王子に選ばれたのは妹でした。それでも私は聖女として祈り続けます
私が五歳の時に、妹が生まれた。
父と母は、跡取りになる男の子を望んでいたらしい。けれど、生まれてきたのは小さな女の子だった。
それでも父は母を責めなかった。
「可愛い娘が一人増えたな」
産後で青い顔をしていた母は、泣きそうな顔で「ごめんなさい」と言いかけて、けれど父のその言葉に救われたように、ぎこちなく笑った。
妹は本当に可愛かった。
母はもともと体が丈夫ではなかったから、私はよく妹の面倒を見た。眠るまで背を撫で、熱を出した夜は小さな手を握った。よちよち歩きで私を追いかけてくる姿が、たまらなく愛おしかった。
だから今でも思う。
いつからだろう。
あれほど愛おしかった妹の可愛らしさが、私を傷つけるものになってしまったのは。
あんなに仲の良かった姉妹だったのに。
*
私――エレノアに聖女の力が現れたのは、十二歳の春だった。
熱を出して寝込んだ母の額に手を当て、ただ必死に祈った。すると母の苦しそうな息が、少しずつ穏やかになっていった。
やがて神殿が調べに来て、私は本物の聖女だと告げられた。
その日から、私の暮らしは変わった。
神殿で祈りを学び、瘴気を祓う術を教わり、井戸や畑を清める方法を叩き込まれた。最初のうちは誇らしかった。人を救えるのなら嬉しいと思ったし、父も母も、私をとても褒めてくれた。
けれど、その頃から家の中での役割も少しずつ決まっていったのだと思う。
私は、しっかりした娘になった。
泣かない娘。
我慢できる娘。
任せられる娘。
そして妹のリリアは、可愛い娘のまま育った。
誰かが悪意を持ってそう決めたわけではない。ただ、私が祈りと勉強に時間を取られ、母は相変わらず体が弱く、父は忙しかった。そんな中で、柔らかく笑って誰の懐にもするりと入り込めるリリアは、自然と家の中の癒やしになっていった。
リリアも最初は本当に無邪気だったのだと思う。
「お姉様、すごい」
「わたし、お姉様みたいになりたい」
そう言って目を輝かせていた。
でも、いつ頃からだったろう。
人は私を尊び、リリアを愛するようになった。
私は「立派な聖女様」で、
リリアは「なんて可愛らしい妹君でしょう」だった。
そして、愛されるのはいつだって、立派であることより可愛らしいことの方だった。
*
決定的だったのは、リリアが十五になった年の冬だった。
王城の礼拝堂で、私が大きな浄化の儀式を行った。何日も前から体を整え、祈りを積み、ようやく成功させた大仕事だった。
儀式を終えた私は、疲れ切って控えの間へ下がった。
その時、外のざわめきが聞こえてきた。
「まあ、なんて可愛らしい」
「妹君までお美しいなんて」
「本当に聖女様の家は恵まれているのね」
中庭で貴婦人たちに囲まれていたのは、白い冬衣を着たリリアだった。私を待つ間、侍女が寒くないようにと貸した外套を肩にかけ、少し恥ずかしそうに微笑んでいる。
「そんな、お姉様に比べたら、わたしなんて……」
そう言いながら、いちばん綺麗に見える角度で俯いていた。
その時、初めて胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。
私はここまで祈ってきたのに。
何日も眠れずに準備したのに。
それでも人は、あの子の笑顔の方を柔らかく愛するのだ、と。
もちろん、リリアは私を傷つけようとしていたわけではない。
分かっていた。
分かっていたからこそ、その痛みを誰にも言えなかった。
*
第一王子ルシアン殿下を好きになったのは、たぶんとても静かな始まりだった。
浄化の儀式のあと、辺境の村の様子を尋ねられたこと。
祈りのあと、休めているかと気づかうような言葉をかけられたこと。
ほんの少しだけ、聖女ではなく私を見てくれた気がした。
それだけで十分だった。
私は殿下を好きになってしまったのだと思う。
とても静かに、どうしようもなく。
けれど今なら分かる。
殿下が見ていたのは、結局のところ“聖女としての私”だった。
信頼や感謝はあったのかもしれない。
でも、愛ではなかった。
そのことを知ったのは、リリアが殿下と打ち解け始めてからだった。
ある日の午後、私が聖典を読んでいると、リリアが部屋にやって来た。
「お姉様」
その声だけで、何を聞かれるのか少し分かった。
「なあに」
「殿下のこと……好き?」
