日常のズレ
夏休み、それは普通の学生にとっては大切な青春の一ページだろう。友人や彼女と過ごす時、皆で楽しむ夏祭り、楽しいだろう。楽しいであろうな。しかし、受験や就職が待ち受ける者達にとっては喜ばしいとは言い難いだろう。今やらないで何時やるのか、とでも言いたげな両親や教師の視線。血走った目の友人、恐ろしいことこの上ない。
そんな夏休みが迫ろうとする中一人の少年が空を仰いでいた。澄んだ水色の髪を揺らし、やや女よりの中性的な顔立ちをしたその姿は、初見で男だと断言できる者は少ないだろう。そんな少年の隣には日に焼けた肌と背中で一本に結った黒い髪が特徴的な男がただにこやかに川に投げ入れたルアーの動きを眺めていた。
「何やってるんだろうな」
「青春だねえ」
川の辺に座りのんびりと話をしながら釣りをする少年とオッサン。片や十八歳、片や三十八歳と言う異色のコンビはそうそう見れる物ではないだろう。端から見れば親子だ。しかし、その実態は受験期真っ只中の高校生と只のお気楽ホームレスである。
「良いんじゃないかなあ。若さの持つエネルギーは何でも出来そうだからねえ」
「その結果から生まれたのが今のアンタだと俺は思うがな」
少年、一条響の言葉にオッサンは軽く笑う。
「僕だって昔は必死扱いて色々やったもんだよ。君ほど怠惰ではなかった」
「俺は別に怠惰な訳じゃねえよ。面倒なことに絡まれたくないだけだ」
「じゃあ何で昔から僕に絡んでくるんだい?」
「………」
オッサンの質問に響は口を閉ざす。
「別に何だって良いだろ。もう何年の付き合いだよ」
そう。このオッサンーー櫛宥修也との出会いは何も今日が初めてではない。小学生の頃からの付き合いであり、友人といるよりこのオッサンといる時間の方が長い気がしてくるほどだ。両親のいない響にとっては父親と言ってもいいだろう。尤も、彼がそれを口に出すことは絶対にないが。
「所で響君、君は今日は学校じゃなかったのかな?」
修也の言葉に響のやる気のない瞳がより一層のやる気のなさを表す。長年の付き合いである修也には、それが不機嫌さの現れであると即座に分かった。
「良いんだよ。土曜講習は出席日数取られねえし」
鼻を鳴らして現実から目を背けるように空を仰ぐ響に、修也は眉根を下げ溜息を吐く。
「そういう問題ではないよ。勉強に着いていけなくなるじゃないか」
「宇宙一頭のいい俺には不要だ。つか何でおっさんが学校のこと知ってんだよ」
「ここを通る女子高生の制服が君の学校の物だったからねえ。聞いたんだよ。危うく通報されるところだったけど」
まあ、ホームレスのオヤジが突然そんなことしてきたらそうなるであろう。もし修也がイケメンでなかったら一歩近寄っただけで通報物だ。
「所で響君。今日の夜は外食でもしないかい?」
「アンタは年中外食だろ」
「ああ、ごめんよ。そうじゃなくてファミレスでも行こうという意味だ」
「いや、分かってるから。何で普通に返してきてんだよ」
響の言葉に、修也は何かを気にするそぶりもなく、丁寧に言い直す。そんな修也の反応に響は溜息をつく。
この人には皮肉もジョークも伝わりにくい。そしてこの人のジョークも伝わりにくい。
それが響の長年付き合ってきた者としての感想であった。天然なのかわざとなのか、微妙に分かりづらい辺りがいやらしい。
「飯代はアンタ持ちな」
「当たり前じゃないか。僕だって十歳以上も年下の子に集りはしないさ」
「なら俺は遠慮なくアンタの財布に氷河期を迎えさせてやれるな」
「……流石に冗談だよね?」
「は?」
「えっ」
「ただいま」
自分の家に着いた響はリビングへ向かうと冷蔵庫から麦茶を取り出す。
親達が遺していったらしい一軒家の家は一人では随分広く。自身の物があまりない為ひどく殺風景である。一時期ここに修也を住ませて家事全般をやらせようかと思ったこともあるが、修也に悠々自適な生活をさせるが癪で結局やめてしまった。
