十二 『小島の祠』
夏の夜は短いようで長く、淡い蛍の光が今でも星のように輝いている。満月で霞んではいるが、月とは異なり自ら輝く命の灯火は何よりも美しく──そして、何よりもひたむきだった。
空と陸双方の輝きが交じりあって、境界線が見えなくなる。結希はぼんやりとそれを眺めながら欠伸をし、隣に視線を移した。隣にいる和夏は同じく砂浜に座り込んでおり、じっと自分の手元を見つめている。
「ん〜。確かにワタシは法学部だけど、別に弁護士とかになりたいわけじゃないんだよなぁ〜」
「え、そうなんですか? てっきり麗夜さんと同じ進路に進む為に進学したのかと思ってたんですけど」
「あぁ〜、確かに今の陽陰町の弁護士は外部に任せっぱなしだから、レイは大変だろうけどね」
「それでも?」
「それでも、ワタシはワタシだから」
結希は息を呑み、和夏の聡明な瞳を見つめた。迷いのない晴れやかな表情は今でもそこにあって、彼女の意思を確かに示している。
具体的な夢はなくとも和夏は前だけを見据えていて、何も見えない結希にそれでいいんだとすべてを使って教示していた。
上に九人もいるのに誰一人として夢を語らず、語ったとしても先ほどの鈴歌が初めてで。そんな鈴歌もあの様子を見る限り他の姉妹には話しておらず、皆が口を噤むから語らうこともできず、一人で焦っていたのがバカみたいだった。
同級生から十一年分遅れている結希にとって、なんらかの焦りは常に傍にある。今だって、見えないでいる将来に悩んでなくとも焦っている。
それは、友人と呼べる同級生が全員家を継ぐ身であることが大きいのかもしれない。それでも、それを抜きにしても、幼馴染みの明日菜を見ていると妙に誰かに大人になれと急かされているような気がしていた。
「ユウもユウでしょ?」
砂粒を両手で掬い上げて微笑した和夏は、砂時計の砂のようにさらさらと地球の重力に従うそれを穏やかに見つめている。
結希は口を噤み、自由で突飛な和夏の思想に触れようとして手を引っ込めた。
「……そろそろ戻りましょうか」
そのままおもむろに立ち上がって、背筋を伸ばす。
和夏の思想を穢したいわけではない。だが、なんの条件もなく彼女の思想に酔いしれるほど結希は自由ではない。結希だってしがらみだらけの人生を送っている憐れな子供の一人なのだ。
だから、いつか自分は自分だと胸を張れる日が来たとしたら。きっと、その日は──。
「あれ?」
和夏の腑抜けた声で顔を上げると、辺り一面を広大な海が囲んでいた。どの方角を見ても来た道がない。閉ざされている小島の砂上は、どこの世界にも通じていない。
結希は数秒間息を止め、すぐさま瞑目した。
「満潮かぁ」
そんな結希の内心を知ってか知らずか和夏は諦めたように呟き、とぼとぼと歩いて離れていく。
「まんちょう?」
妖怪を探る集中力を切らして目を開いた結希は、そんな和夏から離れないように後を追った。
「…………ユウ、理科って習った?」
「捨てました」
必要最低限のことしか学び直していない結希は真顔で答え、絶句する和夏に対して胸を張る。
「あ、あのね、さっきは干潮だったからここまで来れたの。干潮って言うのは海が引いていくことでね、満潮だと海がドバーって、ドバーってなって……」
必死になって説明をしようとしているのはわかるが、海が引くとはどういうことなのか。来る時のあの状態のことを差すのなら、何故引くのか。
結希は唇を真一文字に結び、作り笑いを浮かべて誤魔化す和夏を長い間見つめ続けた。
「……ど、どうしよう」
「大丈夫ですよ」
妖怪の仕業でないのなら、慌てる必要はどこにもない。結希は不安そうに視線を伏せる和夏の後頭部に手を置いて、まっすぐに離島を見据えた。
「ゆ、ユウ?」
「念を飛ばして涙を叩き起こせば、今すぐにでも来てくれますから」
一ヶ月前、涙と京子が擬人式神を使用して結希を救ったのがそれだった。