私はすぐに否定できなかった。
その沈黙だけで、きっと十分だったのだろう。
リリアは少しだけ顔を伏せて、静かに言った。
「わたし、殿下のこと、好きかどうかは分からないの。でも、殿下がわたしを見る時、ちゃんと一人の女の子として見てもらえている気がするの」
「……」
「お姉様は聖女様だから。皆、お姉様を尊ぶ。けれど、わたしはずっとそれが羨ましかった」
それはたぶん、リリアの本音だった。
そして私にも本音があった。
私は、可愛く笑うだけで愛されるリリアが羨ましかった。
どちらも本当だった。
「もし、わたしが殿下に選ばれたら、嫌?」
私はそこで、嫌だと言えなかった。
言ってしまえば、全部壊れてしまう気がした。
だから曖昧に笑ってしまった。
それがたぶん、いちばんずるい答えだった。
*
結局、選ばれたのはリリアだった。
王も神殿も、父も母も、それを自然な流れのように受け入れた。
王は“国の顔として明るく愛される娘”を求め、神殿は“聖女は政に近づきすぎない方がよい”と言った。父は「エレノアは祈りの席にいる方が似合う」と言い、母は「リリアなら殿下のお力になれるかもしれない」と静かに同意した。
誰も悪意のある顔はしていなかった。
ただ皆、自分なりに一番丸く収まる形を選んだだけだった。
それが余計に苦しかった。
ある日の夕方、私は王城の礼拝堂で短い祈りを終えたあと、ルシアン殿下に呼び止められた。
「少し、いいか」
人払いされた回廊には、西日の薄い金色が差し込んでいた。
窓の外では、春の終わりの風に白薔薇が揺れている。
殿下はいつものように整った顔で私を見た。
その目は優しかった。少なくとも、そう見えた。
「君には感謝している」
「……はい」
「君がいたから、この国の結界は保たれてきた。民も、神殿も、王家も、どれだけ君に救われてきたか分からない」
そう言われるたびに、胸の奥が少しずつ冷えていく。
私は、聞きたい言葉がそれではないと知っていた。
それでも、ほんの少しだけ期待してしまう自分がいた。
もしかしたらこのあと、たった一度でも、聖女ではない私の名を呼んでくれるのではないかと。
「エレノア」
殿下は確かに、私の名を呼んだ。
その一音だけで、どうしようもなく嬉しくなってしまった自分が、情けなかった。
「君は強いな」
「……強くはありません」
「いや、強いよ。君はいつも正しくあろうとする。自分の痛みより先に、国や民のことを考えられる」
その言い方は、褒めているはずなのに、少しも満たされなかった。
まるで、最初からそういうものとして見ているようだったからだ。
その時、軽い足音がした。
「殿下」
振り返ると、リリアがいた。
王城勤めの侍女から急いで借りたのだろう、薄桃色のショールを肩にかけ、少し息を弾ませている。
「ああ、リリア」
その瞬間だった。
殿下の声が、目が、顔つきが、わずかに変わった。
硬く整っていたものが、ほんの少しだけほどける。
私には一度も向けられなかった、気を許した人にだけ見せる柔らかな表情だった。
「走ってきたのか」
「遅れたら嫌だったのです」
「転んだらどうする」
「でも、お会いしたくて」
リリアがそう言って笑うと、殿下も困ったように、けれど嬉しそうに笑った。
私はそのやりとりを見ていた。
見てしまった。
ああ。
そういうことだったのだ。
殿下は私を大切にはしてくれていた。
信頼も、感謝も、敬意もあったのだろう。
でも、この人が今リリアに向けているものだけは、私に向けられたことが一度もなかった。
欲しかったものは、最初からそこにはなかったのだ。
「エレノア」
殿下が再び私を見た時には、もうあの柔らかい表情は消えていた。
「君なら分かってくれると思っていた」
「何を、でしょうか」
「リリアのような人が、私の隣には必要なんだ」
静かな声だった。
「君はこの国にとってかけがえのない聖女だ。だが、私が求めるのは――」
そこまでで十分だった。
私は、少しだけ笑った。
「もう結構です」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
「私は、便利でしたか」
殿下はすぐに答えなかった。
その沈黙が、何より残酷だった。
違うと否定してくれれば、まだ少しは救われたのかもしれない。
でも殿下は黙ったまま、ただ苦しそうに眉を寄せるだけだった。
その顔を見て、私はようやく理解した。