響はテレビをつけるとソファに体を沈める。修也との約束の時間までにまだ随分時間がある。見たい番組もなく、ただ呆と画面を眺めていると、不意にズボンのポケットが震える。体を動かすのを億劫に感じながらも、ポケットの中の携帯をとる。メールを送ってきた主は幼馴染であった。内容も予想通り学校に来なかったことに対するものだ。
向こうも分かっているであろうことをわざわざ送るのが面倒くさく、返信をせずに携帯をテーブルの上において響は瞼をおろした。
「……さむ」
夏といえども、今夜は肌寒く、響は僅かに身震いする。こんな事なら長袖のシャツでも着てくればよかったと後悔しながら響は修也のいるファミレスに向かう。
「お、来たね」
「何で外にいんだよ。風邪引いたらどうすんだ」
「その心遣いは嬉しいね。けど問題ないよ。伊達に長年ホームレスをやっていなかったからね」
何故コイツは胸を張ってそんなことを言っているのだろうか。
そう思いながらも、それを口には出さずに修也に促されるまま店内へと入っていく。店内には子供連れが多く、客の入りもそれなりと言ったところだった。修也達は店内の一番奥の席へと案内された。
「これは思わぬ幸運かな。此処なら色々話しやすい」
「何処の席だろうとアンタは話せるだろ」
修也の言葉に何時も通り返すが、その返しに対して修也は苦笑するだけで、響は首を傾げた。
やがて注文した物が運ばれ、食事中に修也が口を開いた。
「実はね、君を誘ったのには理由があるんだ」
「ふーん」
「いや、少しはこっちに興味を向けてくれよ」
視線を料理に固定する響に修也は苦笑する。
「話って言うのはね、まぁ昔から何度も言ってることなんだけど……。響君、君は魔法や超能力って言うのを信じてるかい?」
修也の言葉に響は大きく溜息を吐いた。
「またその話かよ。昔から言ってんだろ。俺は自分の目で見たものじゃなきゃそういう類は信じれねえ、って」
「小学生の時にその言葉を聞いたときは何て夢のない子供なんだと思ったもんだよ」
「現実でそんなのを使うのがいないからな。小学生の時点で世間の常識には毒されてるもんだろ」
「まぁ、そうかもね」
そう言いながら、修也は胸ポケットから何かを取り出し、響の目の前に置く。
それは金属で作られた何かのパーツのようなものであった。懐中時計程の大きさのそれは、店内の光を反射し鈍く輝いている。見方によっては、無骨なアクセサリーともとれないことはない。
「……何だよこれ」
「常識を壊す魔法の道具さ」
響の言葉に修也は笑みを浮かべた。
「……嘘くせえ」
「まあ魔法っていうのは嘘だよ。そんな夢のある物じゃない」
修也は今までの笑みを消し、真剣な表情で響を見る。
「これを君に託したい。もしこれから、君や君の大切な人達の身に危険が迫った時だけ、これを使ってほしいんだ」
「使うたって……これを投げる以外にどう使うんだよ」
「言ったろう、これは魔法の道具さ。姿だけに捕らわれちゃいけないよ」
響はその金属製の何かを手に取り、じっと見つめる。
「それを開く合い言葉を教えるよ。これは、君以外の誰にも教えちゃいけない。それと、絶対にこれを無闇に人の視線に晒さないと約束してほしい」
「……アンタがそんだけ真剣なんだ。きっとすげえ物なんだろ。分かった、約束する」
響の言葉に修也は再び笑みを浮かべる。
「それじゃあ教えるよ。これを開く合い言葉はーーー」
「食った食った」
「……………」
先程より快適な気温になった夜道の中を満足げな様子の響と俯きながら青ざめた表情で財布の中身を何度も確認する修也が歩いていた。
「おい、おっさん。いい加減ーーー」
何時までもトボトボと歩く修也に声をかけようとし、響のポケットに入っている携帯が震えた。
「………」
小さく舌打ちをし、面倒臭いと思いながらも携帯を取り出して画面へと目をやる。しかし、画面に表示された香山茜という名前を確認した瞬間、響の顔が青ざめた。
「悪いおっさん、俺帰るわ!」
普段仏頂面ばかりの響が焦る様子を見て、修也は掛かってきた電話の主に気付いたのかその顔を綻ばせる。
「あの子からかい?」
「ああ、じゃあなおっさん。風邪引くなよ」
「響君」
