一太刀を受け止めた紫苑は嬉々とした表情で二連撃目を躱し、一歩踏み込んで懐に入る。真下から迫り来る紫苑の視線は結希の表情をこと細かく観察し、渇いた唇を舐めて刮目した。
「──しっ!」
「ぐっ……!」
重い一太刀が《鬼切国成》越しに身体に伝う。
痛い。それでも、紫苑はカグラ──マギクではなかった。
「目的はなんだ……!」
歪な音を立てながら交差する二振りの妖刀は、折れることを知らないのか猛り続けている。その奥で我に返ったように体を震わせた紫苑は、奥歯を噛み締めて声を絞り出した。
「……知るか。そんなの俺に聞くんじゃねぇよ」
「違う、お前自身の目的だ!」
刹那、紫苑は瞳に力を込めた。まったく揺らがない結希の漆黒の瞳を睨みつけ、一歩も引かずに力を込める。
「うっせぇな、今のお前に語るモンなんか何もねぇよ! この半端モンが!」
「ッ?!」
紫苑の叫びが鼓膜に響いた。
間近で叫ばれた言葉の意味は、考えなくても容易に理解できる。
「うるさいっ、お前だって半端モンだろうが!」
だからか反射的に結希も叫んだ。血が熱く滾る。巡りに巡って発火する。
紫苑という少年が、何故だかどうしようもなく気に入らなかった。
「ああっ?! お前と一緒にすんじゃねえ! 俺はもう腹括って生きてんだよ! ずっとっ、物心ついた時から!」
結希は口を噤み、忘れてしまった幼少期を追憶する。
「失望させんじゃねぇよ、クソが」
そして、紫苑のことが気に食わない理由を悟ってしまった。