この人は私を傷つけたかったわけではない。
ただ最初から、私を愛してはいなかったのだ。
「……失礼いたします、殿下」
そう言って礼を取ると、リリアが何か言いかけた。
「お姉様――」
「気にしないで」
私は妹を見た。
責めることも、泣くこともできなかった。
責めたところで、きっと誰も悪意だけでここまで来たわけではないと分かってしまっていたから。
だから私は微笑んだ。
たぶんその時の笑顔が、あの日からずっと私の顔に張りついて離れない、作り笑いの始まりだった。
*
私は、聖女としての務めを果たし続けた。
井戸を清め、瘴気を祓い、病人の額に触れ、王都の結界を維持した。
民は私を聖女様と呼び、神官たちは私に頭を垂れた。
それでも、夜に一人になると考えてしまう。
みなは私を聖女と呼ぶが、私の心は本当に聖女なのだろうか、と。
私は妹を嫌いになれない。
でも、妹の幸せを心から願うこともできない。
私は殿下をまだ忘れられない。
でも、その方が選んだ未来の安寧を祈っている。
そんな私の心は、清くも、美しくもなかった。
妹が嫌いなわけでもないのに、妹と話す時には作り笑いになってしまう。
優しい姉でいた頃の癖が、今もまだ消えない。
そんな夜、ふと考えてしまうことがあった。
あの時生まれたのが、妹ではなく弟だったなら。
私たちはこんなふうに、姉と妹という役を押しつけ合わずに済んだのだろうか、と。
そんなことを考えるたび、自分で自分が嫌になった。
悪いのは、妹ではないはずなのに。
ある晩、礼拝堂の鏡に映った自分に向かって、私は小さく問うた。
「あなたは誰なの」
鏡の中の女は、白い法衣をまとい、穏やかな顔で立っていた。
でもその目だけが、泣いていた。
*
答えをくれたのは、修道院から王都へ手伝いに来ていた老いた修道女だった。
冬の初め、礼拝堂の階段で私が少しよろけた時、その人がとっさに腕を支えてくれた。
「お疲れですな」
「平気です」
「その“平気”で、何年もお過ごしでしょう」
私は返す言葉を失った。
修道女は、小さな干しリンゴの包みを私に押しつけた。
「食べなさい」
「今は祈りの前で……」
「だからです」
それから、しわだらけの手で私の指先を軽く叩いて言った。
「聖女とは、痛まない人のことではありません」
「……」
「痛むものを抱えたまま、それでも祈る人のことです」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「嫉妬もなさらぬ、恨みも持たぬ、誰を見ても同じように愛せる――そんなものが聖女なら、人間には一人も務まりませんよ」
「私は、妹を前にすると作り笑いしかできません」
「それでも、妹を憎みきれぬのでしょう」
「……はい」
「それで十分です」
修道女はあっさり言った。
「十分、あなたは人です。だから祈りも届く」
私はその場で泣いた。
泣きながら、ずっと押し殺していたものが少しだけほどけていくのを感じた。
*
春が巡る頃、リリアは礼拝堂の裏庭にやって来た。
前より少し痩せて見えた。
でも、昔より静かな立ち方をするようになっていた。
「お姉様」
「なあに」
「怒ってる?」
「怒ってはいないわ」
「じゃあ、悲しい?」
「ええ」
私は正直に答えた。
「ずっと悲しかった」
リリアは泣きそうに笑った。
「ごめんなさい」
「私も、ごめんなさい」
それ以上、うまい言葉は見つからなかった。
元通りには戻れない。
でも、もう何も言わないままではいたくなかった。
「お姉様が聖女で、わたしが妹で、それで全部決まってしまった気がしてた」
「私もよ」
「わたし、お姉様を傷つけたかったわけじゃない」
「知ってる」
「ほんとに?」
「ええ。本当に」
私はそこで、少しだけ自然に笑えた。
あんなに仲の良かった姉妹だったのに、と長いこと思っていた。
でも今は少し違う。
あんなに仲が良かった姉妹だったからこそ、壊れたあとも、完全には終わらないのかもしれない。
*
みなは今でも私を聖女と呼ぶ。
たぶんこれからも、そう呼ぶのだろう。
私は優しくない日もある。
妹に会えば胸が痛むこともある。
愛されなかった記憶に、夜ふと泣きたくなることだってある。
それでも私は祈る。
私は聖女として、多くの民を救ってきた。
これからも、救うのだろう。
それだけは、最後まで変わらない。
どんなに心が傷ついても。