それだけ言って走り帰ろうとする響を修也は引き止める。何だろうか、そう思いながら振り返る響に修也は真剣な面持ちで口を開く。
「今日渡した物は他言無用。当然、彼女にもーーー」
「分かってる。じゃあな」
修也の話を聞いているのかいないのか、響は会話を断ち切り街灯に照らされた道をかけだした。
「本当に分かってるのかなぁ」
遠ざかっていく背中を眺めながら、修也は一人不安そうに呟いた。
街灯しか光源のない薄暗い道を響は走っていた。住宅街とは言えもう遅い時間だ、殆どの住民が家の中にはいってしまっているだろう。自宅の玄関前に着いたところで響は漸く足を止めた。
「茜!」
荒い息を吐きながら玄関の前に座る人影に口を開く。
「来る前に連絡くらい寄越せよ」
「人からの連絡を無視しなければ考えてあげる」
そこにいたのは一人の少女だった。長い栗色の髪を揺らしながら立ち上がると、茜と呼ばれた少女はにこりと笑う。
「走ってきたんだね」
「幼なじみを外にずっと放置するほど俺は鬼じゃねえんだよ」
言いながら玄関の鍵を開け茜を中に入れる。茜はおじゃましまーす、と言うと奥の居間へと駆けこんで行く。
「一応俺の家なんだが…」
その姿に小さく溜息を吐き、響も靴を抜き居間へと向かう。居間へ入ると、既に茜はソファに座り自分のマグカップを握りしめていた。まるで餌を待つ犬の様に目をキラキラさせて待機している茜に思わず苦笑が零れる。
「コーヒーなら今淹れるから待ってろって……」
「はーい。ところでさー」
「ん?」
「私が来た理由…分かってるよね?」
「………」
背後で高まりつつある怒気を感じ響の背中に冷や汗が伝う。
「今日は買い物に付き合ってって言ったのに、学校には来ないし、電話しても出ないし、家に来たら出掛けてるし…」
このままでは殺される。本能が危険信号を出すのを感じ、響は慌てて言い訳をする。
「きょ、今日は突然おっさんから大切な話があると言われてだな…、そ、それで時間が掛かってだな―――」
「………」
「ほ、本当だぞ」
「そっか」
納得したのか許してくれたのか、茜の怒気が徐々に静まっていく。それに胸を撫で下ろしながら、心中で修也に詫びをする。俺の為に生贄になってくれと。
「悪かった。次はちゃんと付き合う」
「良いよ。修也おじさんとの話だったなら仕方ないもん」
そう言って茜はテレビの電源を付ける。
ごめん、おっさん。ホントごめん。後でラーメンおごる。
そう心に決め、響はマグカップに珈琲を注ぎ、茜へと渡す。
『―――犯人は未だ捕まらず、傷口や犯行現場からここ最近起きている事件の同一犯と…』
「まただ…」
テレビから流れる言葉に茜が小さく呟く。テレビで放送されている事件は、二週間ほど前から俺達が住むこの鳴海市で起きている通り魔事件のことだ。既に多くの人が被害にあっており、犯人は不明、一人で夜道を歩く人がその対象となっているらしく。傷口から、何か鋭利な刃物、まるで日本刀の様なもので切り裂かれているらしい。犯人は捕まるどころか、寧ろその行動がエスカレートしてきており、昨日は三人も襲われたらしい。
「怖いね」
流石に事件が自分の住む市内となれば他人事ではないだろう。茜は呟き、その身を小さくする。
「帰りは送る。おばさん達も心配するだろうしな」
「ありがと」
茜は小さく笑みを浮かべてそう言った。
足りない。この程度の餌では飢えは満たされない…。
月明かりも届かないビルの路地裏。そこに『ソレ』はいた。紅い瞳を瞬かせ、目の前で怯える今宵の餌を見下ろす。恐怖で声など出せないのだろう。腕を浅く切り裂かれた女性は尻餅を突いたまま身体を振るわせただ目の前に立つ『ソレ』を見上げるだけだ。
もっと美味い餌が欲しい。この飢えを満たす事の出来る餌が…。
しかし、腹から叫ぶ声を無視することは出来ない。『ソレ』はただ右腕を振り上げて、今日の夕食を腹へ納めるべく振り下ろした。
ここ数日の事件は学校側でも問題となった。保護者達から生徒の安否を心配する声も多く授業は午前中までとなり、部活動も全て休部という形になった。
まだまだ日射しの熱い中を響と茜は帰っていた。
