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お待たせいたしました。過去・出会い編開始です。




 その日はいつもと変わらない日のはずだった、と葵紗(きさ)は記憶している。




 今年29歳になる葵紗は、いたって普通の家庭に生まれ育った。両親は健在で兄姉が一人ずつ、という末っ子であるためか少々甘やかされて育った感は否めないところだが。

 両親ともに美容師で、兄姉はそれに影響を受けたか生まれながらの英才教育の成果か、美容師とスタイリストとして雑誌などで取り上げられるくらいには有名だった。けれど葵紗だけはまったくそういう方向に興味が向かなかったのだ。

 服はダサくない程度なら何でもいい、髪の手入れなんて自分でしたことなんてないし、化粧なんて必要な意味がわからない。という親兄弟がいつも嘆くほどの無頓着ぶり。せめてと服は姉が用意したし、髪を切るのはいつも兄。あんたがそんなだから過保護になったのだろうとは、葵紗の友人の言だ。

 その代わりといってはなんだが、葵紗が唯一興味を示したのが料理だったのだ。

 両親は仕事柄いつも家にはいたが、そこそこ繁盛していたために子供たちが大きくなってから家事の殆どを分担して行っていた。葵紗は兄姉とは少し歳が離れていたが、それでも小学生になるかならないかの時には、すでに彼女は包丁を握っていた。

 それというのも、彼女の家族は揃いも揃って料理音痴だったのである。

 髪を扱うときには器用に動く指は包丁を持てば傷だらけになり、煌びやかな和服を手際よく着付ける腕は焦がした鍋を引っ繰り返し掃除の手間を増やした。

 そんな光景を物心ついたときから見せられていた葵紗は、自分が何とかするしかないとでも思ったのか。今となっては彼女自身覚えてはいないが、10歳になる前に台所は彼女の領分だった。

 ……家族が台所に入って何かしようとするたび、幼女が脅しをかけていた光景はシュール以外のなにものでもなかったと思うが。

 勿論、葵紗の作る料理が家族の誰が作るより美味しかったのが何よりの理由であり、幼いながらもその手際は見事なものであったせいでもある。

 葵紗は一度家族に訊かれたことがある。


「どこで覚えたんだ?」


 それに対する答えは簡潔だった。


「みんなが作ってたのと、本とテレビを見たから」


 それだけで大人よりうまく作れるか? という疑問を家族は持ったが、おそらくは彼らが料理に関しては特別不器用なだけだったという現実に口を噤んだ。

 そんなこんなで長年家族の食事を作り続けていた葵紗は、当然のことながら唯一の趣味であり特技でもある料理の道を進むことに決めていたが、別に師匠に弟子入りして自分の店を持つ、なんてことは考えなかった。彼女はただ自分の作った料理を食べた相手が、少しでも疲れを癒して笑ってくれたらそれでいいと思っていたからだ。だから専門学校に進み、調理師免許を取った後は企業の食堂に就職した。

 就職先は家から離れすぎていたから一人暮らしを始めたが、家族の食に関しては半年ほど前に来てくれた兄嫁がそれなりの腕だったので、心配していなかった。

 むしろ自分が一人暮らしすることに対して家族中が(兄嫁も含め)心配していたことには閉口したが。




 葵紗が就職したのは24時間稼動している工場の社員食堂で、当然のことながら三食とも作らなければならないような現場だった。だから葵紗たち調理師は三交代で勤務していた。やはりというか勤めているのは葵紗の母より年上のおばちゃんと呼べる人たちが殆どだったが、娘とも孫ともつかぬ歳のいまどきの若者らしくない、どちらかといえば地味な葵紗をみんなかわいがってくれた。

 彼女たちはさまざまなことを葵紗に教えてくれた。職業柄料理に関することが多かったが、掃除洗濯についても家では誰も教えられなかったコツや秘訣を教えてもらえたのはうれしかった。一人暮らしの葵紗を心配して、少々口うるさい人もいたが、総じて働きやすいいい職場だったと思う。どちらかといえば人見知りのきらいがある葵紗も、一年も経てば工場で働く人間の中にも気さくに話せる相手もでき、楽しいと思えるようになっていた。

