嘘らしいと那智は思う
目の前には倒れた男子。
首は血で真っ赤に染まっていて、指先一つ動かさない。
私は口を抑えて後ろへ一歩下がった。
ドン、と教室の壁に当たる。
そうだ行き止まりだった。
急いで出入り口を探すが、慌て過ぎて床に転がっていた箒につまづいてしまう。
固い床に鼻をぶつけた。
盛大に転んだせいか足首が痛い。
なんで私っていつもこう……。
あまりの情けなさに泣き出したい気持ちで私は今日のことを思い出した。
私、田中那智は先生に第二視聴覚室の掃除を任されて放課後遅くまで残っていた。
そう大きくない部屋ということで同級生の谷崎健太と二人で。
彼とはケンちゃん、那智と呼び合ういわゆる幼なじみな仲だったのだが、最近はあまり話す機会がなかった。
なので必要以上の会話もなく黙々と掃除を続けていた。
外が赤くなった頃、部屋の隅でチリトリでゴミを集め終わり、立ち上がった瞬間、頭がくらっとした。
手に持っていた箒とチリトリが音を立てて落ちる。
貧血だった。
実は私は最近ずっと貧血気味であった。
立ち上がれば倒れそうになるし、走った後はふらふらする。
昔から貧血の傾向はあったが、高校二年生になってからは更に酷くなった。
その時は特に酷かったようで揺れる視界のまま倒れそうになったところ、ケンちゃんに支えられた。
「おい!? 大丈夫か?」
答えられず無言で見上げるとケンちゃんの顔が赤くなった。
不思議に思ってると肩を支えていた手に力が込められ壁際に寄せられた。
「那智、俺は……」
ケンちゃんが切羽詰まった声で何かを言おうとしていたのだが、私はそれどころではなかった。
なぜかはわからない密着に身長差のせいで、私の視界を覆ったのは彼の肌色の首だった。
掃除のために学ランを脱いでいたので、上のボタンを二つくらい外した白シャツからのぞいていたのだ。
心臓の鼓動が早くなり、喉が乾く。
貧血が悪化した気がして、何か言っているらしいケンちゃんの首に手を伸ばした。
息を詰める音を聞きながら、抱き寄せ、そのまま首に咬みつく。
あっさり溢れた血に驚きながらも、舐めてすすった。
「……っだ!? ま、なちっ!」
制止のようなケンちゃんの声が聞こえたけど私は止まらず、血を飲んだ。
「……ってえ……っっ!!!」
私って吸血鬼だったのかなあなんて思いながら、でもはじめての血はおいしくてたまらなかった。
「…………っっっ!!」
思う存分飲んで私が我にかえった時、ケンちゃんはもう声もだせないようだった。
「ケンちゃん?」
流石に怖くなって声をかけるとケンちゃんの身体は力なく床に倒れた。
そして、今に至る。
右側にケンちゃんの黒い足が見えて私は状況に気が付いた。
考えてる場合じゃない、早く逃げなきゃ!
もう気分は犯罪者だ。
あながち間違ってもない。
逃げてどうにかなるわけでもなかったが、とにかく走ろうと私は身体を持ち上げて、もう一度こけた。
「なんっで……!?」
身体を曲げて足の方を見る。
黒い瞳と目が合った。
「ケンちゃん!」
ケンちゃんの手は私の足首をがっちり掴んでいた。
ひどい。通りで転んだわけだ。
ああ、でも、死んでなくて良かった!
私が喜びに目を輝かせるとケンちゃんは視線を外さないまま言った。
「下着、見えてる」
……下着?
ケンちゃんの視線は心持ち私の顔より下を向いていて、あ。
「ッギャーーー!!」
太ももよりかなり上にたくしあがっていたスカートを両手でおさえ込む。
思わず自由な方の足でケンちゃんの顔を蹴ろうとしてしまったのだが、そっちも手で掴まれて止められた。
「は、はなして!」
言ったらあっさり離してくれた。
だが、手の代わりにケンちゃんの曲げた膝が私の太ももの上に乗っかる。
いつの間にやらケンちゃんは身体を起こしていた。
足の重しをどかそうと両手で押すと、ケンちゃんの片手でまとめられた。
「なんで逃げるんだ」
言いながらケンちゃんは私を引っ張って近づける。
そんな彼の首からはいまだ新鮮な血が流れ、白いシャツを赤く染め上げている。
ひええスプラッタだよ!