「―――それでねー」
「ほー」
隣で喋る茜に相槌を打ちながら、響は携帯から目を放さない。
「えい!」
「あ、おい…」
「またバイト?こんな時くらい休んだって良いじゃない」
頬を膨らませる茜に響は苦笑する。
「そういうわけにもいかないだろ。おじさんやおばさんの世話になってばかりじゃ迷惑だし、危ないから休みますって店長に言える訳ないんだ」
「そうだけど…。お母さん達だって遠慮するなって何時も言ってるじゃない」
諦めきれない様に抗議の視線を送る茜の頭を撫でながら響は笑う。
「俺だって男なんだから大丈夫だ。それにお前と違って足が遅い訳でもないし、出会ったら直ぐに逃げてやるさ」
「…もー、ホントに気を付けてね?」
「分かってる」
響の言葉に茜は呆れた様に大きく溜息を吐く。そんな姿に響は小さく笑いながら返事をしたのだった。
すっかり日も暮れ、辺りが夜に包まれた中、響は自転車を漕ぎながら帰路に着いていた。あの事件のおかげで夜に外出している人は少なく、何処も人気が無かった。きっと茜や話を聞いたおばさん達も心配しているだろう。僅かに漕ぐスピードを上げ、街灯に僅かに照らされた道を走っていると、突然裏路地から人影が飛び出してきた。
「―――っ!うおっ!……とととっ」
急ブレーキをかけ飛び出してきた人影を避けるようにハンドルを切る。突然飛び出してきた人影に文句の一つでも言ってやろうかと人影の方を向き、響は目を見開いた。
『………』
その人影は異常であった。二メートルを超えるであろう背丈に、丸太の様に異常に膨らんだ右腕。そしてなにより煌々と瞬く紅い眼を『ソレ』は持っていた。
呆気にとられて動く事の出来ない響に、それは無造作に右腕を振るった。振るわれた右腕はまるでゴムの様に伸び、響の腹を強く打つ。
「~~~~~~っっ!!!?」
その衝撃に響は自転車から吹き飛ばされコンクリートの壁へと叩きつけられる。背中を襲う痛みよりも、先程の右腕に打たれた衝撃で逆流してきた胃液を地面に吐く。
「はぁ…はぁ…」
全身を襲う痛みに動けなくなる響に『ソレ』は近付いて来る。街灯の明かりの下に来た時、『ソレ』の姿を見た響は痛みも忘れて目を見開く。『ソレ』はまるで影だった、真っ黒な姿と異常なまでに膨れ上がった右腕、そして鰐の様にとがった牙と煌々とした紅い眼。その容貌は正しくモンスターと呼ぶに相応しいものであった。
『エサ…美味そうなニオイガすル』
そう呟きながら涎を垂らし近付いて来る『ソレ』に危機感を感じた響は、痛みすらも忘れてその場から逃げだそうとする。しかし、先程の衝撃から思う様に走る事が出来ない。そんな響を逃がす訳もなく。『ソレ』は右腕を伸ばし響の足を掴む。
「ぐっ!」
足を掴む右腕の力に思わず響はうつ伏せに倒れる。倒れた衝撃を気にするより早く、足を掴む腕を外そうと響は必死の抵抗をする。それを煩わしいと思ったのか、『ソレ』は響を逆さに釣り上げるとコンクリートへと叩き付ける。
「――――っぁ!が、っ……ぁ」
頭と背中に強烈な痛みが走り、響はその場に浅い呼吸を繰り返しながらその場に倒れ伏す。そのまま幾許ともせず頭から何かが流れ落ちる感触が伝い、ソレは視界の左半分を赤く染める。それが血だと分かりながらも、それを拭う力さえ出ず、響はただゆっくりと迫る『ソレ』に何も出来ず眺めるだけだった。
『ウまソウな匂い…エサ…エサ…』
その巨大な口から大量の涎を滴らせながら『ソレ』は響を持ち上げ、喰らわんとその顎を大きく開ける。響はそれに抵抗する事も出来ずただ持ち上げられ、ゆっくりと口に運ばれて行く。
「…け、な……」
迫る顎を前に響は呟く。その声は次第に大きなものとなっていく。
「ふ…っざけん、なっ!!」
響が叫ぶと同時、ズボンのポケット、いやその中にある何かから眩い閃光が溢れる。
『匣ッ!…イヤ!チ、近付クナアァァ!!』
その光を浴びた瞬間、『ソレ』は叫ぶと響を投げ捨てその場から逃げだしていく。
放り投げだされた響は、薄れゆく意識の中、その場から跳び遠ざかって行くその姿を目にし、意識を投げた。