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第3話 一億分の一のスタートダッシュ

 西暦20XX年、X月XX日、土曜日。午前11時45分。

 現実世界における相馬そうま あきらの肉体は、自宅の私室に設置された白い繭、『イドラ・リンク・カプセル』の内部で、静かに理性の眠りについていた。ひんやりとしたジェルが首筋に密着し、彼の意識は完全に物理的な肉体から切り離されている。聴覚も、視覚も、触覚さえも、今は外界からの入力を受け付けない。


 だが、彼の意識はかつてないほど覚醒していた。

 光も音も存在しない、完全な無の空間。意識だけの存在として漂っていた彰の眼前に、突如として白い光の粒子が集束し、一つの風景を形成していく。


 そこは、どこまでも広がる純白の空間だった。床も、壁も、そして天井さえも、継ぎ目のない、柔らかな光を放つ素材でできている。まるで巨大な神殿の内部のようでもあり、あるいは、生まれる前の胎内のようでもある、不思議な清浄さと静けさに満ちた場所。


 ここは、正式サービスが開始されるまでの間、プレイヤーたちが待機するために用意された仮想ロビーだ。彰がふと空間の右上へと意識を向けると、そこには半透明の文字が浮かんでいた。


【日本サーバー / 待機ルーム:6535】


 見渡せば、同じ空間に百人ほどのプレイヤーたちが、すでに集っていた。彼らの姿は、のっぺりとした灰色のヒューマノイドの形をしている。だが、その無個性な姿とは裏腹に、彼らから発せられる熱気と興奮は、痛いほどに彰の肌(デジタルアバターの皮膚感覚)を刺激した。


『うおおお、マジで入れた!』

『すげえ、本当に何もない空間だ……』

『見てみろよ、俺の手! 動くぞ! 現実と全く同じだ!』


 あちこちで、初めてフルダイブ技術に触れたであろうプレイヤーたちの、感動に満ちた声が上がる。ある者はその場でジャンプを繰り返し、ある者は自分の両手を飽きることなく握りしめ、またある者は、ただ呆然と立ち尽くしている。その反応の一つ一つが、彼らがこの世界に初めて触れた「一般人」であることを示していた。


 彰は、そんな喧騒の中心から少しだけ離れた場所で、静かに腕を組んで佇んでいた。彼の姿もまた、他のプレイヤーと同じ灰色のヒューマノイドだ。だが、その立ち姿には、周囲の浮ついた空気とは一線を画す、落ち着きと、研ぎ澄まされた集中力が漲っていた。


(1ルームあたり、約100人。日本サーバーだけで、このルームが何万……いや、何十万と存在するはずだ。世界全体で見れば、その百倍以上。まさに一億人のプレイヤーが、今この瞬間、同じように胸を高鳴らせている)


 それは、途方もないスケールだった。史上最大規模の祭典。その事実に、彼の心もまた、静かに、だが激しく燃え上がっていた。友人たちと交わした、昨日の放課後の会話が脳裏をよぎる。健太も、雄二も、今頃どこか別のルームで、同じように興奮しているのだろうか。


 その時、空間全体に、優しく、そして明瞭な女性の声が響き渡った。超AI『アルケイディア』による、システムアナウンスだ。


『待機中の皆様へ、ようこそ。Aeturnumの世界へ。正式サービス開始まで、残り15分です』


 その声に、ルーム内の興奮は一段と高まる。


『ようこそ、変革の目撃者たちよ。皆様の肉体と精神の情報は、イドラ・リンク・カプセルによって完全に同期されています。まもなく、皆様はありのままの姿で、Aeturnumの世界に転生するでしょう。ですが、その前に、皆様がこの世界で歩むべき道筋――クラスを選択することを、強く推奨いたします』


 アナウンスが終わると同時に、全てのプレイヤーの眼前に、半透明のウィンドウが開いた。そこには、美しくデザインされた6種類のクラスアイコンが、壮麗な輝きと共に並んでいる。


