十三 『世界で一番大切な者を』
「いお姉っ! お誕生日おめでと〜!」
『うふふ、ありがとう月ちゃん。旅先からわざわざ祝ってくれるなんて、お姉ちゃん死ぬほど嬉しいわぁ〜』
携帯の画面に表示された依檻が、頬に手を添えながら柔和に微笑む。そして手前に映るケーキを見せびらかし、ドヤ顔で月夜と幸茶羽を煽っていた。
「依檻、姉さんの分はちゃんと残して。全部食べたら鞭打ちだから」
『あらやだ、そんな大人気ないことはもうしないわよ。一体いくつになったと思ってるの?』
「…………二十七」
『ちょっと鈴ちゃん? 結希の前で年齢を暴露するのはやめてくれるかしら。これでも一応この子の教師だから、あんまり知られたく……』
「風丸から漏れてるのでクラスメイト全員知ってますよ」
『オーケーオーケーわかったわ。今度火炙りの刑に処しましょう』
ドヤ顔から困り顔に、困り顔から真顔になった依檻は一つ頷いて腕を組む。そして、大袈裟に体勢を崩して頬杖をついた。
一九九五年八月十五日──お盆の時期と重なるこの日に生まれた依檻は、真夏のような女性と言っても過言ではないだろう。
体温とテンションだけが異様に高く、スキンシップとコミュニケーションを好む彼女は多くの人から煙たがられている。それでも、そんな彼女だからこそこの一族には必要不可欠で──
「処したらヒナギクに処されますよ」
『それは御免蒙りたいわね。あの子って変に仲間意識が強いし……っていうか、よく見てるのね? 自分の大将のこと』
「別に見てませんけど」
『なんでそんなに嫌そうな顔をするのよ。まぁいいわ、良かったわねぇみんな。うちの子はまだまだ健全みたいよ?』
『どこが!』
『黙りなさい鎮火させますよ』
──結希は顔を顰めながら、不健全の塊のような依檻を見下ろした。
本当に依檻はこの一族にとって必要なのだろうか。自分の主観を疑うくらい、近くにいると思われる愛果と歌七星からの怒声は止まない。そして、時々聞こえてくる煽ったような言葉の数々を並べているのは亜紅里だろうか。
「そもそも、結希はわらわらの子ではないじゃろう」
「同意です。結希は俺の子です」
「えっ?! 涙さんの子供でもないですよね?!」
呆れたような朱亜はため息をつき、涙は無表情のままに戯言を弄する。そして何故か焦っている心春は、突っ込みつつも結希の顔色を伺って眉を下げた。
「いお姉〜、ちゃんとプレゼント受け取ってね〜」
『あぁ、このメモでしょう? 暗号を解いてプレゼントの隠し場所を見つければいいのよね?』
「そうそう。全員分入ってるからね」
『うふふ、それは楽しみね。みんなありがとう、最高の誕生日だわ』
依檻は受け取ったメモを一瞥し、視線を和夏に向けて目を細める。それは大切なものを慈しむような、世界のどこにでも存在する美しい瞳だった。
今年の四月から結希が姉妹に贈るようになったプレゼントは、他の姉妹に伝播して一気に浸透していった。
今では宝探しのようなイベントまで行っており、仕込みは旅立つ直前に済ませている。
女性は流行に敏感だと言うが、変なところが流行るのだから本当に謎だ。
ただ、実母の朝日が毎月のようにしていたと言う誕生日会が、足並みが揃わなくなっていたせいで疎遠になっていた彼女たちにとって何かしらのいい切っ掛けになれたのなら。
だとするならば、実の息子としてそれ以上に嬉しいことは多分なかった。
『じゃあ、もう切るわね。そろそろ黄昏時みたいだから』
『ん? あぁ、そうだな。鈴歌、朱亜。それと涙……子供たちを頼んだぞ』
隣で待機していたのか、急に聞こえてきた麻露の声は疑うことのない芯の通った声だった。
「…………りょ」
「任せるのじゃよ、シロ姉」
「安心を願います。この子たちを死守することを、俺は麻露に誓約です」
『頼もしいな。じゃあ、明日の帰宅を待っているよ』
麻露は軽く笑い声を上げ、依檻は手を振って通話を切る。
目の前に立てかけられた鈴歌のスマホが、茜色の世界に包まれて影を伸ばす。
「──ッ?!」
這うような悪寒が背中を走った。
振り返ってデッキの外に視線を向けると、やけに大きな茜色の夕日が離島全体を包み込んでいる。
何かが違う。何一つ同じ日なんてこの世界には存在しないのに、あの夕日は何かが違う。
代赭色に波打つ海は昨日よりも荒れ狂い、当然のことだが海水浴客はどこにもいない。なのに、人のような気配を海底から感じるのは何故なのだろうか。
「結希、《鬼切国成》を」
結希は腰に下げていた太刀の柄に触れ、恐る恐る抜刀する。重いだなんだと文句を言っている余裕はない。からからに渇いた喉が枯れる。
「涙」
自分と同じ陰陽師で、本当の兄のようで、どこか抜けているが頼りになる大人の涙。そんな彼が、表情を強ばらせたまま海を見据えている。
「何か……来る」
視線を移すと、和夏の髪が逆立っていた。緑色の猫目の中に琥珀色の粒子が渦巻き、瞳孔が獣のように細められる。
結希は瞑目し、蠢く世界の地底から這い出た妖力を察知した。
「…………何? あれ」
「静寂ではあるが、地割れが起こっているようじゃ」
