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ネタバレを恐れない読書の為のベルクソン

掲載日:2026/02/02

 どうも最近はネタバレを恐れる風潮が強いようだ。確かに、ネタバレで良さが台無しになる作品もある。精緻な仕掛けが凝らされたミステリーなどはそうだろう(私は読まないので、想像でしかないが)。

 

 ただネタバレによって全てが台無しになるわけではない。というより、読書、今の場合は小説を読む醍醐味というものは、ネタバレでなくなるわけではない。

 

 このあたりは私は以前から不満だったので、それについて書きたいと思う。ちなみに、これは小説以外の映画、アニメ、ゲーム、漫画等にも応用可能だ。

 

 まずネタバレという現象について考えてみよう。それは先の未来が明らかになってしまうという事だ。

 

 例えば、「カラマーゾフの兄弟」では、フョードルという色情狂の老人が殺されるのだが、この犯人が一体誰なのかというのが問題になる。

 

 「カラマーゾフの兄弟」は、「真犯人は誰か?」という謎解き要素も含んでいるので、これを明かされると作品の魅力がやや減衰する。もっとも作品の大部分はそれ以外の要素、哲学的な深さや、心理の掘り下げ等で支えられているので、その価値が大きく減るわけではない。

 

 ここで、ちょっと考え方を変えてみよう。ここからはベルクソン哲学を導入する事にする(もっとも導入するのは初期の「時間と自由」の哲学に限っている)。

 

 小説や映画を鑑賞する際に、「ネタバレ」を食らうのと同じように、私達の人生において「ネタバレ」を食らったら果たしてどうなるだろうか。

 

 私ーヤマダヒフミは何年後にはどこにいて、何をしているのか、全て明らかになり、実際その通りになるのが確定しているとしたらどうなるだろうか。

 

 その場合、私という存在はネタバレを食らっているから、私は生きる事が味気なくなり、全てが決まっている自分の人生に絶望してしまうだろうか。…しかし、この「確定した未来」において欠けているものがある。これは何かと言えば「今、まさに自分が生きている実感」だ。

 

 結論から言うと、このエッセイのタイトルに対する答えはこの事になる。「ネタバレを恐れない読書法」とは「読書の際、小説の中のキャラクター(主には主人公)が生きている実感をリアルタイムに感じる事はネタバレによって損なわれる事はない」という事だ。

 

 この事は別の視点から考える事ができる。私達が頭の中で概念として、空想として考える事とその状態を実際に生きる事にはズレがある。このズレは文学というものを考える上で非常に重要だ。

 

 例えば、今一番人気の大谷翔平という選手がある。仮に私が大谷翔平になったら、と考えてみよう。その場合、私はきらびやか大谷翔平という人物を外から見ているのとは違うあるものを、私が大谷翔平になった瞬間に受け取る事になる。

 

 それは何かと言えば、今まさに私が「大谷翔平として生きている」という様々な実感や感覚、心理である。そしてこの事は今のように「大谷翔平凄い!」という人が決して考えようとはしないものだ。

 

 おそらく、大谷翔平をよくできた人形のように取り扱い、人々が褒め称える事と、ネタバレを過剰に恐れる精神とは互いに相通じるものがある。それは、物事の外側にしか興味がない、という事だ。自分が今、自分自身として生きているという実感から逃げ出そうとしているという事でもあるのだろう。

 

 私が大谷翔平になったら、私は「ああ、大谷翔平とはこんなものだったのだ」とおそらくはがっかりするに違いない。何故だろうか。それは私が大谷翔平として現に生きているからだ。


 そしてこの事は、ヤマダヒフミという人物として私が今生きている事と本質的に異なっているものではない。私が大谷翔平を空想していた時には大谷翔平は私とは全然違った神の如き人に見えていたが、実際にそうなると、元の自分とさほど変わらない事がわかる。

 

 しかしこのような事を言うと人は腹を立てるに違いない。「お前のようなクズと違って大谷翔平は凄いんだ!!」と怒られるだろう。しかしそのように言っている人々は大谷翔平という人物をどのように見ているだろうか。