 弓を携えた俊敏なレンジャー。

 そして、彰が視線を固定する、片手斧と盾を構えた、揺るぎない姿。

 ウォーリア。


 周囲のプレイヤーたちが、途端に騒がしくなる。

『うわ、来た! どれにすんだよ!』

『やべえ、超悩む! 事前に決めてたけど、実物見るとまた迷うな!』

『なあ、どれが一番強いんだ!? 誰か情報持ってねえか!』


 ベータテストが存在しないこのゲームにおいて、クラス間の性能差は完全に未知数だ。誰もが手探りで、自分のプレイスタイルと、そして己の勘を信じて、最初の相棒を選ばなければならない。


 そんな喧騒をよそに、彰は一切の迷いを見せなかった。

 彼は静かに右手を上げ、ウォーリアのアイコンへと、まっすぐに指を伸ばす。彼の指先がアイコンに触れた瞬間、まばゆい光が彼を包み込み、ウィンドウは静かに消滅した。


『クラス:ウォーリアが選択されました。あなたの決断に、幸運があらんことを』


 アルケイディアの祝福とも取れるメッセージが、彼の意識にだけ響き渡る。

 彰が再び目を開けた時、彼の周囲では、まだ多くのプレイヤーたちが頭を抱えて悩んでいた。その光景を、彼は冷徹な目で見つめる。


(迷うな。迷っている時間はない。このゲームは、もう始まっているんだ)


 スタートラインに立つ前の、コンマ数秒の反応速度。それが勝敗を分ける世界で、彼は生きてきた。このクラス選択の早さもまた、彼にとっては、一億人の中から抜け出すための、最初の一歩に過ぎなかった。彼は選択を終えたことで生まれた、わずかな時間の余裕を使い、これからの行動計画を脳内で何度も反復し、最適化していく。思考のシミュレーション。それこそが彼の最大の武器だった。


 やがて、運命の時が、刻一刻と近づいてくる。


『正式サービス開始まで、残り10分です』


 アルケイディアの澄んだ声が、再びルーム全体に響き渡った。その瞬間、待機ルームの喧騒は、地鳴りのような歓声へと変わる。誰もが天を仰ぎ、拳を突き上げ、隣にいる見知らぬ誰かと肩を叩き合った。一億人が共有する、巨大な期待。それはもはや、社会現象という言葉では生ぬるい、一つの信仰に近い熱を帯びていた。


 彰は、その熱狂の渦の中で、ただ一人、静かに目を閉じていた。心を落ち着け、精神を研ぎ澄ます。これから始まるのは、遊びではない。戦いだ。彼の全身全霊を懸けた、真剣勝負。そのための、最後の精神統一。


『正式サービス開始まで、残り3分です』


 今度のアナウンスで、あれほど騒がしかったルーム内の喧騒が、嘘のように静まり返った。誰もが口を噤み、固唾を飲んで、その瞬間を待っている。興奮は、極度の緊張へと昇華されていた。まるで、巨大なレースのスタートを待つ競走馬のように、全てのプレイヤーが、見えないスターティングブロックに足をかけている。ピリピリとした空気が、デジタル空間を満たしていた。


 彰はゆっくりと目を開け、体の力を抜いて、最も自然な姿勢を取る。いつでも、瞬時に、最高速度で駆けだせるように。


『残り1分となりました。皆様の旅が、栄光に満ちたものであることを』


 最後の、慈愛に満ちたアナウンス。

 彰の網膜に、デジタル時計が大きく映し出される。カウントダウンが始まった。


『……30秒前』


 彼は深く、深く息を吸った。現実の肺ではない。だが、この仮想世界でそう意識することで、思考はよりクリアになる。


『……10、9、8……』


 ルーム全体が、白い光に包まれ始める。プレイヤーたちのアバターの輪郭が、少しずつ揺らぎ、光の粒子となって溶け出していく。


『……7、6、5……』


 世界が再構築される予兆。圧倒的なデータが流れ込んでくる感覚。彰は、その情報の奔流に意識を集中させ、これから送り込まれるであろう世界の初期情報を、一瞬でも早く掴み取ろうと神経を尖らせる。


『……4、3、2……』


 光が極限まで強まる。もはや、何も見えない。何も聞こえない。ただ、意識だけが、時空の奔流の中を突き進んでいく。


『……1』


 そして――。


『――START!』


 世界が、弾けた。


 *


 意識の浮上は、まるで冷たい水底から無理やり引き上げられるような、暴力的な感覚だった。

 最初に感じたのは、耳を打つ、単調で、しかし力強い音。ざあ……ざあ……と寄せては返す、波の音。次に、鼻腔をくすぐる、潮の匂いと、何かが腐ったような微かな悪臭。そして、全身に感じる、湿った砂の、ざらりとした不快な感触。


