十一 『和やかな夏も日々の中に』
窓辺のテーブルに齧りついて、少しずつ少しずつ問題を解いていく。
現状から目を背けるように、結希は出発前に和夏から渡されていた麗夜の問題集を片付けていた。
目の前の数式に全力で頭を使えば、余計なことは考えなくて済む。闇夜に出没しない妖怪のことを考えても、今は無駄でしかないのだ。
結希はため息をつき、顔を上げて外の世界に目を向ける。窓を一枚挟んだ向こう側には、陽陰町では決して味わえない真夏の夜の浜辺が視界一面に広がっていた。
煌々と輝く満月が偉大なる海を照らし、海は妖しく色を変えながらその身をいつまでも波打たせている。誰が乗っているのか、遠くの方では小舟が揺蕩いながら世界を包み込む海と一体化していた。
窓を開け、流れ込んでくる潮風を全身で受け止める。海も、風でさえ世界共通だ。なのに風が運んでくる匂いはどこにいても違う。
結希は瞑目し、無意識に妖力を探った。傍らで眠る涙も、隣室で眠る姉妹たちも、今は静かに夢を見ている。そう思って咄嗟に立ち上がった。
「……ッ!」
いない。たった一人が、いるべき場所にいない。
目を見開き、窓枠に足をかけて飛び出して、いつまでも不審な動きをする彼女の後を結希は追った。
猫のくせに犬のような性格をしているとはいえ、こんなところで野良にでもなられたら身を引き裂かれるような痛みしか覚えない。
一度手放したらもう二度と手に入らないような、そんな脆くも儚い絆で結ばれているのに──数多の人格を持つ和夏は、輪郭さえ持たずに今にも消えてしまいそうだった。
「なんなんだよあの人は!」
丑三つ時と呼ぶにはまだ早い午前零時。怒りと共にぶち撒けた苛立ちは、自分勝手で誰もが愛する和夏に届くだろうか。
いつだって知らぬ間にその辺で寝ていたのに、いざと言う時になるとどこにもいないなんて──そんなの、惨すぎる。
「和夏さん!」
砂浜をサンダルで踏みつけて、砂粒が中に侵入しても結希は気にも留めなかった。
そんなことよりももっと大切な、実母以上に同じ釜の飯を食べていたと言っても過言ではない彼女の名前を喉が張り裂けるまで叫ぶ。
昼間に見た時は海だったのに、和夏の足跡は引いた海に隠れていた砂浜を踏み締めていた。そんな足跡と妖力を辿って、声が届く距離まで走る。
「和夏さんっ!」
地続きの小島。その砂浜。入水間近と受け止められても仕方のない位置で地平線を眺めていた和夏は、それでも振り返らなかった。
向けている背中は小さくて。世界を弄ぶ風に煽られた黄緑色のマフラーだけがいつものように揺れていて。同じく揺れる茶色い髪も、緑色のスカートも、潮風に混じったマスカットの匂いも、全部全部知っているはずなのに。
「……何、してるんですか」
知らないと感じてしまう自分が憎かった。
問いかけてようやく振り向いた和夏は、一筋の涙を頬に伝わせて呆然と結希を捉える。
目が合って、視線で確かめ合って、和夏は僅かに唇を結んだ。
「……思い出せない」
絞り出すように漏らした声は、決して苦悩しているわけではない。ただ、知らぬ間にぽっかりと空いた穴の存在意味がわからない──それだけのように聞こえた。
「何、が……」
上手く言葉が出てこなかった。
息切れしたわけではない。どうしても、かける言葉が見つからない。
「あるんだ、時々。何をしたか覚えてない瞬間が」
和夏は笑わなかった。
彼女は困った時にへらへらと笑うような人間じゃない。呆然と、何を考えているのかまったく読めない表情で溶けている。
記憶を保存する脳を切り刻んで分析しようとしてみても、靄がかかっていてよく見えない。そんなことは記憶喪失の結希にだってしょっちゅう起こっていることだ。
だが、和夏は記憶喪失ではない。見えないものは二人とも同じなのに、肝心なところだけが違う。
「今日、ワタシ、ユウのことで泣いちゃった気がするの。でも、気づいたら寝ちゃってた。……ねぇ、ユウ。ワタシは泣きながら寝ちゃってたの? そんなに頭のおかしなことをしちゃってたの?」
結希は、あの別人格の存在を知っているのだ。