 彼が一人の人間として生きている実感を想像しているだろうか。…おそらくはしないだろう。人は内実のあるものを崇拝できない。人が崇拝するのは空っぽの人形だけだ。

 

 これはネタバレを恐れる事と変わらない。ネタバレを過剰に恐れる人は、小説のストーリーを空間的に見ている。ここに間違いがある。

 

 例えば「罪と罰」という作品を読んで、我々はラスコーリニコフという人物の内実と心理を同時に味わう事になる。「罪と罰」はそれがあまりにも深く書かれているから名作なのだ。

 

 「罪と罰」を読む時、我々はラスコーリニコフその人をリアルタイムに経験している。そしてこの経験はどのようなストーリーにも表す事ができない。その時、その場所でラスコーリニコフが呼吸し、生きている、その実感から放たれるものを我々は感じている。

 

 もちろん、これは実在の人物ではなく小説だから、ドストエフスキーという作家がラスコーリニコフという人物を想像の中で生きてみながら書いている、そのような状態だから、我々にはそれが間接的に伝わってくる、という構成になっている。

 

 「罪と罰」という作品を要約すると、「自分をあらゆる権利を持つ人間だと誤認した元学生ラスコーリニコフが、老婆を殺し、アクシデントからその妹をも手にかけるが、最後には良心の呵責に苛まれ、娼婦ソーニャの助けを借りて、自らの罪を自白する物語」という事になる。

 

 しかしこの要約の中にラスコーリニコフという人間の生の実感はない。それは小説の中にしかない。その時その時の作品の描写と、それを読みながら想像する我々の実感の中にしかない。

 

 「罪と罰」を思想的に解して、「ラスコーリニコフは単なる殺人鬼に過ぎない」とか「ラスコーリニコフの思想は正しい」とか言う事はできる。また作品を様々な角度から批評はできる。ただ、それら全ての批評が全て正しいとしても損なわれる事なくあるのは、ラスコーリニコフという人物がなまなましい実在性を持って一人の人間として生きている、というより、生きざるを得ない、という事実だ。

 

 これは本来、私達も全く同じである。我々は一人一人、自分という実感、生の実在性を抱いて生きている。しかし人はそれを空間的に理解するが故に自己を誤解する。

 

 空間的に理解するとは、例えば他人と地位や資産を比べるといったような事だ。自分という人間を頭の中で、他者と比較する。その時、我々は未来の自分を想像する時のように、内実の抜けた人間をイメージしているのだ。それは大谷翔平に熱狂している人が大谷翔平の内実を想像しないのと同じ事である。

 

 小説を読むとはこのように、本質的にはストーリーがネタバレされても楽しめるものであると思う。この事は、言い換えれば、自分の未来が仮に確定しているとしても、その生を生きる事に意味がある、という風にも言い換えられる。

 

 ただ、現在の小説というのはどうも作者がすぐに「メタ」な立場に立って、キャラクターをあたかも将棋の駒のように動かすという傾向があるように思う。このような中身の抜けた駒の動きだけが問題となるような小説の場合、私がここで書いてきた事は通用しない。


 そのような小説は、駒がどう動くかが作品の本質になってしまう。ベルクソン的に言えば時間ではなく空間に重点が置かれている。そのような作品を鑑賞する場合には、私がここまで書いてきた事は無意味となり、「ネタバレ」が作品の面白さを完全に殺す事になるだろう。

 

 おそらくは「ネタバレ」を過剰に怖がる人々が多いのも、内実を欠いた駒のようなキャラクターを複雑に動かし、その「動き」だけが本質である、そのような書き手が増えているのも、現代のある傾向を示すものではあるだろう。


 こうした時流の中では生きる実感を伴った小説は少数派となるが、しかしかえって人々は希薄化した自己の生を充填するために、そのような文学作品を無意識的には望む、というような事態になっているのかもしれない。


 例を出して言えば私がそう感じたのはノーベル文学賞を取ったハン・ガンの「ギリシャ語の時間」だ。この作品はあまりにも主体の痛切さにあふれているように私には感じた。




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