「異物ばっかり。……こんなの、ささは知らない」
「なのに……」
心春は一瞬息を止め──
「……なのに、精霊が怒っていない」
──違う土地の精霊と心を通わせて戦いた。
「あっ」
月夜は息を呑み、幸茶羽と手を取り合う。離れ離れにならないように支え合っているのに、目に見えない地割れが二人を引き裂くようだ。
確かにある愛を生んだ世界が壊れかけた刹那、海の果てから何かが這い出てくる。
黒々とした点の数々。徐々に近づいてくる妖の存在。
結希は柄を握り締め、かつて百鬼を切り殺したという《鬼切国成》を血で押さえつけた。
《鬼切国成》は何を望んでいるのだろうか。その刀身に宿った人ならざる者の猛りは、結希の鼓膜を震わせ続けている。それは正義を振るう者の感情ではない。だが、結希はそれを黙認した。
「総員、戦闘態勢に」
涙の一声で空気が変わる。
能力が使えない月夜も、幸茶羽も。覚醒した鈴歌も、朱亜も、心春も。そして、誰よりも警戒心を高めている和夏も姿を変え、人ならざる者になる。
「──火車」
野生動物以上に視力が発達した和夏は、妖の正体をいち早く見抜いて犬歯を剥いた。
「了解です。鈴歌と朱亜は両翼に、月夜と幸茶羽は後方に待機を切望です。戦闘は、心春の言霊が到達する範囲からです」
「わかりました……! 来たら合図します!」
結希は目を細め、火車だという点の数々を見据える。
──何故。火車ならば、何故人のような気配がしたのか。
暴れる《鬼切国成》に問いかけるが、《鬼切国成》は何も応えなかった。
長い長い戦乱を折れずに生き抜いたせいか、理性がまったく働いていない。血で押さえつけられても、支配できたわけではないのだ。
『ミエタミエタ、アレガシマダ』
『コトシモミエタ、アレガシマダ』
また、妖怪どもが喋っている。
『ツレテキタ、コトシモ、ツレテキタ』
『ヨカッタヨカッタ、コトシモチャント、シゴトデキタ』
遥か遠くにいるのに、火車の声はよく聞こえた。
結希は顔を歪め、敵意の欠片も何もない──喜びに満ちた声の持ち主を眺める。
あれはなんだ。
そして、誰だ。
人に酷似した妖怪が、離島に向かって歩んでいる。進軍しているわけではない。歩み以上の速度ではあるが、進軍しているわけではないのだ。
火車の輪郭が結希の目でも捉えられた時、温かな光の玉が大地から浮かび上がる。
「来ました! 射程圏内ですっ!」
「待てっ!」
光の玉が時を止めた。
心春は土地神から借りた精霊の動きを止め、結希の顔色を静かに伺う。
「待機ですか? 結希。その理由は……」
「何かがおかしい。動くのはもう少し待ってからでも遅くはないと思う」
「何がじゃ。一体何がおかしいと?」
「確かにおかしい。誰にも敵意がないし、何か、声が聞こえてくる」
結希は目を見開き、生まれて始めてこの異様さに同意をした誰か──和夏を見つめた。
「…………声?」
「うん、声。かけがえのない、声」
和夏は眉を釣り上げて、全神経を研ぎ澄ます。
『トドケヨウ、トドケヨウ、タイセツナモノヲ』
『セカイデイチバン、タイセツナモノヲ』
「とどけよう、たいせつ、な、ものを」
そして、途切れ途切れに彼らの意思を代弁した。
「了解です。二人がそう言うのなら、待機です」
結希にははっきりと聞こえるそれに意識を向け、聞こうとする意思を持ち、和夏は穢れのない優しさで口を真一文字に結ぶ。そして、まっすぐな瞳で火車を眺めた。
火車の大群はデッキにいる敵に意識を向けないまま浜辺に着地し、うろうろと徘徊する。
土地神は彼らを拒まず、猫のような姿をした彼らが屋形車を引く様も黙認していた。
『ツイタツイタ』
『オリロオリロ』
『ココガ、コキョウ。オマエノ、コキョウ』
刹那、屋形車の前簾が一斉に上がる。
葬式場から亡者を奪うとされる火車の屋形車から溢れ出たのは、〝人〟だった。
「何、あれ……」
月夜が言葉を零す。
「なんで……嘘だ」
幸茶羽は頭を抱え、支え合っていた双子の姉と共に崩れ落ちた。
「結希、俺が見ているものは正解ですか? 何故、〝幽霊〟が……」
「正解かどうかは自分の目で見ろよ」
だが、そう言う結希でさえ信じられなかった。
人ような気配の正体はこれだったのか。だとしても、誰が幽霊の存在に気づけるのか。
「今日はお盆じゃ。もしかしたら、そのせいなのかもしれないのぅ」
「…………でも、なんでボクたちに幽霊が見えるの?」
「それもきっと、お盆のせいなのかも」
ならば、土地神が拒まないのは必然だ。むしろ受け入れるべきだろう。
「……届けよう、大切な者を」
再び呟き、和夏は顔をくしゃくしゃに歪めた。
「世界で一番、大切な者を」
それに呼応するように、結希は彼らの言葉を紡ぐ。
自然と視線が絡まった。結希は和夏を見下ろし、和夏は結希を見上げている。
泣いて笑ったのは和夏の方だった。
結希は上手く言葉を返せないまま、世界で最初に所属した組織──家族の元へと帰る幽霊を気配で感じ取る。振り返ると、久しぶりに帰郷した幽霊たちが人の気も知らないで微笑んでいた。