「家族やレイに聞いてもね、みんな誤魔化しちゃうんだ。どうしてかな、ワタシ、そんなに変なこと聞いたつもりないんだけどなぁ」
そんな繊細な存在をおいそれと言えるわけもないのに、和夏はそのせいで疲れ切ったのか、諦めたような表情もしていた。
はらりと落ちた涙は一粒なんかでは済まない。長年溜め込んでいたのか、和夏の涙は止まることを知らなかった。
「ワタシ、ずっと、大好きな人たちに迷惑をかけていたのかな。困らせたいわけじゃないのに……大好き、なのに」
和夏がどれほど家族のことを想っているのか、結希は痛いくらいに知っている。あの幸茶羽でさえ月夜以外の家族もちゃんと愛しているのだ。
誰もが誰かを嫌っているわけではない。壊れないように宝箱に入れておきたいから、何も言えなくなってしまう。
そんな伝わらない優しさと無数にある無限の愛の積み重なりで、彼女たちの楽園は存在していた。
「──多重人格」
涙を拭った和夏は、声を漏らして動きを止めた。
「多重人格者なんですよ、和夏さんは」
その中に自分が組み込まれていないような気がして、結希はずっと思っていたことを告げる。
「あの時の和夏さんは、俺が知ってる和夏さんじゃありませんでした。マフラーを取って、泣いて、違う人になっていた。……俺のことを『お姫様』って呼んだの、あんたは覚えてますか?」
ふるふると首を横に振った和夏は、正面から結希を見据えて絶句していた。
真実を告げるだけなのに、何故こんなにも胸が痛むのか。
結希自身が数多の真実を隠されて育ってきたからこそ伝えようと思っただけなのに──痛い。苦しい。誤魔化したい。これが隠された真実を告げる者の苦悩なのか。
「和夏さんが何も覚えていないのは、多分そのせいです。ずっと覚えていたいのなら、そのマフラー、外しちゃダメですよ」
何故か結希まで泣きそうになって、無言で堪えた。
真夏の夜の夢であってほしい。和夏が思い悩まずに笑っていて、和夏の虚無を知らないまま自分だって笑っていて。和夏と和夏に違いなんかなくて、触れないまま蓋をしていれば──それだけで、痛みは何もなく笑っていたはずだ。
「……あ」
ふわりと和夏の髪の毛が逆立つ。
猫の耳がピンと張ったような反り方をして、口元を両手で抑えて後ずさる。
「そうだ、ワタシは、あの時……ワタシは…………にゃあっ!?」
海に片足を突っ込んだ和夏は、弾けるように飛び上がって結希の下へと避難した。咄嗟に手を伸ばすが、和夏はぼろぼろと涙を流したまま呆気に取られて膝をつく。
「ワタシ、は……!」
髪を貪るように鷲掴み、生まれて初めて苦悩したかのような苦痛に顔を歪め、和夏は何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
駆け寄ってしゃがみ込むと、和夏は朧気な視線で結希を見上げ──
「……六年前から、何もなかったんだ」
──奇跡と絶望が入り乱れたあの時代の名を呼んで、縋りつくように寄り添った。
「…………六年前?」
真璃絵が意識不明の重体となり、心春が誘拐され、きっと鈴歌や朱亜にも何かがあったあの時代。そして、大勢の誰かが呆気なく屠られたあの忌まわしい日。
結希は眉間に皺を寄せ、いつまでも視線をさ迷わせる和夏の肩を抱いた。
「あぁ、そうだ……。愛果ちゃんたちが避難してて、ワタシは戦いに出なくちゃいけなくて……それで……!」
震える手で黄緑色のぼろマフラーに触れ、和夏は何度も何度も呼吸する。時折結希の匂いを嗅いでいるようにも思えたが、たったそれだけで、和夏の焦点は徐々に合っていった。
「誰かに、そう、誰かに……」
思考の邪魔をする靄を掻き殺したのか、確かに明瞭になっていく。そしてそれに比例するように、和夏は荒い呼吸をやめられない。
「誰かにワタシは、首を刎ねられたんだ」
鮮血を撒き散らしながら宙に投げ出された彼女の頭部──。脳裏にそんな悲惨な映像が浮かび上がり、真っ白になって全身を打ちつける。
今、なんて言った? そんな目に遭ったのに、まだ人は存在していられるのか?