 相馬 彰は、ゆっくりと目を開いた。

 視界に飛び込んできたのは、どこまでも広がる、鉛色の空。分厚い雲が空を覆い尽くし、太陽の姿はどこにも見えない。陰鬱で、希望のない、荒涼とした光景。


「……っ!」


 彼は、すぐさま体を起こした。脳が揺れるような、わずかな目眩。フルダイブによる意識の強制転移の後遺症だ。だが、そんなものに構っている暇はなかった。

 状況を把握する。

 ここは、浜辺だ。黒く湿った砂浜が、視界の果てまで続いている。波打ち際には、朽ち果てた難破船の残骸が、巨大な獣の骸のように突き刺さっていた。


 そして、彼の周囲には、同じように砂浜に倒れていたプレイヤーたちが、次々と身を起こし始めていた。その数、およそ百人。待機ルーム6535にいたメンバーたちだろう。


「……なんだ、ここ?」

「おい、いきなり浜辺ってどういうことだよ!」

「チュートリアルはどこだ? NPCはいないのか?」

「バグか? これ、バグなんじゃないのか!?」


 混乱、戸惑い、そして不満の声。誰もが、何が起きたのか理解できずに右往左往している。豪華な神殿のような待機ルームから、この荒れ果てた浜辺への落差。あまりに唐突なスタートに、ほとんどのプレイヤーが思考停止に陥っていた。


 だが、彰だけは違った。

 彼は、迷わなかった。

 地面を蹴り、砂を巻き上げ、ただ一点、内陸へと続くであろう、崖の切れ目を目指して、全力でダッシュを開始した。


「おい、あいつ!」

「なんだよ、一人だけいきなり走り出しやがった!」


 背後から驚きの声が聞こえるが、振り返ることはしない。

 これが、イドラ・ダイナミクスが、超AIアルケイディアが用意したスタートだというのなら、それに最適化するまで。この混乱こそが、最初のふるい。ライバルたちを出し抜く、絶好の機会だ。


 走りながら、彼は自身の装備を確認する。意識を集中させると、視界の端に半透明のウィンドウが浮かび上がり、現在の装備が表示された。右手には、柄に汚れた布が巻き付けられた、錆びかけの手斧。左手には、数枚の板を荒く繋ぎ合わせただけの、粗末な木の盾。身にまとっているのは、ぼろぼろの革を継ぎ接ぎしただけの、防具とも呼べないような服だけだ。


(最悪だな。だが、全員同じ条件なら問題ない)


 思考を切り替え、前だけを見据える。

 崖までは、あと200メートル。砂浜は足を取られ、走りづらい。だが、彼は現実世界でのトレーニングによって、自分の体を効率的に動かす術を知っていた。体幹をぶらさず、重心を低く保ち、最短距離を突き進む。


 その時、彼の視界の隅に、自分と同じように、集団から抜け出して猛然とダッシュしている、もう一つの人影を捉えた。

(……俺以外にも、いるか!)

 状況判断の早いプレイヤー。あるいは、彼と同じように、この状況を「好機」と捉えた、貪欲な人間。彰は、わずかに好戦的な笑みを浮かべた。それでこそ、面白くなる。


 その人影は、彰の少しだけ前方を、並走するように走っていた。

 美しい銀色の長髪が、潮風に激しく流れている。その滑らかな動き、ブレのない体幹は、ただ者ではないことを示していた。女性だ。この極限状態にあって、その走り姿は、戦場のヴァルキリーのように、気高く、そして美しかった。


 二人の走るコースが、自然と交差する。

 並んだ瞬間、彼女が、ちらりと彰に視線を向けた。挑戦的で、射貫くような、強い光を宿した瞳。彰もまた、臆することなくその視線を受け止めた。


 ほんの一瞬、無言の時間が流れる。

 先に口を開いたのは、彼女の方だった。


「何か?」


 短く、そして、やや棘のある声だった。馴れ合いを拒絶する、明確な意思表示。


 彰は、わざとらしく首を横に振った。

「ううん、別に」


「……そう」

 彼女はそれだけ言うと、再び前方に視線を戻し、さらに走るペースを上げた。彰を引き離そうという、明確な敵意。だが、彰も負けてはいない。彼は、そのすぐ後ろにぴったりと食らいついていく。


