2:宵闇の翼は魔族のしるし
――とにかくそういうわけで。
『いつか山羊のクリントンが美少女化し、ワシに熱烈な求婚をしてくるだろうぶひひ』
という残念な夢を抱き続け、でも全くその兆候が見られないから最近ウズウズし、そろそろ獣姦すんじゃね? と思うようなアツアツの視線で『せぼんぬ♪』を聞いているカモミール家の変態ジジイや、
そんな危機など知る由もなく、今日もヨダレとオッパイ垂らしまくって『せぼんぬ♪』言ってるクリントンといったNPCとは、俺は存在が違う訳である。
そして、クソゲーとはいえこれはRPG。
ロールプレイングしてなんぼである。
だからもしかしたら、今日あたりにも魔王エルヒガンテなんかが現れ、世界が滅亡の危機に瀕し、俺がそれを打倒する為の奇跡の力に目覚めたり、あるいはフリプール村に勇者が颯爽と表れ、俺を仲間に加えたりするかも知れないわけで。そうすると、おいそれと死ぬわけにはいかないのである。
断っておくと、俺はあまりにも不幸な生活を送り過ぎたせいで、頭がお花畑になったメンヘラ、という訳ではない。
きちんとした証拠に基づいて、それを主張しているのだ。
――なにせ今となっては。
俺はこのRPGの『ステータス画面』が参照できるのだ。
ほれこの通り、ポンっとね。
中空を光の線が疾走する。
名前:ステビア・カモミール
職業:貧民の召使
LV:2
HP:70 MP:0
装備:ぼろ布
解説:ハワイアンブルーの髪を持った貧民美少女。特技は山羊の乳絞り。捨て子。ジジイのターゲットがヤギだと勘違いしている。バカ(鈍感的な意味で)。
そんなわけで俺は、今日までの10年を耐えてきたのである。
いつかきっと、自分の手でこの世界を変えたり、あるいは心躍る様な冒険の旅に出る日が訪れると信じて。
隣で『せぼんぬ♪ せぼんぬ♪』を聞きつも。
たまに『とれびやんやん♪』を聞きつも。
そしてその日は唐突に訪れた。
折しも16歳の誕生日である。
「あら、なんて可愛い娘さんなのかしら?」
芥子の様に甘い毒気のある囁きを聞き、今日も家畜小屋で『せぼんぬ♪』と鳴かれつつ乳を搾っていた俺は振り返ると、小高い丘から運命を変える存在が俺を見下ろしていた。
「貴方の主はどこにいるの?」
華奢な背からは魔族の証たるコウモリ翼を生やし、鮮やかな血色の髪を長いツインテールにくくり、胸元がハート型に開いたブラックレザーのボンテージドレスで細身を包んだ、容姿端麗な少女。
年齢不相応な色気と、歌うような声音のせいで大人びて見えるが、年の頃は俺と同じぐらい。
そんな彼女がいつの間にか、小高い場所から俺を見下ろし、うっとりと笑っていたのだ。
「はい。私の家でしたら、すぐそこですけど?」
同性でも魅入られそうな危うい笑み、俺はその毒にあてられボウとしつつも、余所いきの声でそう返した。
すると彼女は「そう。ありがとう。それから」と応えて
「もうすぐ貴方は、私の事をお嬢様と呼ぶことになるから。そのつもりでね」
そう言った。
そして踵を返したと思ったら、彼女の後姿はバラバラバラと数十羽のコウモリに分かれ、散り散りになって消えた。
俺は彼女が消えた後も、今の怪現象のせいで、しばし狐につままれた様に見送っていた。
しかしクリントンに『ぼんそわ♪』とオニューな声で鳴かれ、ぎょっと我に返った。
その瞬間、ついに運命の日が来たのだと興奮し、山羊の乳絞りをほったらかして家畜小屋を飛び出した。
向かった先は、もちろん公衆便所の様な我がカモミール家。
俺は走り寄り、開きっぱなしの扉からコッソリと中を覗きこむと、予想通り。例の少女は変態ジジイといた。
「ぶひ? うちのステビアを身受けしたいと?」
ジジイは露出度高めな少女にまなじりを下げ、舐めるように見ながら言った。ロリコンは病気です。
俺は少女の代わりに「オエ」っと小さく言っておいたが、彼女はしかしそんな視線も、薄汚れた室内も一顧だにする様子もなく、やはり歌う様な声音でこう言った。
「ええ。あの娘は私専属のメイドとしてもらっていくわ」
メイド? と俺は思った。そして彼女はすぐに背を向け、
「この犬小屋に来た用件はそれだけよ。でわ」
と出てこようとしたので、俺は見つからぬよう扉裏に張り付く。
「ぶひ!? お、お待ち下され」
少女をジジイの声が制した。
「なに?」
彼女は少しだけ首を曲げ、横目に見る。クッキリとした二重の下に輝く瞳は、まるでルビーのように美しい。
ジジイはそれに魅入られた様にゴクリと喉を鳴らすも
「あ、あの娘は拾い子でしたが、ワシにとっては唯一の肉親ですじゃ。それに10年もの間、目に入れても痛くないほど可愛がって、これまで手塩にかけて育ててきました。ぶひひ。流石にタダでお譲りするわけには……」
そう言ってブサイクな顔をよりブサイクに曲げて笑った。
よし、もっとブサイクにするために殴ってやろうか。具体的には残り8本の歯のうち前歯2本をへし折るとか。
俺がひそかにぎゅっと拳を作っていたら、少女は目を細めてクスリと笑った。
「タダとは言わないわ」
「ぶひひ。それは?」
ああ、ムカツク。やっぱり8本とも折ってやりたい。
あまりのブサイクさにそんな衝動を覚えていたら、微笑む少女が口を三日月の様に開けて言った。
「 こ の 村 を 見 逃 し て あ げ る 」
直後に外で、鳥の羽ばたく音がした。
野兎の悲鳴や、馬のいななき。
クリントンの「あぼーん!」というタダならぬキモい鳴き声もした。
その後しばらく、不気味な沈黙があった。
見ればカモミールのジジイは、エビの様に曲げた身体を震わせ、歯をカチカチと鳴らし、滝の様な汗を滴らせていた。
誰の目にも明らかな脅えの表情。しかし俺はその醜態を、ざまーみろとか、良い気味だとか、笑う事が出来なかった。
盗み聞いていただけの俺もまた、まるで心臓をわし掴みにされたような息苦しさと、背中に氷柱を差しこまれたような悪寒を覚えていたのだから。
それは例えば、何の気なしに飛び越えた段差が、実は底も見えない崖だったかのような。まるで知らぬ間に命拾いをしていたかのような心地だ。
「不満は――」
少女は囁くように言ってから、妖しく目を細め、
「――ないわよね?」
手の甲でサラリと、血色の髪を流してみせた。
ジジイはそれにとうとう尻もちまでついて、何度も何度も縦に頷いた。彼女はそれにニコリとし、
「そう。では約束通り、この村はそっとしておいてあげるわ」
いったい何者だろうかと俺は思った。
一方ジジイは、九死に一生を得たと言わんばかりに「ほ」っと嵌め息をついてその顔を弛緩させた。
「ただしお前は死ね」
その直後、ごろり、と首が床を転げた。