町外から念で擬人式神を飛ばし、結希を救う為に森の中で奔走していた亜紅里の背中に張りつき、目的地へと誘われてその真価を発揮した。
結希は辺りを見回して森に目を止め、近づいて思わず足を止めた。
「和夏さん」
「ん?」
名前を呼び、森の入り口と思われる獣道の手前でひっそりと存在しているそれを指差す。
「それってまさか……」
「祠です。多分、ここの土地神の」
そこにあったのは、岩を削ってできたと思われる古い祠だった。全体を苔で覆われ、枯れた落ち葉も容赦なく輪郭を隠している。
手入れされた形跡はまったくと言っていいほどなく、忘れ去られた神の典型例のようにも見えた。
「……酷い。神様なのに」
「あるんですね、実際にこんなことが」
陽陰町はいつだって土地神と共にある。
春になれば土地神に豊作を祈り、夏になれば無病息災や悪霊退散を祈り、秋になればその年の収穫を感謝し、冬になれば昨年の感謝を捧げて今年の祈願を行う。それが小倉家が力を入れて主催する春祭り、夏祭り、秋祭り、初詣の存在意義だ。
だから、土地神を蔑ろにして忘れ去るなんてありえない。
小倉家が滅びでもしない限り、陽陰町の町民は風を司る土地神のことを決して忘れないだろう。
あの風丸がいれば未来永劫大丈夫だ。今までそう思っていたが、風丸は小倉家の正式な子供ではない。微妙に不安を煽られながらしゃがみ込むと、和夏も結希に倣ってしゃがみ込んだ。
自然物で擬人式神を作ろうとしたが、今はそれどころではない。使えそうなものを探しながら落ち葉を手払いし、苔に覆われた祠を見下ろす。
「毟る?」
「多分水の方が落ちやすいですよ」
毟られた後の祠が憐れで、結希は苔を撫でながら思案する。確かに劣化はしているが、忘れ去られたのは大昔でもないようだ。
「そっかぁ。じゃあ、スザクちゃんに水を持ってきてもらう?」
「いや、一度海水で試してみますね」
立ち上がり、握り締めていた若葉と共に海へと向かう。
「何をするの〜?」
「ちょっと離れててくださーい!」
若葉を海水に浸し、結希は静かに息を止めた。
普段結希が使用しているのはその道に特化した紅葉が作った札だ。札作りの神童と生まれたばかりの草葉とでは天と地ほどの差があるだろう。それでも、使いこなせてこそ真の陰陽師だ。
引き上げた若葉を構え、息を吐く。
和夏が離れていることを視認して、結希は祠に向かって術を唱えた。
「──ッ!」
大量とは言い難い海水が若葉の中から飛び出てくる。それでも、ホースとしての役割はこれで充分だった。
「すご……凄い! 凄いよユウ!」
離れていた和夏は瞳を輝かせ、徐々に距離を詰める結希と祠を交互に見つめる。結希は思わず笑みを零し、若葉の水が枯れる瞬間を見計らって祠へと辿り着いた。
「和夏さん、毟っていいですよ」
「ほんとに?」
猫耳のように髪をピンと張った和夏は、犬のような好奇心で猫の手を作る。ごろごろと喉の奥を鳴らして犬歯を見せ、一声鳴いた刹那に祠に飛びかかった。
「ふしゃぁぁぁぁ!」
長く伸ばした爪を駆使し、全力で苔を毟る。
マフラーが外れたわけでもないのに、今の和夏は猫そのものだ。ただ、楽しそうに笑う彼女はいつもの和夏で──結希は決して、和夏を見失ったりはしなかった。
「うわっ?!」
全力で遊ぶ子供のような和夏を見守っていると、剥がれてきた苔が宙に舞う。髪や頬につくそれを摘んで眉間に皺を寄せるが、和夏が気づくことはなかった。
やがてにゃごにゃごと頬を掻き、和夏は猫のように目を細めて得意気に笑う。
「あ」
飽きれながら目の前の祠に視線を向けると、そんな和夏の努力が見事に叶っていた。
水で洗って爪で毟った祠は、元通りとはいかずとも見れる程度にはなっている。いや、結希が過度に気にするだけでこれはこれで綺麗なのだろう。
「綺麗ですよ、和夏さん」
「え?」
腑抜けた声で振り返った和夏は、結希を捉えて固まった。何事かと思って見つめ返すと、顔中に老緑色の苔をつけた和夏がそこにいる。
「……ふっ」
「ふふっ」