 しばらく、二人のランナーの息遣いだけが、波音に混じって響いていた。

 やがて、彼女の方が、わずかに苛立ったような声で再び口を開いた。


「……スタートダッシュよ。誰よりも早く、最初のボスまでたどり着きたいだけ」


 それは、問いかけに対する答えのようでもあり、あるいは、ついてくるなという牽制のようでもあった。


「ああ、そうだ。アンタも?」

 彰の問いに、彼女は短く「ええ」とだけ答えた。


「じゃあ、お仲間かよ」彰は軽く笑いながら言った。「共闘するか? パーティ組んだ方が、効率いいだろ」


 これは、彼の本心からの提案だった。目の前の彼女は、明らかに他のプレイヤーとは違う。思考も、技量も、そして覚悟も。このような優秀なプレイヤーと一時的にでも手を組むことは、彼の目的達成の助けになる可能性が高い。


 しかし、彼女の答えは、彰の予想とは少し違っていた。

 彼女は、走る速度を一切緩めないまま、きっぱりと言い放った。


「うーん……臨機応変にしたいわね」


「臨機応変?」


「ボスがどんな相手かも、どんなギミックがあるかも、何も分からない状況でしょう? 下手にパーティを組んで、動きを縛られるのは得策じゃない。そう思わない?」


 その言葉に、彰は思わず口の端を吊り上げた。

 パーティの利点と欠点。それを瞬時に天秤にかけ、ソロの方が自由度が高く、結果的に効率が良いと判断したのだ。彼女の思考は、驚くほど彼と似ていた。


「ああ、確かにそうだ」


 彰は、楽しそうに、ニヤリと笑った。

 そうだ、その通りだ。他人に合わせる必要などない。信じられるのは、己の力と判断だけ。この女は、よく分かっている。


 彼女もまた、彰のその笑みを見て、少しだけ表情を和らげたように見えた。敵意ではない。好敵手に対する、共感とでも言うべき、かすかな変化。


 二人の間に、奇妙な連帯感が生まれる。

 そして、彼らが崖の切れ目を抜け、小高い丘を駆け上がった時、その光景は、眼前に広がった。


 古びた木材で組まれた、粗末だが頑丈そうな防壁。恐らく、あれが最初の村なのだろう。そして、その村の入り口、巨大な木の門の前で、一体の怪物が、凄まじい雄叫びを上げながら暴れ狂っていた。


 人間を、そのまま三倍ほどに巨大化させたような、筋骨隆々の巨漢。その肌は、病的な土気色をしている。肩まで伸びる髪は汚れ、脂で固まっていた。そして、その巨大な両手には、常人では持ち上げることすら不可能な、巨大な両刃の斧が握られている。巨漢は、その斧を赤子のように軽々と振り回し、村の防壁をめちゃくちゃに破壊していた。


 あれが、最初のボス。間違いない。

 すでに、何人かの先行プレイヤーが戦いを挑んでいるようだったが、その巨大な斧の一振りで、紙切れのように吹き飛ばされ、光の粒子となって消えていくのが見えた。


 彰と、隣を走る銀髪の彼女は、同時に足を止めた。

 ボスの圧倒的な威容を前に、二人の間に緊張が走る。


 彰は、右手に握った手斧の柄を、強く、強く握りしめた。

 そして、隣の彼女の顔を見ずに、挑発するように言った。


「じゃあ、臨機応変にいくぜ?」


 その言葉は、先ほどの彼女のセリフを、そのまま返したものだった。

 彼女は、一瞬だけ驚いたように目を見開いた後、ふっと、その口元に美しい笑みを浮かべた。それは、勝利を確信する、戦士の笑みだった。


「ええ、望むところよ」


 次の瞬間、二人の姿は、左右に分かれて弾けるように駆けだしていた。

 一億人が参加する、史上最大のゲーム。

 その最初のボスに対して、最初に有効な一撃を与えるのは、誰か。

 相馬 彰と、名も知らぬ銀髪の戦士。二人の、世界で最も早い共闘が、今、始まろうとしていた。

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