いや、違う。和夏は半妖だ。そして他の十二姉妹を遥かに凌駕するほどの濃い妖怪の血が流れている。
違いなんて何もない。いつだってそう思っていたいのに、そうだと思えない現実がある。
和夏は黄緑色のマフラーを大切そうに整えて、緊張の糸を解いたように息を漏らした。
何もなければ痛みなんてない。そうだったら良かったのに、和夏のそのなんとも言えない晴れやかな笑みを見たら何も言えなかった。
「ありがとう、ユウ。本当のことを言ってくれて、ワタシ、凄く……嬉しかった」
もう泣いてなんかいない、その泣き腫らした微笑みが。
「嘘をつかないでいてくれて、ありがとう」
無垢で真摯な言葉の数々が、自らの軽率な行いを優しく肯定していた。
いつか自分が真実を知った時、それを今の和夏のように嬉しいと思えるのだろうか。
どんなに悲惨な物語でも、そうやって受け止められるだろうか。
「……強いんですね、和夏さんは」
そんなことさえ知らなかった自分がどうしようもなく恥ずかしくて、結希は俯く。
「強くないよ、ユウ。ワタシはあの日、弱いから死んだんだよ」
ただ、和夏はあっさりと否定した。
『断言できますよ。貴方は絶対、本当の私には会えない。偽物の私にしか出逢わない宿命なんです』
そんな和夏にあの瞬間の和夏を重ねて、結希は思わず笑みを零す。
『苦しいから笑ってるんだよ、ゆうゆうは。笑わないと心のバランスがとれないから、ゆうゆうは笑ってていいんだよ』
終いには亜紅里の赦しさえ思い出して、結希は乾いた声で笑った。
潮風が目に染みる。いや、むしろ痛い。目を擦れば視界がぼやけ、背後に顔を逸らすと森林の中に潜む蛍が淡く光る。
「使う?」
差し出されたマフラーの端っこは、びっくりするくらい解れていた。
「必要ないですから」
「いいよ、使っても」
「しつこいですよ」
「アナタの為になるのなら」
結希は視界の端で垂れるマフラーから目を逸らし、点在する淡い蛍の光を眺める。
「ばっちいのは嫌いです」
唇の端を歪めて本音を漏らすと、マフラーを引っ込めた和夏はまじまじとそれを眺めて──
「あ、ほんとだ」
──耳を疑うような台詞を零した。
「…………」
「そっか……。レイから貰ってから、もう六年も経つんだもんね」
振り向くと、和夏は慈しむようにマフラーを眺めていた。
結希は和夏に背中を向け、当時の麗夜なりの気遣いを思う。
「買い換えたりしないんですか?」
「うん。まだ、これがいいかな」
「じゃあせめて洗いましょうよ」
「あはは、帰ったらしなきゃだね」
「解れたところはどうするんですか?」
「どうしようかな」
不完全なりに思考しているのか、和夏は答えを出さなかった。
結希は膝に肘をつけて黙考し、出ない答えを探し続ける。
「あ。じゃあユウが直してよ」
「直す……? って、はぁ?!」
思わず振り返ると、和夏は満足気に笑っていた。
「うんうん。やっぱりそれが一番いいかなぁ」
「ちょっ、冗談は方向音痴だけにしてくださいよ!」
「ユウ、ワタシは本気だよ」
「俺は本気じゃないです!」
真面目そうな表情で人差し指を立てる和夏は、聞く耳を持たなかった。
そんないつも通りすぎる和夏に安堵しつつも、結希は全力で拒絶する。
「ユウがいいの。下手くそでも、レイとユウの編んだマフラーがいいの」
そうやって和やかに笑う和夏にいつの間にか脱力し、結希はいつの間にか押しに負けた。
長い長い夏休みが折り返し地点に来たとはいえ、夏はまだまだ終わらない。
結希は表情を引き攣らせ、百妖家の眷属であり結希の義姉として全力で我が儘を貫き通す和夏をなんとも言えない安堵感と共に眺めていた。