考える前に零れた笑み。それを隠す為に咄嗟に口元を覆ったが、見れば見るほど笑いが込み上げてきて止まらない。
「ふっ……和夏さん、こっち見ないでください」
「ふふっ、ゆ、ユウこそこっち見ないで……!」
唇を噛み締めて震えるが、それは和夏も同じだった。
改めて和夏の瞳を見つめると、その中で想像以上に苔にまみれた自分が笑いを堪えている。
「和夏さん!」
「わ、ワタシのせいじゃ……あぁいややっぱりワタシのせいだけど……!」
「覚えてますよね? 別人格だったら普通にぶっ飛ばしますよ?!」
「おおお覚えてるよ! だってマフラーしてるもん!」
ほら! と勢い良く巻いていたマフラーを見せ、和夏は何故か胸を張る。胸を張るところを間違えている気がするが、結希は押し黙って和夏を見つめ続けた。
すると、負けじと和夏も結希を見つめ続ける。苔塗れの二人が互いを見つめ続けたって醜い自分しか見えないというのに、何が自分たちをそうさせるのだろう。ふるふると唇の端を震えさせるが、最終的に負けたのは和夏だった。
「ふふふっ! ふふふふふっ!」
口元を両手で覆って笑う和夏に釣られ、ついに結希も笑い声を上げる。
故郷から遠く離れた小島の上で、自分たちは一体何をしているのだろう。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、それでも成し遂げたことは誇らしくて、不釣り合いなそれと互いの姿がおかしくて。
「ははっ……! はははっ!」
払い落としていない砂でさえおかしくて、膝を折って腹を抱える。
思えば、ここに来て帰れなくなったというのも滑稽だ。あまりにも滑稽すぎて笑うしかない。この先何度だって持ち出されて何度だって笑い話になるような、そんなおかしさがここにはある。
「ふふふっ、ゆ、ユウ、笑いすぎ……!」
「あ、あんたに言われたくっ、ないんですけど……!?」
馬鹿みたいに泣いて、馬鹿みたいに笑って。
本当に、馬鹿みたいに忙しくて自由な人だ。
和夏を縛っている鎖は今もその首に巻かれているのに、その奔放さがどうしようもなく羨ましい。いや、その苦しみは別人格がすべてを請け負っているのかもしれない。
『……あと少し頼みごとができるなら、和夏を一人にさせないでくれるか?』
その言葉の本当の意味を、結希はちゃんと知っている。
知っているから枯れたような笑みを漏らし、顎を引いた。
「……お、お腹痛い」
「……帰りましょうか、本当に」
長い息を漏らして空を見上げ、落ち葉を拾って掌に載せる。恐ろしいくらい軽いそれに吐息で命を込め、結希は自らの念で涙へと飛ばした。
町外から町内に向けて飛ばした二人には遠く及ばないが、それでもいつかを夢見て月下で待つ。
「ユウは凄いね」
そして視線を落とし、いつだって手放しで自分を褒め称える和夏を見据えた。
「別に凄くないですよ。陰陽師なら誰だってできますから」
それを知らないから和夏は言葉にできるのだ。
ため息をつき、素直に受け取れない自分にも苛立つ。一体どうしてほしいのか自分でも理解できないまま視線を伏せ──
「ううん、絶対できないよ」
──断言する和夏から顔を背けた。
「そんなこと──」
ない。そう言いかけて──
「だってワタシ、笑ってるもん」
──斜め上から頭を殴られた。
「……は?」
「ユウだけだよ。こんなワタシを笑わせてくれるのは」
思わず顔を上げた先で、幸せそうに笑う和夏がいる。
上手く言葉が出てこない。和夏は今、何故幸せそうに笑っているのだろう。
「そんなの、レイにだってできない。レイは頭が固いから、温かさしか伝わらない」
世界が救われたわけでもないのに、和夏が和夏から開放されたわけでもないのに、和夏は本当に幸せそうだった。
「アナタだけだよ。こんなにワタシを泣かせて、こんなにワタシを笑わせてくれたのは」
アナタだけ。和夏はもう一度強く言い、呆然と固まる結希の表情筋を崩した。その顔を、朝日だけが照らしていた。