 そんな楽しいながらも特にめぼしい変化もないまま、長年勤めた経験も相俟って重要な部分を任されるようになって数年。そろそろ食堂のおばちゃんも結婚はまだかとうるさく言われるようになってきていた。

 社員の中にもいい男がいると言われたりしていたが、葵紗はそもそも男自体にさほど興味がなく、結婚なんてまったく考えられなかったのだ。家族も同僚ほどうるさくはなかったのが救いではある。むしろ兄など自分が養ってやるくらいの勢いだった。扶養家族がいながら何を考えていたのか、理解に苦しむ。

 確かに兄の娘や、二年前に結婚した姉が産んだ息子はかわいいと葵紗は思う。かわいいのだが、自分が子供を生んで育てる、ということにどうしても違和感が拭えなかった。

 勢い、お見合いの席でも設けそうな同僚もいたが、まったくその気はないというスタンスを崩さなかったから、強硬手段を取られることはさすがになかった。




 その日、葵紗は遅出で一人残って最終チェックをしなければならなかった。

 普段は二人でやるところなのだが、その日は同じ勤務の同僚の子供が病気になったとかで、延長保育を頼んでいる保育園に迎えにいかなければならなくなったのだ。職場では初めて入ったひとつ年下の彼女は、少し前に旦那と喧嘩して彼の元から啖呵を切って飛び出してきたとかで、親も近くにいないためほかに頼める人間がいなかったらしい。というか、殆どが旦那との経緯を知っているために頼みにくかったのだろうと葵紗は推測した。気が強い女性ではあったが、勢い任せにしてはずいぶん大胆なことをしたものだ。

 子供のことについては旦那の方にもお節介な人間が連絡していると思ったが、推測に過ぎない上にこれはいいきっかけだと思い、生温かい目で快く送り出した。その際彼女が気味悪そうに自分を見ていたのは気のせいだ、と葵紗は思っておいた。

 借りは返すと言われたので、どこのお菓子を強請ろうかと楽しみにしていたのだ。

 旦那と仲直りすることの代償だ、高くつくぞ。と浮かれつつ、葵紗はすべてのガスの元栓と戸締りのチェックをして更衣室に向かって守衛室に鍵を返して帰路に着いた。

 夕食はまかないで済ませていたし、後はビールがなかったからコンビニに寄って肴も買って……コンビニで買うともったいないのに。でも明日は早番で5時起きになるから余計飲むわけにもなぁ、今日はやめとくか。でも英気を養うためにも……とか理由付け、家の近くのコンビニで目的のものを仕入れた。明日帰りに安売りの店で箱買いしようと決め、仕事の疲れも忘れて足取りも軽く一人暮らしのマンションに帰る。

 その、道中のことだった。

 職場から葵紗の住むマンションまではどんなにかかっても徒歩10分程度。だからこそ過保護な家族もそれを許したといえる。家事一般が家族の誰よりできた葵紗に、身の危険があることの他に説得できる材料がなかった彼らにしてみれば、彼女がセキュリティ万全な住処を職場の近くに見つけたことが悔しくてならなかったようだが。

 比較的明るい道が多い通勤路だが、一箇所だけ街灯が届かず薄暗い場所がある。住宅街なのだが、ある家の庭に植えられた桜の大木が灯りを遮っているのだ。特に月明かりがない日は闇に近い。

 ほんの数歩の距離。そこにいつもと違う闇があったなんて、普通の人間である葵紗に気づけるはずもなかった。

 ちょうど大木が街灯を覆い、最も濃い影をつくる位置。その一点に、葵紗の右足が触れた。

 一瞬。


 次の街灯の灯りの中に、葵紗が現れることはなかった。





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