「ケンちゃん血みどろで怖い!!」
「はあ!? 誰のせいだ!!」
私のせいです。はい。
申し訳なさに身体を縮める。
自分がつけてしまった傷を直視できないながらも、ケンちゃんに顔を合わせて、おずおずと聞いた。
「い、痛い?」
「すっげえ痛い」
だよね、私が咬んでる間ずっと唸ってたもんね・・・!
ケンちゃんの目は極めて剣呑だ。
不機嫌に言葉を続ける。
「死ぬかと思うほど痛かった。なのに誰かさんは人の傷口を容赦なく舐めてきた」
怒りの理由はごもっともなのだが、顔が怖すぎて涙が滲んできた。
「泣くのか、泣きたいのは俺の方だ。まだ血、止まってねーみたいで首が熱いわ、貧血になったのかさっきから頭がクラクラするわ」
「ごめ、ごめんなさ」
「だから」
息がかかるほどに顔が近づく。
「仕返しさせろ」
怖い言葉に思わず目をつむると、口に暖かな感触が重なった。
鉄臭い、とケンちゃんが呟いた振動が伝わる。
これキス? キスが仕返し?
痛くなかったよ?
呆然としているうちに、ケンちゃんの頭は私の首に移動したようで耳に髪の感触を感じた。
恐る恐る目を開けて見えたのは、
あかい、あかーい血。
さっきまで直視できなかったのに、目の前にさあとばかりに差し出されるともう何も考えられない。
ケンちゃんは私の首を舐めたり噛んだりしてるようだったが意識の端にものぼらない。
血しかうつらない。
でも今咬んだらダメだよね、たぶん。
なんて思いながらも耐えきれなくなって、でも美味しそうな血を舐めるだけにとどめたのに、ケンちゃんから怒られた。
煽んな、って、え?
両手が掴まれたまま私の頭の上に移動して壁に押し付けられて、え、あ、ぎゃああああ!
私が咬んだのより痛いんじゃないのかって目に合わされた。
怒ってひどいひどいって叩くと妥当だろって言われた。
「俺は那智と違ってヤり逃げしねーよ」
「殺り逃げなんかしてない! ケンちゃん生きてたよ!」
意味が違うと頭にチョップされた。
帰り道に二人でだるだると歩いてたら、思い出したように聞かれた。
「那智って、吸血鬼なのか?」
「さあ……?」
「さあとはなんだ、さあとは」
「考えたことなかったもん。血を飲んだのも初めてだし……あ、おいしかったよ!」
「聞いてねーよ!」
叫んだあと、ケンちゃんは私の顔をじっと見た。
「わからんが、わかった。とにかく、お前は俺以外から血とるなよ」
なんで限定? とは思ったがそれ以上に気になることが。
「これからも血くれるの?」
ケンちゃんは怒った顔をした。
「そうしねーと他の奴襲うんだろ」
確かに今は血を飲んだせいか貧血が大分楽になってるが、いつさっきの状態になるかわからない。
「でもケンちゃん痛いんじゃ」
「すっっっげー痛いが我慢してやる」
私は嬉しくなって思わずケンちゃんに抱きついた。
ケンちゃんの顔は真っ赤になる。
「じゃあ今ちょーだい!」
「それが狙いか!!」
怒って引っ剥がされた。
くれるって言ったのに……!
「痛いから今日はもう嫌だ」
なんて言われてしまった。
はあ吸血鬼に咬まれても痛くないって嘘だったんだね……。
読んでくださってありがとうございます!
よく吸血鬼の牙には痛みを感じなくする麻酔のような成分があるって聞くけど、なかったら相当痛い気がすると思ってできた話です。




